暇と退屈の倫理学 の商品レビュー
一周だけじゃ、評価もできないほど、難しかった 取り敢えず、刺激の数が人生で少ないとおもうので、頑張ってその機会増やす
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こういう本面白い!と思ったことは覚えている。 が、内容はすぐに忘れてしまう。 一時的に吸収できたからまあいいか。 でもきっと読み返したい。 帯の東大生がナントヤラみたいなのはダサいと思ってしまう。
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扱っているテーマにしたら読みやすくわかりやすい文章。これを応用するにはまだ咀嚼が足らないけど、環世界という考え方は興味深い。 暇と退屈の違い 時間的なもの感覚的なもの 退屈 何かにさせられている退屈 楽しめていない退屈 退屈 苦痛 退屈を忘れさせてくれる熱狂に逃げ込みたく...
扱っているテーマにしたら読みやすくわかりやすい文章。これを応用するにはまだ咀嚼が足らないけど、環世界という考え方は興味深い。 暇と退屈の違い 時間的なもの感覚的なもの 退屈 何かにさせられている退屈 楽しめていない退屈 退屈 苦痛 退屈を忘れさせてくれる熱狂に逃げ込みたくなる テロ、戦争… 退屈を恐れる 熱狂している人を賛美してしまう 人はそもそも考えたくない生き物 新しい体験 考える 苦痛 反復 慣れ 単なるシグナル 安心 平安は快楽 性欲ですら緊張からの解放が快楽 環世界の考え方 時間の捉え方は生物ごと、個々人ごとに違う ダニ 視覚も聴覚もない 哺乳類も血液も実は認識できていない 匂いと温度で理解している トカゲ 太陽も岩も認識していない 暖かさと体を支える台として認識しているのみ 人間 音楽家 物理学者 哲学者 それぞれの環世界を持っている 人間とさ学習により多くの環世界を行き来できるから苦しいし、退屈する 一つの環世界に浸れない 暇を退屈しない力が必要 楽しむ 楽しむには訓練が必要 芸術等々 ちなみに仮定の自然人は 記憶も所有もない ので服従もなければ暇も退屈もない 人間は本性で暇と退屈をするのではない ただ、人は平安を求めるために習慣化する 他者を通じて習慣化し記憶する 記憶するとそれは痛みとなり退屈になる なので退屈は備わっている人間の本性というより、人間の運命(習慣化するということにより発生する記憶 傷)である
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ハイデッガーの退屈三類型からの考察は、国分の丁寧な導きで、人間の生の暗い?深みをのぞかせていく。これは、第三類型の退屈の発見で、存在の無意味さへの終着を予感させた。 ところが、そこから国分は、第三類型からの脱却もまた思考停止(存在の無意味さからの逃避)であると喝破する。これがこの...
ハイデッガーの退屈三類型からの考察は、国分の丁寧な導きで、人間の生の暗い?深みをのぞかせていく。これは、第三類型の退屈の発見で、存在の無意味さへの終着を予感させた。 ところが、そこから国分は、第三類型からの脱却もまた思考停止(存在の無意味さからの逃避)であると喝破する。これがこの本の革新性である。 いわゆる自己啓発や中二的承認欲求がなぜ胡散臭く幼稚に見えるのか?それは存在の無意味さから目をそらすからだ。 暇と退屈という観点から人間存在を解析してみせた斬新さと、失速しない展開は、国分の知的胆力の成せる技である。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
暇と退屈っていう人生道草中でむだに自分と向き合わざるをえないほど膨大な時間を手にしてしまった自分にぴったりのタイトルで思わず手に取ってしまった。 哲学書だから自分の受け取り方が正解なのかは分からなかったけど、漠然と自分が感じてきたこととかが言語化されていくのは気持ちいい。最後の方に本書を通して暇と退屈に対する解像度を自分なりにあげれば成長だ(いいすぎ?)って言ってくれててそこは哲学初心者には救いだった! 第二形式の退屈、ちゃんと理解できてるかは分からんけど友達と飲んだり騒いだりしててもふと虚無を感じるあの時間なのかな〜とか考えた。 正直早く結論知りたいけどちゃんと順番踏まなきゃなとか思いながらこの本読んでたけど、その結論行くまでの感情も第二形式なのかと感じたり笑 物を楽しめるようになるっていうのはとても同意。実際例に挙げてたファイト・クラブにしてもただ映画を見るだけじゃなくて、本文中にあった映画を通して描かれた消費への向き合い方とかの話を知るとより見方も変わって楽しめるし。知識って面白いよね。 この本を読んだ後に思ったけど人生は死ぬまでの暇つぶしって人間が退屈とは切り離せないってことを端的に表してるよね。 部屋にじっとしていられるわけは無いから、どうかその暇を楽しめるように面白い気晴らしをしたいなとおもう。人間だから。
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著者が導く結論には1ミリも賛同できないが、どーでもいいことに焦点を当てて考え抜くプロセスは楽しい。暇つぶしにはもってこいだ。それに参照する哲学書の解釈が的確で端的に表現され理解しやすい。定住革命の話もなるほどと思った。 色々小難しいことを言っているが、退屈の原因は刺激を求める人...
著者が導く結論には1ミリも賛同できないが、どーでもいいことに焦点を当てて考え抜くプロセスは楽しい。暇つぶしにはもってこいだ。それに参照する哲学書の解釈が的確で端的に表現され理解しやすい。定住革命の話もなるほどと思った。 色々小難しいことを言っているが、退屈の原因は刺激を求める人間の本能にあって、常に新しい刺激を求めるのは、著者が言う通りすぐに刺激に慣れてしまう人間(動物)の能力によるもの、と言うのが自分なりの結論だ。 議論の土台となるハイデッカーの理屈はてんで話にならない。退屈の第二形式が重要な発見だと言うが、単にハイデッカーがパーティを楽しめなかっただけのことで、好きでもないことをして退屈するのは当たり前じゃん!何を言ってるんだろう。 また退屈の起源を環世界の移動に求めるのも違うと思う。環世界の概念そのものは理解できるし、それを人間にも拡張できることは賛同するが、環世界間の移行がそんなに大変で困難なものなら何故一つの環世界に留まっていることができないのか説明がつかないし、著者も説明していない。ただ「人間は一つの環世界に留まっていられないのだ」と言うだけである。その理由こそが退屈の原因であるのに、それを無視したら議論が深まらない。 今や万人が手元に常に暇つぶしのデバイスを携帯する時代である。昔は食事したり、歩いたりする時に退屈を感じることはなかったが、今やそれらの時間は退屈なものになってしまった。スマホの登場によって退屈を克服したつもりが、逆に退屈を生み出している。せっかくこの時代に暇と退屈を考察するなら、こういうパラドックスについて議論して欲しかった。
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まさにタイトル通り暇と退屈についての倫理学が展開されているが、その元は系譜学(人類史)、経済学、疎外、哲学、人類学、脳科学など様々なジャンルの著作や研究から導かれていて非常に興味深かった。一生手離さない本だと思います。自分も別の視点から倫理学を研ぎ澄ませたいと思い、刺激を大いに受...
まさにタイトル通り暇と退屈についての倫理学が展開されているが、その元は系譜学(人類史)、経済学、疎外、哲学、人類学、脳科学など様々なジャンルの著作や研究から導かれていて非常に興味深かった。一生手離さない本だと思います。自分も別の視点から倫理学を研ぎ澄ませたいと思い、刺激を大いに受けた。
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今年1番の衝撃を受け、新しいものの見方を得ることができた一冊であった。この春に受験戦争を終え、急速に暇を持て余すようになった私は暇に悩むようになった。この本は、東大生、京大生に1番読まれている本と謳われるように、確かに暇と退屈を感じる大学生が読むべきものであろう。この本は、漠然と...
今年1番の衝撃を受け、新しいものの見方を得ることができた一冊であった。この春に受験戦争を終え、急速に暇を持て余すようになった私は暇に悩むようになった。この本は、東大生、京大生に1番読まれている本と謳われるように、確かに暇と退屈を感じる大学生が読むべきものであろう。この本は、漠然と広がる「暇」や「退屈」という概念に対して、そのブラックボックスの中身を我々に提示し、そのからくりを説明するものであった。結論から言えば、特別に生活を大幅に変える必要は感じない。ただ、私を取り巻く暇や退屈との付き合い方が理解できた。
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結論はあまりピンとこないけれど、全体を読む中で「そうだったんだ!笑」になれる雑学が詰まっているのでおもしろいです。 資本主義の話とは切ってもきれない「何かをしなければ」という感覚にも触れて、ものを消費するのではなく浪費しよう、そうすれば物足りなさは和らぐ、、的な話もあり、、、 刺...
結論はあまりピンとこないけれど、全体を読む中で「そうだったんだ!笑」になれる雑学が詰まっているのでおもしろいです。 資本主義の話とは切ってもきれない「何かをしなければ」という感覚にも触れて、ものを消費するのではなく浪費しよう、そうすれば物足りなさは和らぐ、、的な話もあり、、、 刺激を避けたくて慣れようと努めるのに、刺激を求め続ける人間、、人は退屈から逃れることはできないけど、「なんとなく退屈」にいる時がいちばんバランスがいいらしいと解釈しました
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暇と退屈の倫理学だと? こちとら生活だけで手一杯だってのに、まったくいいご身分だぜ。そう思った人にこそ、この本を読んでほしい。 退屈というと、なかなか来ない電車やバスを待つときのような退屈をまず思い浮かべる。つまり、暇があってもするべきことが見つからないときの退屈である。しかし...
暇と退屈の倫理学だと? こちとら生活だけで手一杯だってのに、まったくいいご身分だぜ。そう思った人にこそ、この本を読んでほしい。 退屈というと、なかなか来ない電車やバスを待つときのような退屈をまず思い浮かべる。つまり、暇があってもするべきことが見つからないときの退屈である。しかし、現代人にとってもっともありふれた退屈は、暇があるわけではないのに──そして何かを一生懸命やっているにもかかわらず──感じている退屈なのだ。 私たちの日常は、やることで溢れている。平日は朝から晩まで働いて、休みの日には溜まった洗濯物を片付け、撮り溜めたドラマを消化し、スマホやテレビで最新情報をチェック。買い物にも行きたいし、ゲームだってやりたい。もちろん、スキルアップのための勉強も忘れない。こんなにもやることだらけなのに、どうして私たちは満たされないのだろうか。 いや、退屈して当たり前なのだ。もともと走り回って獲物を追いかけていた人類が、このような定住生活を余儀なくされているのだから。じっとしていられないから気晴らしが必要で、気晴らしだから退屈だと思ってしまう。人間が文化や芸術といった生存と無関係なものを夥しく生み出したのは、退屈を手懐けるための知恵でもあったのだ。だから退屈の中を生きることは、まともな人間の姿なのである(著者はハイデガーに倣って「正気」という言葉を使っている。「あるべき」とか「本来的」という言い方をしていないことに留意)。 退屈したっていいじゃないか、にんげんだもの。みつを。もちろん、これでは根本的な解決にはならない。じゃあ、どうすればいいのか。 現代社会は私たちに消費を強いてくる。私たちは物を消費していると思っているが、消費されているのはじつは記号や情報や観念である。私たちは美味しいものを食べているのではなく、「美味しいと言われているもの」を食べている。そうすることで「美味しいものを食べた」という観念を消費しているのである。 物には受け取れる限度がある。どんなに美味しい料理でも、腹一杯になったらそれ以上は食べられない。したがって、物は私たちをいずれ満足させる。しかし、観念では人はお腹いっぱいにはなれない。だからいくらでも消費できてしまう。そうやって私たちは、満たされることのない消費のゲームに付き合わされているのである(考えてみると、高級料理ほど量が少ないのは意地が悪い。簡単に満足されては困るのだ)。 読書も同じである。ブクログのユーザーならわかっていただけると思うが、私たちはなぜ本を読むのだろうか。教養を身につけるため? 頭が良くなるため? 話題に乗り遅れないため? いやいや、そういう下心のある読書は面白くない。当たり前だ。それは本を読んでいるのではなく、「本を読んだ」という観念を消費しているからだ。読書する意味がほしいだけなのだ。だから読書が退屈になってしまう。 人間と違って、動物が退屈しないのはなぜか。いや、動物だって退屈と無縁ではないのかもしれない。しかし、人間よりもはるかに退屈していないように見える。それは、動物が本能で生きているからだ。外からの刺激やシグナルによって突き動かされてしまうから、退屈している余裕がない。これに対して、人間は本能から離陸し、理性を手に入れた。それは自由と引き換えに、退屈をもたらしたのだ。だったら、理性を手放してしまえばいい。本能に身を任せるのだ。 いや、理性を捨てろと言っているのではない。あくまでも「一時的に」本能に従うのだ。たとえば、読書を楽しいものにするためにはどうすればいいか。ふらっと入った本屋で、一冊の本が何気なく目に留まった。立ち読みしているうちに夢中になり、思いがけず時間が過ぎてしまう。これは、前述した「観念を消費する読書」とはまるで違う。本能の赴くままに過ごしているからである。どうやらここに退屈を克服するヒントがありそうだ。これが私の結論。あとはそれぞれが自分の頭で考えてくれ。
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