暇と退屈の倫理学 の商品レビュー
暇とは 退屈とは 結局それは自分で見極めなきゃいけないのかもしれない。 暇を暇と思える感覚。 暇とは自由だという事を思い込む。 退屈との向き合い方。 退屈だと思い込んでしまった瞬間退屈だという感情に気づく。そこで自分にとっての退屈とはを知ることになるだろう。 一度読んだだけでは自...
暇とは 退屈とは 結局それは自分で見極めなきゃいけないのかもしれない。 暇を暇と思える感覚。 暇とは自由だという事を思い込む。 退屈との向き合い方。 退屈だと思い込んでしまった瞬間退屈だという感情に気づく。そこで自分にとっての退屈とはを知ることになるだろう。 一度読んだだけでは自分自身に落とし込むのは難関 日々の感じるところからスタート。 今自分は暇か?それとも退屈しのぎか?ただの気晴らしか?考えれば考えるほど答えはどこに? 自分に落とし込める日が来る事を思う。
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仕事帰りの電車の時間に、少しずつ少しずつ読み進めながら読了。一気に読むエネルギーは私の中になかったものの、とても読む価値のある本なのはずっと感じていたし、その印象は最後まで変わらず、結果読むことが出来て良かった。 ハイデガーのように、意志を持って意義あることに取り組むのがいちば...
仕事帰りの電車の時間に、少しずつ少しずつ読み進めながら読了。一気に読むエネルギーは私の中になかったものの、とても読む価値のある本なのはずっと感じていたし、その印象は最後まで変わらず、結果読むことが出来て良かった。 ハイデガーのように、意志を持って意義あることに取り組むのがいちばん!って思ったこともあったなあ。人間という生き物がいかに暇や退屈と無縁でいられなくて、それには一見無駄と思えるものなしに生きては行けないことなど、説得力ある言葉で書かれている。 暇と退屈だけではなくて、いろんなことに示唆に富むことが書かれてて、色んな気付きがあったので、読了できて良かったと思う。
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随分と長い時間をかけてしまった。すごくよく“わかる”感覚と“わからない”が、交互にきて“わからない”ところで多くの時間を使ってしまった。 本書はタイトルの通り、「暇と退屈」についてを学ぶ本。倫理学、とあるけれど(通読するとなぜ倫理なのか?ということがわかるわけだけど)多くの、そ...
随分と長い時間をかけてしまった。すごくよく“わかる”感覚と“わからない”が、交互にきて“わからない”ところで多くの時間を使ってしまった。 本書はタイトルの通り、「暇と退屈」についてを学ぶ本。倫理学、とあるけれど(通読するとなぜ倫理なのか?ということがわかるわけだけど)多くの、そして幅広い学問(そして、その道の“学者”の理論)の交差や重なりや違いを何重にも重ねていった先に、この本の言いたいことが出てくるという。途中、「で、これ何の話でしたっけ?」という場面には何回も出くわしました。 いくつか印象に残っている話はあり、ルソーとホッブスの「自然状態」に対する理論の違い(ルソーは自然に帰れ、とは言っていない、というのが面白い)、環世界をの話をもとにした人間と動物の区別、境界線はどこにあるのか?という話など。 ふと、ハイデッガーの第一形式の退屈、については、昔「社畜」という言葉で自分を自称して嬉々としていたころを思い出した。今は社畜という言葉は本当に嫌いな言葉だけど、当時はその言葉の醜悪さに気づかず、むしろ、その言葉に自ら囚われにいくような働き方、生き方をしていたのでまさに奴隷だったなと。 まとめとしては、暇を暇でなくする言葉に暇つぶしがあるわけだけど、つぶすのではなく、暇を暇として受け止め、暇に甘えるとか、暇に頼るとか、暇に会いに行くとか、そんな感覚で暇と向き合っていければ良いのかな、と思いました。
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韓国からカンボジアに向かう飛行機の中で読了。 この旅もまた、暇つぶし、気晴らしなのか。私の中の余剰時間を何か有意義に見えるもので埋めたい。 人は何かしていないと落ち着かない。移動生活は忙しかったが、定住生活は暇を生んだ。筆者の話はそこでは終わらない。 人間は、1人の中にたくさ...
韓国からカンボジアに向かう飛行機の中で読了。 この旅もまた、暇つぶし、気晴らしなのか。私の中の余剰時間を何か有意義に見えるもので埋めたい。 人は何かしていないと落ち着かない。移動生活は忙しかったが、定住生活は暇を生んだ。筆者の話はそこでは終わらない。 人間は、1人の中にたくさんの世界を持つ(環世界)→絶えず世界観を移動しながら生きる→ 新たな世界に出会ったら、そのひとつの世界に慣れるために努力する→ その世界に慣れたときに、退屈さを感じる→ 次の世界を求める→次の世界に出会う→ショックを受ける(自分なりの理解をすべく考える)→順応の努力をする→順応する→退屈さを感じる 。。。。をひたすら繰り返す。 より満たされて幸せに生きるためには、①暇を紛らわす何かを学び心から楽しむこと ②よく考えること であるらしい。 わたしが無意識に繰り返してきたことは、人間の性であったらしい。 読みたい本や理解したいこと、やるべき仕事があれば気は紛れる。だけど、手隙の時に感じる罪悪感。焦り。息苦しさ。何かしなければいけないような、だけど、なにをしていいのか思いつかない時の、不安な行き詰まり感。何にも目的や目標のない、自由な時間を楽しむことができない。それは何なのだろうと思ってきたが、この本で解が見えたように思われる。 毎日忙しく、決して暇な人生ではないけれど、もっと良い人生にできそうだ。生きていることを楽しみたい。 哲学者ってすごいな。こんなに抽象的に、一般化して、人生の普遍的な問題を解決している。
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30超こどおじ独身彼女たちなしと、生きてるのが退屈になってきたと感じこの本をとった。 本書は、なぜ暇で退屈なのか、そのためにどうしたらよいか?を作者が過去の哲学者や研究者の論文等を出しながら説明していき、結論まで導いていく。 哲学や倫理等には全く疎い人でも、身近な例等を出してく...
30超こどおじ独身彼女たちなしと、生きてるのが退屈になってきたと感じこの本をとった。 本書は、なぜ暇で退屈なのか、そのためにどうしたらよいか?を作者が過去の哲学者や研究者の論文等を出しながら説明していき、結論まで導いていく。 哲学や倫理等には全く疎い人でも、身近な例等を出してくれるため、頭にスッとはいりやすい。 また、作者の結論にもあるがこれは結論だけでは意味がなくなぜその結論に至ったのか?を知ることでより一層深い認識につながるため、読了後の満足感もある。 また後書きで触れている、 スピノザという哲学者のわかる感覚ということには大変腑に落ちた。 なんとなく退屈な人生だと感じている人におすすめ。
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ウサギ狩りをする人が本当に求めているものは? 冒頭の問いから早速引き込まれた。 暇と退屈に対する自分なりの考えを持つきっかけに間違いなくなる一冊! 自分なりの結論は以下! 人間は習慣化の生き物。 習慣化とは思考を避けること。 退屈を避けるには思考を楽しむことが必要。 すなわち、...
ウサギ狩りをする人が本当に求めているものは? 冒頭の問いから早速引き込まれた。 暇と退屈に対する自分なりの考えを持つきっかけに間違いなくなる一冊! 自分なりの結論は以下! 人間は習慣化の生き物。 習慣化とは思考を避けること。 退屈を避けるには思考を楽しむことが必要。 すなわち、思考を楽しむ習慣が答え!(哲学的…!)
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難しい内容だったけど、学びの多い本でした。 非常に面白い内容だけど言葉が難しく、少しずつ読み進めて、数日かけて読み終えました。 何度か読み返して理解したいのでまた読むと思います。
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哲学の本ということもあって、読むのに時間がかかったが、すごく興味深く面白かった。暇が戦争による破壊やギャンブルによる自滅などを生み出す可能性がある一方、暇を回避しようとすることは何かの奴隷になることである。本書では、この取り扱いの難しい「暇」について論じている。人間は常に暇の中に...
哲学の本ということもあって、読むのに時間がかかったが、すごく興味深く面白かった。暇が戦争による破壊やギャンブルによる自滅などを生み出す可能性がある一方、暇を回避しようとすることは何かの奴隷になることである。本書では、この取り扱いの難しい「暇」について論じている。人間は常に暇の中にいるのである。 結論としては、適度な暇を持ち(何かの奴隷になった状態ではなくて)、暇を楽しむ能力を身につけるてゆき暇を楽しむことが、人間らしく生きることである、とされている。貴族の楽しみは教養がないと楽しめないことを思い出せば良い。勉強が人生を豊かにすることも、当然である。 また、何かに囚われている状態(動物的状態)をコントロールできるようになることが理想的である。自分自身を破滅する可能性のあるものや、何か強制されたものに囚われることは危険だと言わざるを得ない。しかし、自分を捉えてしまいそうな経験に身を投げる(小説や旅行など)ことで、暇を忘れられるし、人生に楽しみが与えられる。
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※このレビューにはネタバレを含みます
ハイデガーの【退屈】 退屈の第一形式 (暇でありかつ退屈している)面白くない映画、何もない駅、のように、「何かによって退屈させられていること」。退屈の声を聞かなくて済むよう、何かやることを探し、気晴らしによってかき消す。 第二形式 (暇ではないが退屈している)なんとなく、なぜか、いつの間にか…楽しかったパーティーのはずなのに終わってみると時間を無駄にしたような退屈を感じる。気晴らしの状況そのものに退屈しているのではなく、その状況の中で自分自身が空虚(なげやり、周り任せ)になる。 第三形式 (なんとなく退屈だ)ここでは、周囲の状況も私たち自身も、すべてがどうでもよくなっている。なんとなく退屈だという声に耳を塞ぐことはできなくなり、自分に目を向けることを強制される。すると、「人間としての自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされる。この事態を切り開いていくための可能性を自分の名前に見出すことを強いられる」。あらゆる可能性を拒絶されている(どうでもよくなっている)が故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている。 ・・・・・・ 「なんとなく退屈だ」の感情に人間は自分の可能性を示される。 その可能性とは「自由である」という可能性である。 この段階ではまだ自由は可能性にとどまっている。ではそれをどう実現するか? それは、「決断することによってだ」。 ハイデガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。 「退屈はお前に自由をおしえている。だから決断せよ」 しかし決断とは、人を盲目にする。決断を欲する者は、ものや人との関わりを絶つからだ。 決断とは、心地よい奴隷状態に他ならない。 決断した後の人間はどうなっていくのか?決断したものは決断された内容の奴隷になる。 第一形式において日常の仕事の奴隷になっている状態にそっくりである。第一形式の状態も、その人間はもしかしたら、決断によって選び取ったかもしれないのだ。 決断する人間にも甚大な自己喪失がある、と言わねばならない。 第一形式と第二形式は、第三形式から生まれている。 普段第二形式→何かが原因で第三形式→自分は何かに飛び込むべきではないかと苦しくなり、第一形式に逃げ込む。(自分の心や体、周囲の状況に故意に無関心となり、ただひたすらミッションに打ち込む。 そのミッションの奴隷になることで安寧を得る。) 「なんとなく退屈だ」という苦しさの声が響いてくると、他に大きく鳴り響く世間の声を探す。その声に耳を傾けていれば、苦しさから逃れられる。そうして決断し、奴隷になることはこの上なく楽だ。しかも世間からも褒めてもらえる。 ハイデガーはそれを狂気と言ったのだ。好きで物事に打ち込むのとは訳が違うのだから。 「あれも、これも、できるのに、私はこんなことをしている…」という声は耐え難く、第一形式の構造へと身を投げ、第三形式と第一形式のサーキットの中に身を置くことになる。だから、気晴らしをしながらの第二形式を生きることが人間の「正気」なのではないか。 人間にとって、成長していくこととは、安定した世界を創造していく過程。 贅沢とは浪費。浪費は持ちきれなくなると贅沢になる。ものを受け取るとは、その物を楽しむことである。衣食住や、芸術を楽しむこと。楽しむことと消費は違う。楽しむ訓練、教養があれば、より深く享受できる可能性がある。 贅沢を取り戻すには、物を受け取れるようになるしかない。受け取って楽しむための訓練として。 退屈は、物を楽しむことができなかったからに他ならない。第二形式の中の【気晴らし】を存分に享受し、つまり人間を楽しむことが必要。 楽しむことは思考すること(思考を強制され退屈を感じない状態≒夢中)に繋がる。 自分は何に対して思考を強いられ楽しみを受け取ることができるのか。人はそれを楽しみながら学んでいく。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はその対象を受け取ることができるようになる。 退屈と気晴らしが入り混じった生、それが人間らしい、正気の人間の生。 暇=自由。その第一歩は、贅沢の中から始まる。
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※このレビューにはネタバレを含みます
暇は物理的なもの。退屈は精神的なもの。 かつて貴族の特権だった暇は、今や皆の悩みの種であり、暇をどう見せびらかすか?を争っている。(貴族の気晴らし=パーティ、今の気晴らし=趣味やバエ?) 暇と資本主義とは相性が良く、与えられたパッケージの気晴らしをあたかも自ら望んだかのように振る舞う。
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