中動態の世界 の商品レビュー
能動態で受動態でもない。 我々の行動は本当に能動的に発生しているのか。 ハンナ・アレント、スピノザのエチカなどの哲学者の考え方を参照しながら、自由と中動態の概念について迫っていく。 紛れもない良書。
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※このレビューにはネタバレを含みます
強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している状況は多々ある。ただ、これが中動態というわけではない。この本は「考古学」である。ものを定義しようと試みるような「哲学」でなく、哲学や言語学、歴史に埋もれていた「中動態」を発掘する意味で「考古学」である。中動態の「探索」である。國分功一郎さんは「暇と退屈の倫理学」でも思ったが、専攻は哲学にもかかわらず、別の学問的なアプローチの仕方がうまいと感じる。ネオリベ的、自己責任的、自由意志主義の価値感が徐々に解体しているように見える現代にこの仕事をすることは大変重要な功績だと思う。
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難しかった。 エピローグと最後のメルヴィルの小説『ビリー・バッド』の分析のところから推察するに、人間は自分や誰かの「意志」によって行動しているのではなく、自分も他人もなぜか分からないけれどある行動を「やってしまう(やらない、も含む)」ということにつきるのだろうかと思った。 これは...
難しかった。 エピローグと最後のメルヴィルの小説『ビリー・バッド』の分析のところから推察するに、人間は自分や誰かの「意志」によって行動しているのではなく、自分も他人もなぜか分からないけれどある行動を「やってしまう(やらない、も含む)」ということにつきるのだろうかと思った。 これは脳科学の世界なのかしら。 不思議。
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中動態という枠組みをつかって、物事を多角的に見ることができるんであって、常に中動態で居続けることはできないよね、って國分さんも仰っていた。自分の内からみなぎってくるものって、そう簡単に出会えないよね
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中動態について、イメージしていたものと少しニュアンスが違い、つかみ切れていないというのが正直な感想でした。能動他動との対比という構造からは、時間における効力的なものをイメージしていたのですが、読んでいるとそういうものでもないのかなと。言葉の歴史的経緯を読んでいくと認識の過程が見れ...
中動態について、イメージしていたものと少しニュアンスが違い、つかみ切れていないというのが正直な感想でした。能動他動との対比という構造からは、時間における効力的なものをイメージしていたのですが、読んでいるとそういうものでもないのかなと。言葉の歴史的経緯を読んでいくと認識の過程が見れるのかなとイメージしつつもどうしても自分の持っている認識にとらわれてしまうので難しいなと率直に感じました。もう少し他の本を読んでから戻ってこようと思いました、本棚に保存。
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感想 気づかなければ自分の意思。しかし病理や事故をきっかけに考える。世界の側からの働きに気づく。その気づきは何をもたらすか。
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「歩く」という行為一つ取っても、自分の「意思」で行動しているとは言い難い。 なぜなら、人は歩き方を選んで歩いている訳ではないし、身体の各部は意識からの指令を待たず、各部で自動的に連絡をとりあって複雑な連携をこなしているからだ。 どうなれば謝ったことになるか 「(略)……重要な...
「歩く」という行為一つ取っても、自分の「意思」で行動しているとは言い難い。 なぜなら、人は歩き方を選んで歩いている訳ではないし、身体の各部は意識からの指令を待たず、各部で自動的に連絡をとりあって複雑な連携をこなしているからだ。 どうなれば謝ったことになるか 「(略)……重要なのは、謝罪が求められたとき、実際に求められているのは何かということである。 たしかに私は『謝ります』と言う。しかし、実際には、私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。」 「意志は物事を意識していなければならない。つまり、自分以外のものから影響を受けている。にもか かわらず、意志はそうして意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなけ ればならない。この矛盾をどう考えたらいいだろうか?」 意思と責任は突然あらわれる 「責任を負うためには人は能動的でなければならないということである。受動的であるとき、あるいは受動的であらざるをえないときには、人は責任を負うものとは見なされない。」 「責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。」 「私が自分の手をあげる」とき、私の手があがる。ここに一つの問題が現れる。私が自分の手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、そこに残るのはいったい何か? 「主語がその行為を自らのためになす際に用いられる」……一般的な中動態の説明 「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」 「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対 立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。」p88 「彼は馬をつなぎから外す」 彼がその馬に乗ることを含意するならば中動態 彼以外がその馬に乗ることを含意するならば能動態 「言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。」p111 「ある単語の不在は、出発点ではないで結果である。たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言 語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、オオカミを特別に認識する必要をもたなかったか らに過ぎない。認識の必要だけでなく、さまざまな事例ごとにさまざまな事情があるだろう。」 過去の要因の総合としての「選択」 過去を断ち切るものとしての「意志」 「(略)……責任を問うためには、この選択の開始時点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始時点を私のなかに置こうとする。」 動詞はもともと、行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた。 プロアイレシス
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ある行為が「能動態(〜する)」か「受動態(〜される)」のどちらに分類されるかということは、その行為が誰によってなされたか、もっと言えばその行為の"責任が誰にあるのか"が定まることに他ならない。そうすることでぼくらや社会はいつも、何を誰がやったかを気にできる。 ...
ある行為が「能動態(〜する)」か「受動態(〜される)」のどちらに分類されるかということは、その行為が誰によってなされたか、もっと言えばその行為の"責任が誰にあるのか"が定まることに他ならない。そうすることでぼくらや社会はいつも、何を誰がやったかを気にできる。 いつもそのことに違和感を持っていて、ぼくらが育ちいま感じている環境は違うし周りの人たちとの繊細で複雑な関係性の中で、100%だれかに責任を押し付けられる出来事なんてないし、だれが善い/悪いなんて言えないと思っていた。 (以下引用) 一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だというのが一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。 * 外からのある要請に対して、どれだけ自分の本質に従い/抗って事を成すか。それはそのまま「自由」の議論へと繋がっていく。自分のやりたいことをやる、あるいはやらされる、それらを含めて本質に忠実に生きる、というある種の必然性が自由なんだとスピノザは言う。能動/受動に絡め取られずに、その自分自身だけの濃淡をいかに見極められるかが「自分の自由」を決める条件になる。 それは結局のところ、自分のできる/できないや、そこから何がやりたい/やりたくないをメタに見つめ続けるという営みでしか達成できないのではないかと思う。
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若い友達に勧められて読む。難しかったな。 中動態を生きる。環境の中にいるってことかな? 自分が今どれほど自由でどれほど強制されているな理解するのは難しい、法も まずは知って、考え方を改めるのか
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人間の行動の理由を、自分でやったか、させられたかの2項対立で考える以外に、やってしまった。ということもあるよねという話かな。 私は唯物論的(=外部環境に対して身体もしくは脳が反応として表れるのが行動)に考えるのだが、長期的で複雑な外部環境との対応から、意思を持ってやったとも、さ...
人間の行動の理由を、自分でやったか、させられたかの2項対立で考える以外に、やってしまった。ということもあるよねという話かな。 私は唯物論的(=外部環境に対して身体もしくは脳が反応として表れるのが行動)に考えるのだが、長期的で複雑な外部環境との対応から、意思を持ってやったとも、させられたとは一言では言い難い行動はあるというのは、その通りだと思うし、私自身の今ふくめて、社会の今を捉えたり考えるときに必要な視点だと思う。 なお、どうもWIKIPEDIAを読むと、言語における中動態の実際や歴史は、本書の記載とは違うという批判があるようだが、たぶん言いたいことありきなんだろうと思う。
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