中動態の世界 の商品レビュー
私でもあなたでも、その三人称でもない世界を考えるよいきっかけになる。言語学のアプローチを多用して、そもそもギリシャには中動態があったのにそれが時代とともに消えてしまったという。今でも再帰動詞にその名残はあり、言語学的にはまったく別系統の日本語にも見ゆ、聞こゆ、がそれに当たるという...
私でもあなたでも、その三人称でもない世界を考えるよいきっかけになる。言語学のアプローチを多用して、そもそもギリシャには中動態があったのにそれが時代とともに消えてしまったという。今でも再帰動詞にその名残はあり、言語学的にはまったく別系統の日本語にも見ゆ、聞こゆ、がそれに当たるという。後者はちょっとした発見だった。 言語学の歴史だけでも楽しめるのだが、本論である中動態に関しては自由意志は存在するのか、などは読み応えがある。スピノザの自由/強制の議論やコナトゥスの議論になるとやや難解にはなる。ここでついていけても最後の章でやや消化不良になってしまった。 本を読む前になぜ医学書院から出てるいるのかと考えた。その理由はあとがきでもわかるのだが。医師はそれこそ中動態で仕事をしている人たちなのだと理解した。
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『〈責任〉の生成』をさきに読んでしまったからというのはあるだろうけれども退屈だった。錚々たる顔ぶれを引用しながらそれぞれに中動態的な議論を認めていくのはいいのだけれども、それでなにかあたらしい結論が導かれて話が進むというのでもなく、おなじことを手を替え品を替え書いているだけのよう...
『〈責任〉の生成』をさきに読んでしまったからというのはあるだろうけれども退屈だった。錚々たる顔ぶれを引用しながらそれぞれに中動態的な議論を認めていくのはいいのだけれども、それでなにかあたらしい結論が導かれて話が進むというのでもなく、おなじことを手を替え品を替え書いているだけのようで、途中からだからなんだという気分になってきた。『〈責任〉の生成』があれだけ面白かったのは熊谷晋一郎のおかげなのだろうなあ。
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「意志」「能動性」などに対しての認識を改めさせられる本。 言語の進化を辿る部分が自分にはちょっと難しかった。
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すごい良書を読ませてもらったと思った。中動態の話についての本を読んだのはこれが初めてなので、自分にそれを客観的に判断できるかどうかはさておき。 語源を云々してどうこうということに疑問を持っていたが、見事な切れ味で中動態の歴史を考察し追跡するさまを見て感嘆した。それでも言葉か...
すごい良書を読ませてもらったと思った。中動態の話についての本を読んだのはこれが初めてなので、自分にそれを客観的に判断できるかどうかはさておき。 語源を云々してどうこうということに疑問を持っていたが、見事な切れ味で中動態の歴史を考察し追跡するさまを見て感嘆した。それでも言葉から少し離れてもいいんじゃない?と思ったりはまだちょっとしているけれど。 一つ思ったことは、スピノザのパートで触れたような意味での「本性の必然的なあり方」は人に知りうるのだろうかということだ。例えばそれまで日本で大人しかった人が海外に行って明るくなって帰ってくるということがある。その時、その人の「必然的なあり方」は変化の「前/後」のどちらであったのか。人はドラスティックな「学び」を経験することがある。 あるいはもっと極端な例でいうと、ブラックバスを近くの池に放し、ブラックバスがその必然的なあり方をすると……これは受動的なあり方かもしれないが。国際交流というものを考えると、それはただの冗談ともいい切れない事柄かもしれない。 中動態の話もスピノザの話も素晴らしいと思ったが、他者との関係の視点を組み込むともっと面白い気がする。それは必然的なあり方を捨てるわけではなく、人間に関していえば、他者と安定的な関係を結べる人は自身と他者の必然的なあり方、その双方を相互に理解しあっているということが大きな助けになりそうだから。 生産的な話なのか無意味な反論を述べているのかよくわからんが思いついたから残しとこ。 意志は過去の忘却というのは、自覚していたが改めて心当たりがありすぎる言葉である。それでも未来を夢を見ることはやめないけれども…。 実際のところこの中動態的な考え方をどのように社会に組み込めるのかということに興味がある。そういう考え方をすれば人は人を赦せるようになり、社会全体の暴力性が減少するのではないかと思っているからだ。通念に反して慈しみを持つものが最も勇敢なものであるとついこないだ思った。この本を読んで、さらに何か根本的に認識の体系を書き換えて、調和をもたらすそれを考えられるのではないかと、希望を持った。それはベイトソンが考えていたようなことでもないかと思う。 さあ、それはそれとして、この読書録との別れまであと一冊。やはり、今の状況は自分の精神衛生にも、なんかその他諸々にも、危うい。なんとも、予想外に短い付き合いだった。
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言葉とは、 神とは、 人間の意志とは—— 言語の「態」には”神の存在”や”人間の自由意志”が関わっているのだ…! 難しい本だったが、読了後にサブタイトル「意志と責任の考古学」に深く頷く 読んで良かった!!
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ザ・國分功一郎。 世界で誰がそんなところに斬り込む?というところを、『これ、面白くない?』とでも言わんばかりの好奇心に溢れた文体で以って読者を巻き込む力。これぞ、という一冊。人文学の魅力を余すことなく味わい尽くせる。 最終前章はスピノザ×中動態。最近出た新著、スピノザ、が楽しみに...
ザ・國分功一郎。 世界で誰がそんなところに斬り込む?というところを、『これ、面白くない?』とでも言わんばかりの好奇心に溢れた文体で以って読者を巻き込む力。これぞ、という一冊。人文学の魅力を余すことなく味わい尽くせる。 最終前章はスピノザ×中動態。最近出た新著、スピノザ、が楽しみになる章だった。 至福の読書時間でした。
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縦横無尽な本でした。 2、3、6章で取り扱うのは、中動態を巡る言語学です。 中動態は、古典ギリシャ語を勉強する中で腑に落ちなかったものの1つです。 このモヤモヤを解消するために本書を手に取ったのですが、狙いどおりすっきりしました。 中動態を主語が座となる過程を表すものとした上で...
縦横無尽な本でした。 2、3、6章で取り扱うのは、中動態を巡る言語学です。 中動態は、古典ギリシャ語を勉強する中で腑に落ちなかったものの1つです。 このモヤモヤを解消するために本書を手に取ったのですが、狙いどおりすっきりしました。 中動態を主語が座となる過程を表すものとした上で、中動態の意味を①自動詞、②自発、③受動、④可能のスペクトラムとする捉え方。 言われてみれば何てことはないのですが、大抵の言語ではそれぞれ別の文法範疇で説明されるので、根っこで繋がっていると認識しにくいのですよね。 こうした中動態が担ってきた表現内容を別の文法範疇で表すに際し、割り切れない部分が残ったため、実は歪みが生じてしまっている言語もあります。 ラテン語文法は古典ギリシャ語に比べてかなり体系的ですが、それだけに例えばデポネントが体系化しきれなかった中動態の名残だと説明されると、いかに自分が能動態と受動態との対立構造に囚われていたかが実感できます。 こうして言語学で得た考え方を足がかりに、本書は哲学に進んでいきます。 2章のギリシア・ローマの哲学者達、4章のデリダ、5章のアレント、7章のハイデッガーとドゥルーズ、8章のスピノザ。 ギリシア哲学において「選択」はあっても「意志」はなかったという話からはじまり、スピノザで終わるので、結論自体は驚くようなものではないのですが、自由や意志を巡る話は、やっぱり面白い。 とはいえ、複数の哲学者をつまみ食いして語っていくので、説明が丁寧であるとはいえ、きちんと理解しようとすると、読者への要求水準は相当高いように思います。 (実際、デリダやハイデッガーのあたり、私はちんぷんかんぷんでした。) 最期の9章は文学で〆。 言語学・哲学・文学は互いに深く関連する分野ではありますが、中動態を軸としつつ、これほど縦横無尽な議論が展開できる著者の能力には感服するばかりです。
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●中動態とは何か? 行為の結果が自分の内にある、非自発的な同意のもとでの行為。 (能動態は行為の結果が自分の外にあり、自発的な同意のもとでの行為(自分の本質に沿った行為)。受動態はその行為以外出来ないような強制力が働きする行為(自分の本質を失った行為)) ●言語によって意志...
●中動態とは何か? 行為の結果が自分の内にある、非自発的な同意のもとでの行為。 (能動態は行為の結果が自分の外にあり、自発的な同意のもとでの行為(自分の本質に沿った行為)。受動態はその行為以外出来ないような強制力が働きする行為(自分の本質を失った行為)) ●言語によって意志と行為が紐づけられた考え方をしてしまっている ○古代の言語は出来事を描写。今は「誰が・何をしたか(行為者とその意志)」を描写している。ただ、「誰かが・何かをする」と言う行為者とその意志と言うのは曖昧な存在。どの行為も背景(人格、感情、人生、社会、歴史)から「動かされている」。 ●自由のために中動態の世界観をもとう 人(世の中)はもともと多様な背景の元で動かされている中動態な存在。自由になるためには、その背景を理解して、その刺激により選ばされる選択を自分の本質に沿ったものにする必要がある。現代の言語描写により意志を軸とした考え方が染み付いている。ただ、意志は過去を切り捨てて未来のみを考える思考の仕方。その染み付いた考え方を超えて中動態の世界の視点をもつことが自由(本質に沿う行為が出来る)につながる。
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プロローグで紹介されるアルコール依存や薬物依存を代表的な例に、「能動」と「受動」という観念だけで人間の行動を説明できるのか、という問いへの答えを求めるべく、「中動態」という概念を提示する著書。本文は290ページほどの9章立て。 「中動態とはかつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく...
プロローグで紹介されるアルコール依存や薬物依存を代表的な例に、「能動」と「受動」という観念だけで人間の行動を説明できるのか、という問いへの答えを求めるべく、「中動態」という概念を提示する著書。本文は290ページほどの9章立て。 「中動態とはかつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく存在していた態である」。中動態は過去の文法のひとつであり、現在の受動態はこの中動態の派生であるとされる。中動態はその名が示すような「能動」「受動」の中間的な存在ではなく、過去に「能動態と中動態の対立は、能動態と受動態の対立に取って代られる」過程があったとされる。つまり中動態は、能動対受動とはまた別のパースペクティヴが自明だった事実を過去の文法の歴史が示した証でもある。 中動態と能動態の文法の特徴としては、能動態の動作が主語の外で完遂することを含意するのに対して、中動態では主語がある過程の内部にいることを示す。このような、能動態と受動態の「する」と「される」の対立とは異なった位相で浮かび上がるのは、能動対受動にある大きな特徴であり、人間の「意志」について強く意識させられる点である。対して中動態においては、「能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない」。 著者はこの中動態の概念を引用し、過去の著名な哲学者・思想家の著作や発言から、この中動態と類似するコンセプトを取り出して、説明しがたい能動と受動の外にある視点が、中動態によって容易に理解されうると指摘する。本書は能動と受動で説明される世界への違和感に端を発し、中動態という観念を用いて「意志」という考え方に固執するあり方に一石を投じている。終盤は議論をさらにスピノザ哲学にある自由へと発展させ、「中動態の哲学は自由を志向する」として、中動態を知ることは自由に近づくための希望だと締めくくる。 他の著書もだが、話の進め方で丁寧でわかりやすい。各章冒頭に用意さえている前章のまとめも理解を助けてくれる。同著者の『暇と退屈の倫理学』と『はじめてのスピノザ』を併せて読んだうえで、テーマを変えても著者の根源的な関心や主張は一貫していると感じた。核となるキーワードはやはり「自由」だろう。 能動と受動の捉え方として、本書の一節としてある「スピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた」という言葉は、「意志」に囚われる機会を減らすための現実的で有用なフレーズのひとつだと思える。
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