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中動態の世界 の商品レビュー

4.2

66件のお客様レビュー

  1. 5つ

    25

  2. 4つ

    18

  3. 3つ

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2021/01/10

3,8,9章あたりの盛り上がりが本当に良くて、興奮しながら一気に読んだ。この本を読んでから、能動と中動の対立、「原因(の原因)」や「変状」から日常を捉える思考に取り憑かれている。僕はスピノザ的な「自由」に近づくことができているんだろうか。 権力や意志をめぐる論旨もわかりやすい。例...

3,8,9章あたりの盛り上がりが本当に良くて、興奮しながら一気に読んだ。この本を読んでから、能動と中動の対立、「原因(の原因)」や「変状」から日常を捉える思考に取り憑かれている。僕はスピノザ的な「自由」に近づくことができているんだろうか。 権力や意志をめぐる論旨もわかりやすい。例えば、反出生主義なんかも、親から産み落とされた過去からの「切断」の意志なのではないかと思う。『ビリー・バッド』は絶対に読まなくては。

Posted byブクログ

2020/11/12

中動態って何なのか思い出せない。 メモを見ても思い出せない。メモを読むのは中動態?文字が書いてあるのが見えるのが中動態か。 「意味がわからない」というのは中動態っぽい。だとしたら、というその先のことが、書かれていたように思う。

Posted byブクログ

2020/09/28

ずっと読みたいと思っていたが、難しくて読めないだろうと思っていた。読み始めてやっぱり無理だわと思っていたら、第5章でハンナ・アレントが出てきたあたりから、なぜかグングン面白くなってきた。アリストテレス、ハイデッガー、スピノザとどれほど私に理解できているか分からないが、著者の解説に...

ずっと読みたいと思っていたが、難しくて読めないだろうと思っていた。読み始めてやっぱり無理だわと思っていたら、第5章でハンナ・アレントが出てきたあたりから、なぜかグングン面白くなってきた。アリストテレス、ハイデッガー、スピノザとどれほど私に理解できているか分からないが、著者の解説により、私の知りたかったことをこの人たちは語っている、みたいに調子良くなってきて、言葉を逃さないように、長文で抜き出しを行い始めた。いつもならここにそのまま載せるが、長文すぎるのと、引用の引用みたいなのが多いのと、自分の補足みたいなものを足さないと意味不明になりそうなのでちょっと無理。 スピノザの「受動から脱する」部分は最近接している仏教(タイ仏教)の教えに一致しているように思え、驚いた。この部分だけ抜いておく。  "スピノザはいかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると言っている。(略) 他人から罵詈雑言を浴びせられればひとは怒りに震える。しかし、スピノザの言う「思惟能力」、つまり考える力を、それに対応できるほどに高めていたならば、人は「なぜこの人物は私にこのような酷いことを言っているのだろうか?」「どうすればこのような災難を避けられるだろうか?」と考えることができるだろう。そのように考えている間、人は自らの受動の部分を限りなく少なくしているだろう。  他人の能力や実績を見て、ねたんでしまったときも、「どのようにして自分はこの人物をねたむに至ったのか?」と問いうるほどに思惟能力を高めていれば、妬みに占領されてしまった変状に変化をもたらすことができるだろう。  この意味では、罵詈雑言を浴びたらそのまま怒りに震えるとか、他人の高い能力やすぐれた実績を見たらそのままねたむといった、変状の画一的な出現を避けることがスピノザの『エチカ』では一つの大きな課題となっていると言ってもよい。" 260ページ 直後に書かれている「自由」に関する考え方も一致する(近い)のかもしれないが、悲しいことにちょっとそこはわからなかった。 頭がグルングルンした。書かれていることが理解できたのかと言われれば、ほとんど理解できていないかもしれないけど、グルングルンしたことは無駄ではなかったように思う。 それに何よりも精神的に救われた。例えば「感情が悲しみの方向に舵を切る」という表現。 私の悲しみや苦しみの元になるものが少し解明されたようで、慰められたような気もする。

Posted byブクログ

2020/08/13

能動か受動か。 確かに、この二択で事態を捉えている。 まず中動態を認識していないと、能動か受動かだけで言葉を解釈することになり、違う解釈となってしまう。 アルコール依存症の例示が大変わかりやすかった。 アルコール依存症は、自分の意思や、やる気ではどうにもならない。でも刑務所で...

能動か受動か。 確かに、この二択で事態を捉えている。 まず中動態を認識していないと、能動か受動かだけで言葉を解釈することになり、違う解釈となってしまう。 アルコール依存症の例示が大変わかりやすかった。 アルコール依存症は、自分の意思や、やる気ではどうにもならない。でも刑務所で講演会すると、努力すればやめられるという捉え方をされてしまう。 強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。能動か受動かという対立で物事を眺めるとこれが見えないという。 自身を思考する際の様式を改める。 中動態の世界を認識して、少しずつ自由に近づくとある。 自由って難しいですな。 身体、気質、感情、人生、歴史、社会、他の人々とつくり上げた関係ゆえに自由ではいられず行為を強制される。 自由に近づくために、中動態を認識する。

Posted byブクログ

2020/04/25

今は使われなくなったけど、「能動態」と「受動態」の「間」に「中動態」というのがある。その幻の「中動態」を見出す考古学、みたいな本。 なんだけど、この「幻の態」を求めてという神秘化が、ものごとをわかりにくくすると著者はいう。 でも、今ではわからなくなっている文法を探っていくとい...

今は使われなくなったけど、「能動態」と「受動態」の「間」に「中動態」というのがある。その幻の「中動態」を見出す考古学、みたいな本。 なんだけど、この「幻の態」を求めてという神秘化が、ものごとをわかりにくくすると著者はいう。 でも、今ではわからなくなっている文法を探っていくという探求の旅は、サスペンスみたいなワクワク感があって、面白い。 その探求のプロセスは、「読んでの楽しみ」にとっておくが、まずは失われた言葉や文法を探すということがどんなに難しいことか、そして、言葉を自然に話している文法が本になってなければ、それは失われていくということ。 そういうプロセスを経ながら、見出された「中動態」は、実は哲学がこれまで問題にしていたことと密接に繋がっているということ。哲学者もなんか表現したいのだけど、うまい言葉がなくて、説明が難しくて、難解な文章になってしまうのだが、それは「中動態」があれば、もっとシンプルに伝えられたのかもしれないみたいな話。 言葉や文法が私たちの思考を制約しているわけだが、といっても完全に制約することはできない。言葉ではうまく説明できないんだけど、なんかこういう感じがあるんだよね〜と考えて、それをなんとか表現しようとすることが人間にはできるんだね〜。 私にとっても、人間の主体とか、自由とかはもっとも大切な問いだと思っていて、決定論的な考えはいやなんだけど、なんでも自己決定できるというも変で、その関係で悩んできた。 セラピーとかの文脈でも、ここのところはとても大事なところ。 ちなみに、アーレントの議論が重要なところででてきて、アーレント好きのわたしとしては、うれしかったな。 アーレントの立てる問いは実に自分にとって重要なことが多くて、その問いへの接近の方法も難解ながら共感するところが多い。なので、答えもきっといいんだろうと思いつつも、なんか変な感じも残ることが多い。その辺の違和感みたいなのを丁寧に整理してくれるところもあって、なるほどの理解が進んだ。 こうしてこの本を読み終わってみれば、とっても当たり前のことが書いてあるという気になってくる。哲学というより、日常生活でそんな感じでやっているよね。なにかこれまで難しく考えていたんだろう?という気になった。 と思わせてくれるところが、著者の技なのかな?

Posted byブクログ

2019/09/11

能動と受動の態の対立以前には、能動態と中動態の対立があった。 視点は面白く、なるほどと思う反面、文法の説明がだるいのと、中動態の概念を手に入れたことで哲学者の難解な文献の意味が捉えやすくなるというだけだと少し物足りない。 もっと中動態のことを知りたいし、知ってどう活用できるのかを...

能動と受動の態の対立以前には、能動態と中動態の対立があった。 視点は面白く、なるほどと思う反面、文法の説明がだるいのと、中動態の概念を手に入れたことで哲学者の難解な文献の意味が捉えやすくなるというだけだと少し物足りない。 もっと中動態のことを知りたいし、知ってどう活用できるのかを知りたい。

Posted byブクログ

2019/03/18

私たちは「〜をする」「〜される」という二項対立の世界で生きている…ように思える。しかし、実はそうではない。能動と受動の対立は、実は文法から来ているのではないか?というのが、この本の出発点である。 文法の歴史を紐解くと、かつて中動態という概念があった。ここから中動態とは何か?なぜ今...

私たちは「〜をする」「〜される」という二項対立の世界で生きている…ように思える。しかし、実はそうではない。能動と受動の対立は、実は文法から来ているのではないか?というのが、この本の出発点である。 文法の歴史を紐解くと、かつて中動態という概念があった。ここから中動態とは何か?なぜ今使われていないのか?と考察が続く。 そして、中動態から発展して、ビリーの物語を通じて、自由意志があるかどうか、という本質的な問題を考えていく。 人は、言葉を覚えると、重要な概念は、カテゴリー化する。 カテゴリー化するのは、わけのわからないもの(カオス)に対処する為である。分類できれば、安心できる。 しかし、カテゴリー化とは厄介なもので、フィルターを作ったり、本来とは違う枠組みになってしまったりといった、デメリットもある。 まして、文法などのほぼ無意識に使っている考え方ならなおさらそうなってしまうだろう。 この本においても、そもそも能動・受動という考えで、今まで困ったことがなかったはずなのに、読んでいて自分の足場がどんどん崩れていった。 カオスは突然やってくる。足場が崩れたときにどうすべきか。そこに人となりが出てくると思う。この本を読んで、自ら崩してみてはいかがでしょうか?

Posted byブクログ

2019/02/18

「自己の本性の必然性に基づいて行動する者は自由である」  ほとんどの人が仕事をしてるけれど、自分の意思で入社したんだから仕事は「能動的に」している。しかし、仕事を「受動的に」やらされることもある。  こんな風に、”する”とも”される”とも言えない中動的なことはあふれてるのに、中...

「自己の本性の必然性に基づいて行動する者は自由である」  ほとんどの人が仕事をしてるけれど、自分の意思で入社したんだから仕事は「能動的に」している。しかし、仕事を「受動的に」やらされることもある。  こんな風に、”する”とも”される”とも言えない中動的なことはあふれてるのに、中動態は言語からは失われている。  英語とかでは能動態と受動態しかないけど、実は遥か昔には中動態というのがあって、その時には能動態と中動態が対立していたのであって、受動態は能動態の派生だった。さらに言うと、能動態だって中動態から生まれたかもしれない。  そんな感じで哲学や言語の中から中動態を探す、紀元前まで遡る壮大な探索の本。ギリシャ時代には意志という概念がなかったというのは驚いた。  出来事が私有化する、または行為を行為者の意志に帰属させる変化が言語の中に生まれたのは、きっと自然と自分の境界がなかった時代から、自然から自分が分離され始めるようになった時なんだと思う。そして、その変化が起きた時代は神がつくられるよりも前だったはず。人間は、まず自我を作ってその次に神を作った。  自我の後に神がくるということは、神の在り方は、実は自我によって変化する相対的なものとも言えるわけで、アーレントの考え方にそうと、神は善ではなく徳であるということになる。  スピノザの考え方にそって、中動態的であることは善であると言っても、徳がそれを罰することがある。徳とは時代の共通認識であり相対的なものだから、100%本人の責任としづらいような能動態的な中毒患者でも罰せられるのは、法律が徳として機能しているからである。  つまりは、そうせざるをえない原因があって行われた行為であっても、その行為が違法なのであれば徳の役割により罰せられることがあるということ。その線引きは時代が定めるものだから、これはなかなか興味深い。

Posted byブクログ

2019/02/09

・能動態と受動態という対立が生まれたのは「意志」が生まれたから。 ・能動と受動の差は、スピノザによると「自分の本質が原因となる部分」の質の差である。 ・意志は、過去を切断すること。忘却すること。 本来なら意志は選択に責任を「事後的に」与えるもの。 ・スピノザによると、「自己...

・能動態と受動態という対立が生まれたのは「意志」が生まれたから。 ・能動と受動の差は、スピノザによると「自分の本質が原因となる部分」の質の差である。 ・意志は、過去を切断すること。忘却すること。 本来なら意志は選択に責任を「事後的に」与えるもの。 ・スピノザによると、「自己の本性の必然性に基づいて行動するものは自由である」。 つまり、自分はどのような状態でどのように変容するのかを知ることが自由につながる。 そのとき、意志は自由を阻害する。 ∵意志は、過去を切断しようとするあまり、ものごとをありのままにみようすとすることを妨げるから。 中動態は自由を志向する。 ・相手に自分を見るとき、人は妬む。(スピノザ)

Posted byブクログ

2019/01/31

大半が言語学の発展史に割かれていた印象。終盤にあるの物語の章が秀逸。ABDで読んだのは正解だった。個人的に再読することは少なそう。

Posted byブクログ