河北新報のいちばん長い日 の商品レビュー
「ごめんなさいね、ごめんなさいね、僕たちは撮ることしかできない、助けてあげられないんだ...」東日本大震災によって自ら被災しながらも、地元紙として新聞を作り続け、被災者に情報を送り届け続けた河北新聞社の戦いの記録。 大災害の被災地で、どのように新聞社を機能し、情報を発信し続けた...
「ごめんなさいね、ごめんなさいね、僕たちは撮ることしかできない、助けてあげられないんだ...」東日本大震災によって自ら被災しながらも、地元紙として新聞を作り続け、被災者に情報を送り届け続けた河北新聞社の戦いの記録。 大災害の被災地で、どのように新聞社を機能し、情報を発信し続けたかという情報が、プロである新聞社の自らの手によってまとめられ出版されたことは、とても意味のあることだと思う。 必ず地震がくる国に住む我々、そして報道関係者は、この記録から学ぶことがあると思う。
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同じ日本で起こったことなのに、3年も経つと忘れてしまう。実際に経験していなければ仕方がないことなのかもきれない。 昨年末、岩手県の太平洋沿岸を訪ねて、ショックを受けた。そのままの家屋、何もない更地、仮説の店舗。でもそこで生活している人たち。 私なんて何にも出来ないけど、この現実を...
同じ日本で起こったことなのに、3年も経つと忘れてしまう。実際に経験していなければ仕方がないことなのかもきれない。 昨年末、岩手県の太平洋沿岸を訪ねて、ショックを受けた。そのままの家屋、何もない更地、仮説の店舗。でもそこで生活している人たち。 私なんて何にも出来ないけど、この現実を忘れてはいけないなと思った。 震災があったこと、どんな現実があってのか知りたくてこの本を手に取った。 菊地記者は今、どうしているのか。
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3月11日のあの日。例えば、命を落とした新聞販売店主。その一方で、助かった記者達。みんなそれぞれの立場で震災後の使命を全うしてゆく。第一線の記者、運搬に従事する者たち、新聞を配達する人達など。きわめて臨場感に富んだルポルタージュ。みんなの想いは熱い。本書を通じて、新聞がどんな風に...
3月11日のあの日。例えば、命を落とした新聞販売店主。その一方で、助かった記者達。みんなそれぞれの立場で震災後の使命を全うしてゆく。第一線の記者、運搬に従事する者たち、新聞を配達する人達など。きわめて臨場感に富んだルポルタージュ。みんなの想いは熱い。本書を通じて、新聞がどんな風にできるのかもよくわかる。そして、「被災者と共に」あり続けた河北新報という地域誌の使命と意義がひしひしと伝わってくる。
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東北の地元紙として、自分たち自身も被災しながら取材を続け、被災者への情報提供を絶やさないために奮闘した河北新報社は、3.11から1か月を機に、社員たちへのアンケートを実施した。その実践から生まれた本だ。個々人として、組織として、大災害をどう受けとめ対応したかふりかえろうという発想...
東北の地元紙として、自分たち自身も被災しながら取材を続け、被災者への情報提供を絶やさないために奮闘した河北新報社は、3.11から1か月を機に、社員たちへのアンケートを実施した。その実践から生まれた本だ。個々人として、組織として、大災害をどう受けとめ対応したかふりかえろうという発想そのものが、まさに当事者しか持ちえないものだと思う。 本書前半では、災害直後から発行を絶やさぬための尽力、そこに寄せられたライバル紙などからの支援、死体の転がる凄惨な現場に衝撃を受けつつ取材を行った記者たちの苦しみ、新聞を受け取った被災者たちの感謝・・・そうしたことが迫真の筆致で描写されていて、心ゆさぶるドキュメントになっているが、それだけであれば、しょせんは他人事として消費してしまいかねない自分がいる。 しかし、社員たちのアンケートをおさめた8章と続く9章は、「ひとりひとりが悩み苦しみつつ奮闘した物語」の集積として終わらせることを許さない問題を提示していて、ここにこそ本書の稀有な価値があるように思う。 仙台の読者から災害後1カ月にして「災害のニュースにはもう厭きた」と言われたという話は衝撃的だが、被災地の中ですら広がる温度差のなかで、自ら発信もできず静かにとりのこされていく被災者に寄り添う報道とはどういうことなのか、「がんばる姿」を伝え元気を出してもらおうというのは、こちら側の押しつけではないのか、取材がほんとうに被災者の助けになっていると言えるのか、という深刻な問いが提出されている。いったんは会社の指示で福島から退避した若い女性記者が、そのときの自分の対応に悩み続け、けっきょく退職を選んだという事実や、「SOS」信号の写真を掲載したことで一定の社会的役割は果たしえたという期待が思い込みにすぎなかったと思い知らされたカメラマンの話は、あまりにも重い。 それらは、「報道人として」という、ある種の保護膜を超えて個人の中に侵入してくる問いであるからこそ、容易に共有もされにくいが、しかし共に考えることがぜひ必要な問題なのだろうと思える。こういう形で刊行され共有されたことに感謝したい。
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被災地の新聞社でなければ、できないこと、やれること、そして考えたこと。あの日のことを忘れてはいけない。
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今年から神戸に通勤しはじめ、毎日の車窓から東灘区あたりの建物が皆新しいことに気づく。縁あって春休みには東北にも行った。なんとなく読まなければと思い、購入。壮絶。 デジタルは麻痺する…。 発生からしばらくのち、全国紙がこぞって一面に使った凄惨な写真を使うのか否かを紙面責任者たちは議...
今年から神戸に通勤しはじめ、毎日の車窓から東灘区あたりの建物が皆新しいことに気づく。縁あって春休みには東北にも行った。なんとなく読まなければと思い、購入。壮絶。 デジタルは麻痺する…。 発生からしばらくのち、全国紙がこぞって一面に使った凄惨な写真を使うのか否かを紙面責任者たちは議論し、結局は現場の記者に聞く。読者はもたないとおもいますと即答され、使わなかったというエピソードが印象に残った。地元と共に、というのはそういうことなのか。
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前から気になっていた一冊、図書館にて。 何かに急き立てられるように、読了しました。 東北に根差した地元新聞・河北新報の、 震災の日々を綴ったルポルタージュになります。 徹頭徹尾、「被災者に寄り添う新聞」であることを貫きながら、 様々な視点での多重的な現地ルポの積み重ねは、重く...
前から気になっていた一冊、図書館にて。 何かに急き立てられるように、読了しました。 東北に根差した地元新聞・河北新報の、 震災の日々を綴ったルポルタージュになります。 徹頭徹尾、「被災者に寄り添う新聞」であることを貫きながら、 様々な視点での多重的な現地ルポの積み重ねは、重く心に響いてきました。 焼け跡のない焼野原、そこから立ち上る「生の臭気」、 空撮カメラマンの後悔、福島配属の記者の懊悩、、 それらが圧倒的な「現実」として、迫ってきます。 決して正解を一つに集約できない、現実として。 情報を伝えるという事、事実を伝えるという事は、 ジャーナリズムの本質なのだと、感じます。 「われわれは皆被災者だ。誰かを責めることはするな。」 そして、記事を書くだけが新聞の仕事ではない、 情報を可能な限りに正確に伝えることが公益なのだ、とも。 そして、30年前の教訓を伝えきれなかったのではないかとの忸怩たる思いと、 次の30年後に備えるために伝えていくとの、との覚悟の模索をも。 その責任は報道機関だけに背負わせていいものではないのだろうと、 「自助、共助、公助」との言葉を思い出しながら、考えさせられました。
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発行から1年、震災から1年半、今読んでも言葉が出ない。 津波の映像はショッキングだったが河北新報は地元に密着し被災者の声を拾い続けた。 今日は20年ぶりに神戸に行ったが、震災の記憶は薄れて行くのか、当事者ではないのでわからない。 原発の対策は当然大事だが、実際の被害は圧倒的に地...
発行から1年、震災から1年半、今読んでも言葉が出ない。 津波の映像はショッキングだったが河北新報は地元に密着し被災者の声を拾い続けた。 今日は20年ぶりに神戸に行ったが、震災の記憶は薄れて行くのか、当事者ではないのでわからない。 原発の対策は当然大事だが、実際の被害は圧倒的に地震と津波そのものが大きかった。 できることからやってくべきなんでしょうね。
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中央メディアはあくまでも東京からの視点。地方の立場で情報を提供してくれるのはやはり地元メディアだ。東日本大震災で、河北新報は地元紙として重要な役割を果たしたと思う。一方で、隣県で起きた福島原発事故への対応にはやや他人事的な温度差を感じる。地方紙だからこそ、そのテリトリーがはっきり...
中央メディアはあくまでも東京からの視点。地方の立場で情報を提供してくれるのはやはり地元メディアだ。東日本大震災で、河北新報は地元紙として重要な役割を果たしたと思う。一方で、隣県で起きた福島原発事故への対応にはやや他人事的な温度差を感じる。地方紙だからこそ、そのテリトリーがはっきり出てしまうのだろうか。
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仙台に本社を置く東北ローカル紙「河北新報」が東日本大震災にあたって新聞を発行し続けた日々を自ら記録し編纂したもの。 電気がなくなりTVも携帯も使えない中、彼らが発行した新聞が被災者への重要な情報ソースとなっていた。記者だけでなく印刷や配送などに携わる方も含めて新聞屋としての使命...
仙台に本社を置く東北ローカル紙「河北新報」が東日本大震災にあたって新聞を発行し続けた日々を自ら記録し編纂したもの。 電気がなくなりTVも携帯も使えない中、彼らが発行した新聞が被災者への重要な情報ソースとなっていた。記者だけでなく印刷や配送などに携わる方も含めて新聞屋としての使命をあらためて感じたのではなかったか。新潟日報とのローカル紙同士の連携も素敵な話だ。またその一方、ある種の無力さにいたたまれない気持ちとなっていたということも伝わってくる。 次の日の見出しに「死者」を使うことがどうしてもできずに「犠牲」という言葉を使ったエピソードも胸を打たれる。 『遺体』ほど衝撃的ではないが、あの日のひとつの記録として。
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