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暇と退屈の倫理学 増補新版
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 太田出版 |
| 発売年月日 | 2015/03/01 |
| JAN | 9784778314378 |

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商品レビュー
4.4
161件のお客様レビュー
人間には退屈、虚無といった感覚がつきまとい、それらを消費で埋めようとすると、ますます社会の仕組みに操られてしまう。本書は、こうした構造から目をそらさず、退屈を引き受け乗りこなし生きていく哲学という体験を示してくれる。 読んでいて特に感じたのは、「人間であることはつらいけれど、そ...
人間には退屈、虚無といった感覚がつきまとい、それらを消費で埋めようとすると、ますます社会の仕組みに操られてしまう。本書は、こうした構造から目をそらさず、退屈を引き受け乗りこなし生きていく哲学という体験を示してくれる。 読んでいて特に感じたのは、「人間であることはつらいけれど、そのつらさを理解しながら試行錯誤し生きることで、人間を楽しむことができる」ということだ。試行錯誤するうちに、やがては動物のように一つの環世界に没入する瞬間をじぶんで選び取れる(と信じる)。それは逃避ではなく、成熟した没入の形であり、退屈から目をそらさずに生きるからこそ得られる生の喜びだ。 なお、本書の語り口は非常にやさしい。学部生向け講義がベースになっていることもあり、哲学の専門書にありがちな堅さがほとんどない。難しい概念を扱いながらも、なるべく平易な日本語に落とし込んでくれていて、読者を置いていかない姿勢が心地よい。読み終えてみると、著者が倫理学の第一歩をともに踏み出そう、と手を差し伸べてくれた感覚があって、なんだか素直にうれしくなった。他人にも勧めたいと思える良い本だった。
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我々は妥協を重ねながら生きている。 何かやりたいことをあきらめたり、何かやるべきことから眼を背けているだけではない。 どういうことなのか。なぜこうなってしまうのか。何か違う、いや、そうじゃないんだ…。そのように感じられる何ごとかについて、「まぁ、いいか」と自分に言い聞かせながら、...
我々は妥協を重ねながら生きている。 何かやりたいことをあきらめたり、何かやるべきことから眼を背けているだけではない。 どういうことなのか。なぜこうなってしまうのか。何か違う、いや、そうじゃないんだ…。そのように感じられる何ごとかについて、「まぁ、いいか」と自分に言い聞かせながら、あるいはむしろ、自分にそう言い聞かせるよう心がけながら生きている。 この本は、そうした妥協に抗いながら書かれた。自分が感じてきた、曖昧な、ボンヤリとした何かに姿形を与えるには、それが必要だった。 もちろん、妥協に抗うことは楽ではない。けれども、大きな慰めもあった。自分が相手にしている何かは、実は多くの人に共有されている問題であること、それどころか、人類にとってのこの一万年来の問題であることが分かってきたからである。 その問題は「暇と退屈」という言葉で総称されている。本書は、暇と退屈の問題への取り組みの記録である。問題は解決したわけではない。それどころか、いくつもの問いが残されたままである。 哲学の本であるとは、それがある問題を扱っていることを意味する。哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである。過去の哲学者たちも、各々が各々の問題を発見し、それに対応するべく新しい概念を作り出してきた。本書もまた新しい概念の創造を試みている。 人の生は確かに妥協を重ねる他ない。だが、時に人は妥協に抗おうとする。哲学はその際、重要な拠点となる。問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、「まぁ、いいか」から遠ざけるからである。 高度消費社会ー彼の言う「ゆたかな社会」ーにおいては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている、と。 いまとなってはガルブレイスの主張はだれの目にも明らかである。消費者のなかで欲望が自由に決定されるなどとはだれも信じてはいない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望を作り出す。 義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。 そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の腰が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。 なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。 だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か? こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。暇と退屈の倫理学>が問いたいのはこの問いである。 つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない。 この負の要素とは広い意味での苦しみである。苦しみという言葉が強すぎれば、負荷と言ってもいい。気晴らしには苦しみや負荷が必要である。 ならば次のように言うことができるはずだ。退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる、と。 私たちは普段、精神的・身体的な負荷を避けるために、さまざまな工夫を凝らして生きている。たとえば、長いこと歩いて疲れるのを避けるために自動車に乗る。だが、退屈すると、あるいは退屈を避けるためであれば、人はわざわざ負荷や苦しみをもとめる。苦労して山を歩き、汗びっしょりになって、「それをやろうと言われても欲しくもない」ウサギを追いもとめる。 つまり、パスカルの言うみじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことに他ならない。
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話題になっていたので手に取ってみて、まず分厚さに怯みましたが思っていたのと違っていてすごく面白かったです。 まずつかみ(まえがき)が面白い。 様々な思想家や哲学者の研究や論文などを引用して徹底的に、大真面目に「暇と退屈」について掘り下げています。 「定住革命」に始まり退屈の第一形...
話題になっていたので手に取ってみて、まず分厚さに怯みましたが思っていたのと違っていてすごく面白かったです。 まずつかみ(まえがき)が面白い。 様々な思想家や哲学者の研究や論文などを引用して徹底的に、大真面目に「暇と退屈」について掘り下げています。 「定住革命」に始まり退屈の第一形式から第三形式まで、とても分かりやすくて興味深い展開に筆者がまえがきに書いている通り、注釈はほぼ読まず一気に通読しました。 多分國分功一郎さんご自身がものすごく面白い人なんだろうと思います。 彼の講義を実際に受けられた学生さんたちが羨ましいです。 絶対面白いと思う。
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