暇と退屈の倫理学 の商品レビュー
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大学生活は退屈な日々が多かった。その退屈をサークルや飲み会で紛らわしていることにすぎなかった。「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けたくなかったからかもしれない。 本書は哲学の面白さがぎゅっと詰まった一冊であった。普段の生活では、“「退屈」「暇」とはなんだろうか?”ということなど考えたことはなかった。人の行動や気持ちの原因を考えることは楽しい。何回も刺さるものがあった。それを以下に備忘録として残す。 「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのために、わざわざ自分で不幸を招いている。」42 「退屈する心がもとめているのは、今日を昨日から区別してくれる事件である。ならば、事件はただ今日を昨日から区別してくれるものであればいい。すると、その事件の内容はどうでもよいことになる。」65 「時間とは何か?ー時間とは瞬間の連なりである。」306 考えること 376
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日常生活の中で暇や退屈を感じずにすむ、仕事や家事育児に没頭している「動物になる時間」も実は自分にとって大切なものなのだと気付かされました。 暇や退屈が今の世の中を作ってきたのかと思うと人間てすごい!マダニやトカゲの例も面白かった! 今日から楽しむ訓練をしていこうと思います。 出会...
日常生活の中で暇や退屈を感じずにすむ、仕事や家事育児に没頭している「動物になる時間」も実は自分にとって大切なものなのだと気付かされました。 暇や退屈が今の世の中を作ってきたのかと思うと人間てすごい!マダニやトカゲの例も面白かった! 今日から楽しむ訓練をしていこうと思います。 出会えて良かった本です。
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暇と退屈について多くの哲学者があらゆる角度から分析していることに驚いた。國分先生がバサバサと哲学者の論を切り、あるときは持論に加えながら最後に結論を述べる文章展開に脱帽。読み終えたとき、哲学書にエンパワーメントされるなんて思ってもなかったから不意に涙腺を刺激されて泣きそうになった...
暇と退屈について多くの哲学者があらゆる角度から分析していることに驚いた。國分先生がバサバサと哲学者の論を切り、あるときは持論に加えながら最後に結論を述べる文章展開に脱帽。読み終えたとき、哲学書にエンパワーメントされるなんて思ってもなかったから不意に涙腺を刺激されて泣きそうになった。決して易しくはないが、最後の最後に勇気をもらえる一冊。
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なんとなく感じてる今や退屈について、根拠を元に説明していて面白かった。 漠然と生きていることがもったいなく感じました。
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まず、第二章「暇と退屈の系譜学」でグッと心を惹かれた。遊動生活から人々が定住するようになったことで、能力の過剰⇒退屈が生まれたという論は目から鱗。さらに、ハイデッカーによる退屈の分析、ユクスキュルの「環世界」、環世界移動能力、フロイトの「快原理」と話が進むたびに、暇と退屈のメカニ...
まず、第二章「暇と退屈の系譜学」でグッと心を惹かれた。遊動生活から人々が定住するようになったことで、能力の過剰⇒退屈が生まれたという論は目から鱗。さらに、ハイデッカーによる退屈の分析、ユクスキュルの「環世界」、環世界移動能力、フロイトの「快原理」と話が進むたびに、暇と退屈のメカニズムがクリアになっていく。人間は退屈の第二形式の中、気晴らしと退屈の混じり合いの中で生きている。消費社会はそれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増す構造を作り出した。そのことは身をもって感じる。自分の仕事だってそれを助長している。しかし、悪用されないように、時には、あえて悪用されるような態度で、のらりくらりと第二形式の中で生きようと思った。日々の仕事(これは職のことには限らないのだろうが、職のことでもいい)に追われている人たちや、何者かにならなければと追い込まれる人たちは、第一形式=第三形式を生きている(時間が多い)。かつて自分もそうだった。今でも時々、その形式に足を突っ込みながらも、第二形式に居を構えられているような気がする。気づけば、環世界を変えることが好きな自分がいる。様々な事柄に「不法侵入」されることを好み、わざと「不法侵入」されに旅や散歩に出かける。時には大きな挑戦もする。そういった生き方が第二形式での過ごし方を教えてくれたのだと思う。最近は、この生活にも慣れてきた。また段々と第一形式=第三形式を生きる自分が現れ始めている。そんな苦しいときだって、また<動物>になれる日が来るんだと思わせてくれた。
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「退屈」というありふれた概念を哲学者たちが分析してるのが読んでて面白かった 退屈にキーワードに注目して読んでみたら 哲学者たちはとても頻繁に「退屈」を分析してることがわかった 色々な概念も分かりやすくて面白かった 環世界の概念が有用すぎる それをボクに初めて提示してくれたこの本...
「退屈」というありふれた概念を哲学者たちが分析してるのが読んでて面白かった 退屈にキーワードに注目して読んでみたら 哲学者たちはとても頻繁に「退屈」を分析してることがわかった 色々な概念も分かりやすくて面白かった 環世界の概念が有用すぎる それをボクに初めて提示してくれたこの本には感謝してもしきれない 原作(?)の『生物から見た世界』も読みたい 「どうしようもない」退屈の話題も面白かった
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暇を退屈せずに過ごしましょう。 ということかな。 違うか? 何となくわかったつもりで読んでみたけど、わかんない。 あと2回は読んでみよう。 一昔前は、ひまじんが尊敬される時代。 実は、今もそうなんじゃないかと思うけれども。 FIREした人は、尊敬の的だもの。 でも、現代人は、F...
暇を退屈せずに過ごしましょう。 ということかな。 違うか? 何となくわかったつもりで読んでみたけど、わかんない。 あと2回は読んでみよう。 一昔前は、ひまじんが尊敬される時代。 実は、今もそうなんじゃないかと思うけれども。 FIREした人は、尊敬の的だもの。 でも、現代人は、FIREしたところで、暇が苦痛になる所が異なっている。 私なんて、暇すぎる職場が苦痛で転職した経験あり。なんか、笑える。 教養は、楽しむことが目的だったという内容が、ハッとさせられた。資格とか稼ぎとかじゃないんだよ。 ニーチェとか、スピノザとか、ハイデッガーとか、馴染みの哲学が引用されていたので、まだ何とか読めた気がする。でも、難しい。 パスカルとルソーは、来年の課題。 気晴らしの中で気晴らしを探してる。
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重厚な内容だった。 メモをとりながらじゃないと作者の意図を読み取るのが難しいくらい。 哲学、世界史、社会学、生物学、人間科学、脳科学など様々な分野の著名人の著作を引用しながら「暇と退屈」を分析。 最終的には「倫理学」として結論を出す。 ①退屈について考える機会を持つこと。 大切なのは「理解する過程」。 本書の「通読」は〈暇と退屈の倫理学〉の実践の一端。 ②贅沢(消費ではなく浪費。)を取り戻す。(ハイデッガーの退屈の第二形式の気晴らしを存分に享受する。) 衣食住、芸術、芸能、娯楽を楽しむ能力を訓練する。 ※消費社会とは退屈の第二形式を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会のこと。 ③人が退屈から逃れるのは「人間らしい生活から外れた時」=〈動物になること〉。 環世界移動能力が高い=退屈。 「不法侵入」によって環世界移動能力は下がり、思考が必要となり「なんとなく退屈だ」はなくなる。 「楽しむ」ことは思考につながる。 楽しむためには訓練が必要。 「待ち構える」…自分にとって「不法侵入」となりうる、夢中になれる何かを探し当てる、〈動物になる〉心構えを持っておく。
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暇とは何か?人はなぜ退屈するのかを書かれた内容。 読む時間をあけてしまったからか、自分が頭悪いだけかもしれないが、正直途中から理解しづらかった。 説明が回りくどいと感じたのは自分だけなのか、、 メモ 生きるために移動しながら色々なことを、こなしていく遊動生活と余裕を持って物思いに耽り、調理の仕方を工夫する定住生活。余裕が退屈へと移行する。どちらの生活がよかったか悪かったの判断はできない。 暇=何もすることのない、する必要のない時間。客観的な条件。 退屈=何かしたいのにできないと言う感情や気分。主観的な状態。 暇=退屈ではない。退屈しているとき、必ず暇な状態なのか?必ずしも暇ではないのか? 第一形式の退屈 気晴らしをあとどれくらい続けなければいけないのか、時間がのろく感じる 時間をやり過ごすための気晴らし(木を数えたり) 期待する時間とじっの時間のギャップによって退屈させられる 例:列車の待ち時間で見ること木を数えたり 第二形式の退屈 その行為自体が気晴らし パーティ自 例:パーティの気晴らし(会話、葉巻、)をしていたがパーティ自体が気晴らしだった 第三形式の退屈 なんとなく退屈 全てがどうでもよくなっている→それゆえ、自分の持っている可能性にきづく 日曜日の午後に大都会の大通りを歩いているときにふと感じる退屈 なんとなく退屈大3の退屈から逃げるために、12が出てくる じぶんならもっとできるという理想とのギャップで退屈が起きる? 結論 下記結論に納得する為には本書を読んで考えること自体ご重要であり、結論だけ読むものでは無い ①退屈に対して、それぞれのやり方で切り開く必要がある ②退屈にならない為には、楽しむ訓練を受ける必要がある →食事を楽しむ(美味しい、美味しくない 古典を楽しむためには古典を知らないといけない 絵画を楽しむためには、絵画の歴史を知る 学ぶことで楽しみとして受け取ることができるようになる
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【なぜ読むか】 タイトルに惹かれたため。 哲学(考えること)が好きだから。 【感想】 前半と後半で思ったことが異なる。 ⚪︎前半 ハイデッガーが発見した退屈の第二形態の話を読み、自分が転職を決断したことも暇と退屈に耐えられず、奴隷になることを選択したからだと思った。そう俯瞰で...
【なぜ読むか】 タイトルに惹かれたため。 哲学(考えること)が好きだから。 【感想】 前半と後半で思ったことが異なる。 ⚪︎前半 ハイデッガーが発見した退屈の第二形態の話を読み、自分が転職を決断したことも暇と退屈に耐えられず、奴隷になることを選択したからだと思った。そう俯瞰で考えると実に自分が愚かで滑稽に思えてきた。人生は暇つぶし、気晴らしに満ちている。だとしたら(死ぬのは嫌だが)死にたくなる気持ちもわかってしまうと思った。 だって、自分のなすことは全て「暇つぶし」言い換えると「気晴らし」にすぎないのだから。 ⚪︎後半 結論を読んで、この本を通読して本当に良かったと思った。 結論は3つあったが、著者がこの本を通読しないと後半2つはわからない、と言ったのが頷ける #頷けることがそもそも、議論に置いていかれずについていけたことを示しているように思われ、より満足感を増した。 ①ああしなければ、こうしなければなどと思わなくていい ②人間らしくなろう 気晴らしを楽しめるようになろう。勉強して、目の前の事象・事物を味わえるようになろう ③動物的になろう 「とりさらわれる」にはどうしたらいいのか、とりさらわれの状態になれるような場所を把握しよう。 私は博物館巡りと旅行が好きだ。そして、以前日経新聞に「旅行が消費になってしまった」という記事や、インスタ映えに象徴されるような観光や、観光地が観光客向けに用意したコンテンツに反発を感じることが多かった。これは俺自身が保守派であることを示しているからなのか?新しい楽しみ方を拒否しているだけなのか?とも思うことがあった(ただ自分が捻くれているだけなのかな?と) しかし、そうではない。自分は旅を、博物館を浪費できている。気晴らしとして没頭できている。その土地について知ろうとし、味わおうとしているし、実際に味わうことができている。 何かを体験した時に「自分のフィルターを通して、言語化することが大切だ」となんとなく思っていたけど、それはコンテンツを消費する側ではなく、味わって浪費する側として自分自身が存在しているからだということがわかった。 また、読書もいろんなものを読むのが好きだし、新聞も幅広く読みたい、博物館もオールジャンル行く。そしてそこにずっといられる。それは、本書で言うところの「理解する過程」を私自身が大切にしているから。そのようにいろんなことに対して向き合って、自分の知性や本性を発見して自己理解を深めることが自分の日々の楽しさを作ることにつながっているのだと思った。 そんなふうに学ぶことが、世界を自分なりの切り口で切るための道具になるし、それによって日常的に俺は楽しめる訓練をしているんだと思った。無意識的にそういったことの大切さを理解していたのか、と俯瞰的な視点を獲得できた。 いろんなスキーマを持つことが、人生を楽しむことにつながるのではないか?という仮説が立証された気持ちになった。 また、結論で最後に述べられていた、退屈と向き合える人は他人に対する事柄を思考できるようになる、という言葉があったけど、これはまさに私がすごく共感している「ノブレスオブリージュ」の考え方だし、他者貢献ができることにこそ、生存価値を見出せるんじゃないか、という考えにつながっているように思われる。 補足資料で述べられていた「傷と運命」の最後にある人は生きていく中でサリエンシーに傷つけられ、傷跡(記憶)をおっていく。しかし、この記憶は1人で消化するには限界があり、他者を介して始めて消化できるものがある、という文脈があった。 私は他人と会うことで、他の人が生きてきたコンテクストで、その物事をどう解釈するのか、どう考えるのかを聞きたいと思うし、議論したいと思う。純粋な知識欲でそう思うのだが、それはつまり、他者を介して自分の記憶を消化し、自分を涵養していきたいという欲求なのだと思った。「人は、人でしか磨かれない」という言葉があるが、「人は、人で磨くこともできる」という言葉が適切なんだね。
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