サル化する世界 の商品レビュー
筆者のブログからこの本を見つけた。 朝三暮四 偶然にも3月までの上司が記していた便りにも この言葉が出てきた。 筆者が述べるように 自分もこの言葉通りになってはいないかと 自省する機会ともなった。 コロナ禍でばら撒かれた10万円。 マスク及びマスク券。 いずれも後から税とし...
筆者のブログからこの本を見つけた。 朝三暮四 偶然にも3月までの上司が記していた便りにも この言葉が出てきた。 筆者が述べるように 自分もこの言葉通りになってはいないかと 自省する機会ともなった。 コロナ禍でばら撒かれた10万円。 マスク及びマスク券。 いずれも後から税として取られることは 分かってはいるものの やはりサル化してないだろうか。 人口減少を襲うハゲタカ問題の説は 何度も読み返しておきたい。
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自分さえよければいい、今さえよければいいということがまかり通るようになってしまった今、そして、ちょうどこの先が見えないコロナ禍の中でもますます加速化していくだろう、シンプルでわかりやすい単一解を求める風潮に、疑問を呈し、立ち止まって再考させてくれる1冊。 成熟するというのは、「...
自分さえよければいい、今さえよければいいということがまかり通るようになってしまった今、そして、ちょうどこの先が見えないコロナ禍の中でもますます加速化していくだろう、シンプルでわかりやすい単一解を求める風潮に、疑問を呈し、立ち止まって再考させてくれる1冊。 成熟するというのは、「複雑化」することである、「他者とともに生きるための理法」を「倫理」というのだというようなお話に考えさせられた。 そう、誰かが困っている時に手を差し伸べられる、支えられるセーフティーネットがあれば、自分が困った時にも救われるのだ。そのほうが「私」が生き延びられる確率は高まる。 今、注目されている「利他主義」とつながるのだろう。 そして、「気まずい共存」の意義。多数決で決まったことが「正解」ではない。特に政治の世界では、「公人」は自分の反対者も含めた集団を代表しなければならない。論破や打倒というのでは、いつまでたっても成熟していかない。それぞれの意見を何とかくみ上げ、それをすり合わせる。これは、本当に大変なこと(絶対に疲れるし!)だけれど、でもやらなくてはならない。その結果、出てきたもんおが「どっちつかずで、ぱっとしないもの」であろうとも、それでいいのだ。みんなが同じ程度に不満足であるというところがあるのも民主主義の「落としどころ」なのではないかというような話にも、うならされた。 今、大事なのは、自分とは考え方や価値観が違う人たちともコラボレーションできるようになること。「自分らしさ」の追求なんて、しなくていい。変わっていくこと、違っていくことこそ、順調に成長しているということなのだ。「自分らしさ」の罠に陥らないように、どんなにしんどくても、自分と相性が悪い人とも、なんとかやっていくことこそが必要なのだな。 教育活動は、「個人のではなく、集団の営みである」ということも心に留めておきたいと思う。
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朝三暮四の故事を、歴史の欠如と読み解き、 過去も未来も顧みず「今さえよければ」という風潮に 継承。 瀬知山角も指摘していたが、植林をせずに 伐採し続ける林業家が、現時点では 最大の利益を上げる。 哲人王は現れないので、仕組み作りが 問われると感じた。
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「タイトル」がすごく気に入ったもので、読んだ。 「内容」はさらに気に入ったものだった。というより、 この本に出会え、たくさんの「考える」刺激をもらったことに、感謝、感謝。 いっぱい、本から引用したいが、あまりにも面白く、引きつけられてしまったので、その時間を持つゆとりもなく読了し...
「タイトル」がすごく気に入ったもので、読んだ。 「内容」はさらに気に入ったものだった。というより、 この本に出会え、たくさんの「考える」刺激をもらったことに、感謝、感謝。 いっぱい、本から引用したいが、あまりにも面白く、引きつけられてしまったので、その時間を持つゆとりもなく読了してしまった。 一つだけ引用する。 〈本から〉 気まずい共存について オルテガ・イ・ガゼットというスペインの哲学者がおりましたが、この人がデモクラシーとは何かということについて、非常に重要な定義を下しています。それは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ということです。これはデモクラシーについての定義のうちで、僕が一番納得のいく言葉です。どれほど多くの支持者がいようが、どれほど巨大な政治組織を基盤にしていようが、自分を支持する人だけしか代表しない人間は「私人」です。「権力を持った私人」ではあっても、「公人」ではありません。「公人」というのは自分を支持する人も、自分を支持しない人も含めて自分が所属する組織の全体の利害を代表する人間のことです。それを「公人」と呼ぶ。なぜか、そのことがいつのころからか日本では忘れ去られてしまった。
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民主主義とは何か 「敵と共生する、反対者とともに統治する」 オルテガ・イ・ガゼット 権力を持った私人か、組織の全体の利害を代表する公人か。
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https://www.silkroadin.com/2020/05/blog-post_28.html 「朝三暮四」飼っているサルに今まで朝夕4つずつ与えていた実を朝3つ、夕4つにすることを伝えるとサルは少ないと怒り、 それでは朝4つ、夕3つではどうかと問うとサルは大喜びし...
https://www.silkroadin.com/2020/05/blog-post_28.html 「朝三暮四」飼っているサルに今まで朝夕4つずつ与えていた実を朝3つ、夕4つにすることを伝えるとサルは少ないと怒り、 それでは朝4つ、夕3つではどうかと問うとサルは大喜びしたと言います。 目先の考えだけで、未来に起こる利益の損失やリスクを感じることが出来ない人たちが増え、世界がサル化しているという主張が本書のタイトルでもある「サル化する世界」です。 今が良ければ、自分さえ良ければのような近視眼的で自己中心主義により失われた秩序と倫理。 処罰されない状況でどのように振舞うか、人間の本性が可視化される局面という言葉に力強さを感じました。 また、自分の取り分を増やすことをやめて総和を増やすことなど、 私利の追求を抑制し、私有財産の一部を差し出すことで、はじめてそこに「みんなで使えるもの」が生まれる。私人たちが持ち寄った「持ち出しの総和」から「公共が立ち上がる」(引用、サル化する世界/内田 樹/文藝春秋) 本書はサル化する世界の様々な問題にどう向き合うかわたしたちに問いかけ、解決方法を示します 。 サル化する世界/内田 樹/文藝春秋 是非ご覧ください。
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名著です。タイトルにもなっている冒頭の文章だけでも読む価値あり。個人的には「比較敗戦論のために」が好きです。
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自分が良ければそれでいい、という考え方は人間ではなくサルであるというまえがきから始まる本書。今の世の中、とくにこの日本という国の舵取りをしている(つもりになっている)連中の浅はかで戦略もまるでないということがよく分かる。 教育はそもそも身銭を切ってやるものだという考察にも合点がい...
自分が良ければそれでいい、という考え方は人間ではなくサルであるというまえがきから始まる本書。今の世の中、とくにこの日本という国の舵取りをしている(つもりになっている)連中の浅はかで戦略もまるでないということがよく分かる。 教育はそもそも身銭を切ってやるものだという考察にも合点がいく。学位だけを与えるために設立された大学はどこも立ち行かなくなったという話も、ビジネスと教育は食い合わせが悪いということを示す事例だろう。また、教育に口を出す者ほど、この国の教育がどうなろうと知ったことか、という態度であるという。 この国には豊かな自然環境や国民皆保険制度、また、国民のモラルなどという資源があり、もとより一朝一夕で無に帰すほどの浅さではないのだが、ここ数年、これを管理するやり方が杜撰過ぎたために退廃しつつある、という見方も肯ける。
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内田樹の感性は好きだし、本質をついている主張が多い。 世の中が、短期志向になりつつあるという主張は、うなづけるところが多い。巨額の財政赤字は、その典型だと思う。 どうすれば?ということに、短期的な視点で提言を行うことは、それ自体がサル化的。
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まだ読書中ですが、ズガーンときたことろを… 「(中略)子どもたちをその文化的閉域から解放するために武道を教えているわけです。君たちは学べば、ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方ができるようになる。その「別の身体」から見える世界の風景は君たちがふだん見慣れたものとは全く違うも...
まだ読書中ですが、ズガーンときたことろを… 「(中略)子どもたちをその文化的閉域から解放するために武道を教えているわけです。君たちは学べば、ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方ができるようになる。その「別の身体」から見える世界の風景は君たちがふだん見慣れたものとは全く違うものになる。それは外国語を学んで、外国語で世界を分節し、外国語で自分の感情や思念を語る経験と深く通じています。自分にはさまざまな世界をさまざまな仕方で経験する自由があること、それを子どもたちは知るべきなのです。 結局、教育に携わる人たちは、どんな教科を教える場合でも、恐らく無意識的にはそういう作業をしていると思うのです。子どもたちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らが「これが全世界だ」と思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界はもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。」 この「檻」という表現がまさに自分自身の感じている少しの息苦しさのようなものにあまりにもマッチしていて、そして自分もまさにこうありたいと、そして全ての子どもたちにこうあってほしいと願わずにはいられなかったのです。 私自身はもういい大人なのですが、残念ながら子ども時代には自分の住んでいる場所、自分と関わりをもっている人(しかもある程度自分に寛容な人)、自分の経験したこと自分の身の回りで起きた出来事、が間違いなく「全世界」でした。 それは大人になってからも変わらず、「檻」に囚われていることを知らずに幸せに過ごしてきました。しかしここ最近、英語や世界史に興味が向くようになり、(おそらくきっかけはさまざまですが)自発的に「別の身体」を手に入れるために行動するようになり、そこで得た「身体」をもって今までの自分の思考を振り返ることで、自分がいかに狭い世界で生きていたかを知ったのです。ほとんど偶発的だったと思います。興味の対象が英語や世界史などだったこと、そして昨今の世界の状況などが手伝い、この「檻」の恐ろしさと危うさ、そしてもっと恐ろしいのは檻を檻とも思わずにそれを幸せと思いながら生きていくことなのだと痛感しています。そして、人々が思考をやめ「檻」の中での安寧に生きるということは共同体の衰退を意味します。そして、それこそ今まさに起こっていると内田さんが警鐘を鳴らす「サル化」なのではないでしょうか。 書き始めは、この「檻」と表現されることで言語化され認識できた自身への理解の喜びや高揚感を感じていましたが、今は同時に多くの人が「檻」から出ていくための道具を手にし、自分を囲っているものの小ささに気付き、共同体のこれからのために力を合わせて生きていけることを願ってやみません。
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