中動態の世界 の商品レビュー
僕たちは知らぬ間に、中学で学んだ「受動か能動か」という二分法に、思考を蝕まれていた? 歴史ミステリーを紐解くような快感と、「確かにそういうことって普段の生活でありふれてるよね」という実感が押し寄せる珠玉の哲学の旅。
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「能動」というのは僕にとってよくワカランもののひとつだ。そんななんもかも自由意志によって決定を強いられているという考え方が馴染まない。というか、疲れないかそれ? 僕の知る人間はもっと惰性で生きている。周りを見ると重要に見える決定ほど「成り行き」とか「なんとなく」で起こっているよう...
「能動」というのは僕にとってよくワカランもののひとつだ。そんななんもかも自由意志によって決定を強いられているという考え方が馴染まない。というか、疲れないかそれ? 僕の知る人間はもっと惰性で生きている。周りを見ると重要に見える決定ほど「成り行き」とか「なんとなく」で起こっているような気がしてしまう。 國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」は読んだことがあったし、そこで語られるテーマはその時の僕の考えていたことにも重なった。 今スピノザを僕なりに読み解いていて、そこから國分功一郎がスピノザの研究者だと知りまた舞い戻ってきた感じ。 たしかにスピノザは人間の自由意志を否定しているように思える。でも受動は退けるべきもの、能動は目指すものとして描かれている。スピノザの考える「能動」の概念についてもっと知りたい……そういう想いで手に取った本書。 読み終えてから時間が経ってしまったので、なんとなくの印象で…… と思ったけど思い出せん。
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第5章と第8章がよかった。 意志とそれに類似したものの違いを切り分けたのは見事。 スピノザの内在的神を中動態で説明したのは見事。 責任によって我々の世界は能動態と受動態という世界を創り上げている。でも、それは、たまたま今現在の社会がそういうふうにできているからであって、必然...
第5章と第8章がよかった。 意志とそれに類似したものの違いを切り分けたのは見事。 スピノザの内在的神を中動態で説明したのは見事。 責任によって我々の世界は能動態と受動態という世界を創り上げている。でも、それは、たまたま今現在の社会がそういうふうにできているからであって、必然ではない、ということを示してくれている。
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冗長的で飽きてしまった。何をこうくどくどと語る必要があるのかよくわからなかった。 意思とはかなり曖昧な概念。責任を負わせて良いと判断された習慣に意思という概念が現れる。 能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示す。 中動では、主語は過程の内部にある
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能動態、受動態では語り得ない概念である中動態が、かつてあったこと、その実態と現代おける再認識の意味について。興味深い。
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ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』経由で読んでみた本。 人の話す言語はその人の人格に影響をあたえるっていう考え方をわりと信じている方なので興味深かった。能動でも受動でもない、中動態。 使い分け方に昔の人の人生観が出ているよう 能動態は主語の外で完遂するもの(曲げる、や与える) ...
ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』経由で読んでみた本。 人の話す言語はその人の人格に影響をあたえるっていう考え方をわりと信じている方なので興味深かった。能動でも受動でもない、中動態。 使い分け方に昔の人の人生観が出ているよう 能動態は主語の外で完遂するもの(曲げる、や与える) 中動態は主語の中で過程にある(生きるや死ぬ) しかし在る生きるは能動態にカテゴライズされる (自分の中において完遂されるものではないと定義されている)
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第5章 意志と選択は、興味深かった。 分かりやすく言語化されているはずだけど、悲しいことにかなり理解不能、、、何年か後に、熟読したい。 リベルム・アルビトリウムは理性の指導や欲求の誘いに基づいて行われる選択である。p128 日常において、選択は不断に行われている。人は意識し...
第5章 意志と選択は、興味深かった。 分かりやすく言語化されているはずだけど、悲しいことにかなり理解不能、、、何年か後に、熟読したい。 リベルム・アルビトリウムは理性の指導や欲求の誘いに基づいて行われる選択である。p128 日常において、選択は不断に行われている。人は意識していなくとも常に行為しており、あらゆる行為は選択である。選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。・・・ 意志と選択は明確に区別されなければならない。p131 選択とはこの世界に満ちあふれている事実である。・・・ あらゆる行為は選択である。p131
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衝撃的な一冊。普段感じる能動でも受動でもないモノを追求して構造化・言語化しようとしている。文法論からスピノザまで大風呂敷を広げた上で、真の自由とは何かを追求した1冊。 私は謝りますと言う。しかし実際には私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが...
衝撃的な一冊。普段感じる能動でも受動でもないモノを追求して構造化・言語化しようとしている。文法論からスピノザまで大風呂敷を広げた上で、真の自由とは何かを追求した1冊。 私は謝りますと言う。しかし実際には私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。 出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。 能動と受動を対立させる視点が意志の概念に直結する。 ソクラテス以前の哲学者は、彼らの哲学そのものが素晴らしかったわけではなく、彼らがその中で息をしていた言語が、能動と受動に支配された、尋問する言語には転換しきっていない、中動態的なものを宿す言語だった。 能動と受動に支配された言語は行為の帰属を問う言語。つまり意志の概念と強く結びついている。 原因と結果の関係は、働きかけると働きを受ける、の関係であることをやめて、原因が結果において自らの力を表現する、という関係になる。 われわれの変状が我々の本質によって説明できるとき、われわれの変状が我々の本質を十分に表現しているとき、我々は能動である。逆にその個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現している。その場合にはその個体は受動である。スピノザは能動と受動を方向ではなく質の差として考えた。 純粋な能動にはなりえない。能動は、個体が受ける刺激の種類や量、その力としての本質に依存する。個体の本質は固定的ではなく、力の度合いであって、高まることも弱まることもある。だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動は二者択一ではなく、度合いをもつもの。純粋な能動にはなることはできないが、受動の部分を減らして能動の部分を増やすことはできる。 自由は必然性とは対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由である。自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識する(自分はどのような場合にどのように変状するのか)事が自由に近づく第一歩。
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【自由もであり自由もでなく】過去のある時期には一般的に用いられていたとされる中動態。能動態でも受動態でもないこの語法の特徴を捉えながら,その言葉の用い方が表す「忘れらた」意思のあり方に光を当てる作品です。著者は,スピノザの研究で著名な國分功一郎。 何やら小難しい話のように一見す...
【自由もであり自由もでなく】過去のある時期には一般的に用いられていたとされる中動態。能動態でも受動態でもないこの語法の特徴を捉えながら,その言葉の用い方が表す「忘れらた」意思のあり方に光を当てる作品です。著者は,スピノザの研究で著名な國分功一郎。 何やら小難しい話のように一見すると感じられるのですが,読み進めていくうちに,なるほどと頷かせてくれる記述が多々ありました。何となく「流されてしまった」という経験がある方であれば,内容もスッと頭に入ってくると思いますし,その感覚が新たな思考の領域を開くと聞けばより興味深く読み進められるのではないでしょうか。 〜完全に自由になれないということは,完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。〜 久しぶりに哲学系の作品を手に取った気がする☆5つ
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言語の中にある意思と責任の所在、という観点は非常に面白い。 「する、される」の能動/受動だけで人間の行動は評価し得ない、かつては主語がその行為/過程の中か外かが注目されていた、それが能動/中動態だと。 ただ、言語学的な、能動/中動態の議論は興味深かったけど、そこから発展した意...
言語の中にある意思と責任の所在、という観点は非常に面白い。 「する、される」の能動/受動だけで人間の行動は評価し得ない、かつては主語がその行為/過程の中か外かが注目されていた、それが能動/中動態だと。 ただ、言語学的な、能動/中動態の議論は興味深かったけど、そこから発展した意思と自由についての部分が正直、消化不良だな…。
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