暇と退屈の倫理学 増補新版 の商品レビュー
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この本に出会えて良かったです。 成績は出ていても仕事にやりがいを感じなくなったり、特に辛いことがなくても生きていることに耐え難くなったり、そういうことが何故起こるのかということがわかった気がしました。自分だけがそうなのではない、かといってそんなことなど感じずに生きている人もいて、そういう人と自分の様な人間の違いも理解できた気がします。 環世界の考え方は誰もが持っておくべきものだと思います。 人間にとって、生き延び、そして、成長していくこととは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方が良いだろう。 自分にとって本を読むことは、安定した環世界を獲得するために効果的な行為だったのだなと本書を読んで納得しました。 本を読んだり勉強をしたりせずとも安定した環世界を獲得できている人は幸運な人なのだと思います。 だけれどそうではなく、退屈の第三形式から来る不安や何かしなければ、というような苦しみがあり、そこから逃れたいのであれば、読書というのは1番手っ取り早くそこから回復できる手段であることは確かだな、と確信しました。 人それぞれ悩みはあると思いますが、ほとんどの悩みは本を読むことでなんとかなると思います。(問題が解決するということではなく、こころの持ちようとして) 自己啓発本だけでなく、むしろ物語の方が環世界の獲得はしやすいかと思いますので、普段は小説などを読まない方も、辛い時は小説や絵本などを読んでみたらどうかなと思いました。
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色々考えさせられた。読みやすいのだが、情報量が多くて整理しきれない感もある。退屈との戦いはなかなか一筋縄ではいかないことを客観的に肯定されたのは良かった。
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暇と退屈は多義的であり、人間はずっとこの問題と付き合ってきたのを理解した。退屈の第一〜第三形式をもとに自らの歩みを振り返るだけで、今後の指針が見えてくる。 ずっと積読していたのを後悔した。 ひとまず読了直後の感想。 詳細は後で書きます。
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とても面白い本だった。人はあらゆるものからの情報としての刺激が自分の世界を揺るがすので習慣を身につけるけど、それが退屈を生み出す。だから人は退屈と気晴らしが入り交じった世界で生きるしかない。では、暇と付き合っていくためにはどうしたらいいか?それは贅沢を取り戻すこと。流行に惑わされ...
とても面白い本だった。人はあらゆるものからの情報としての刺激が自分の世界を揺るがすので習慣を身につけるけど、それが退屈を生み出す。だから人は退屈と気晴らしが入り交じった世界で生きるしかない。では、暇と付き合っていくためにはどうしたらいいか?それは贅沢を取り戻すこと。流行に惑わされて物を概念として受け取るのではなく、物を物を受け取れるようになることが必要。でもそのためには訓練がいる。退屈するパーティーで流れている音楽や出された食べ物のその先を考えられるようになったら人は退屈と上手く生きていける。
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私には難しかった。 特に第五章の暇と退屈の哲学に関しては読むのを投げようかと思った笑 半分も理解できてるかどうか…って思った。けどそれでよかったのだと、結論とあとがきを読んで思った。 暇と退屈の倫理学の一歩を踏み出せた。 これは「反省的認識」ができていないと自覚できている状態だと理解した。 とても得意だった数学は、最初は理解ができていなかった。公式を何度も導出し、使ってるとき、ふいにわかる(反省的認識)時があった。 それができていないのは、初めて哲学書を一読した今の状態では、当たり前だとわかった。 再読することで、この本の評価もどんどん上がっていくのだと思う。 物を受け取る「浪費」には終わりがあり満足があるが、記号や観念を受け取る「消費」には満足することのない。 これを解決するには、訓練をすることで、楽しむことに変え、消費を浪費にする。 →最近、高級なチョコを食べているときに思った。高級という観念を食べているだけで、わたしには全く満足を得られない。でも、友達はその歴史・作り手の気持ちを想像しながら一粒にストーリーを見出して食べることで満足を得られていた。そこには、知識の差(訓練の差)があるんだねって話していた。 安定と均斉の中にいる第二形式を持つことで余裕がうまれる「人間である」、そこから楽しむことや思考を受け取ることができ、「動物になること」ができる →スリリングな海外旅行を好む私にはとても理解することができた。安定して習慣化した第二形式の生活から飛び出し、言葉もろくに通じない、文化も環境違う地で強制的に思考し、「動物になる」ことを楽しんでいた。 人が退屈するのは、記憶の傷跡を参照することがつらいから。 →暇な時に過去の言動を省みて自己嫌悪に陥ること、に落とし込んでいいのだろうか?もう少し反芻が必要な気がする 下記は読書メモ。各定義づけは面白かったけど、自分が定義を理解していない・言葉の範囲が本と食い違っていていまいち理解に欠ける部分も多かった様に思う。 これ以上まとめるには、現国のように読み下す必要があり、多大なる頭のキャパと、体力と時間が必要で、産後には辛いのでメモで終わらせる。笑 暇は何もすることがない時間、する必要のない「客観的」状態 退屈はなにかしたいのにできない「主観的」な状態 定住したことによって、人間は能力を持て余した(危険察知するための観察、冒険の不必要性) 高度経済成長までは「暇」は有閑階級の独占であり、「品位あふれる間暇」をもっていた 高度経済成長により、一般大衆に「余暇」が与えられたが、持て余している 労働は肉体をもって消費される営み、 仕事は世界に存在し続けていくものの創造 ハイデッガーの退屈の第二形式「何かに際して退屈する」の例示がいまいちわからない。 気分を元とした論展開だからこそ、そこが共有できないとその後がしっくりこない… →本を読み進めて行くにつれて理解が追いついてきた。 息子が寝た後にゲームをしている感覚。楽しみにしていて実行して、楽しんでいる一方で退屈している状態 環世界とは、それぞれの生物が、一個の主体として経験している、具体的な世界のこと。 人間が認識できるのは1/18秒まで、カタツムリは1/3秒までと違う。時間は瞬間の重なり。 ハイデッガーは人間は自由だから退屈するとしたが、筆者は人間は1つの環世界ひたれないから退屈するとした 第三形式の「なんとなく退屈」から、自分の可能性をみて決断して実行した先には、第一形式があり、第一=第三がなりたつ。 メモ ヴェブレン「有閑階級の理論」
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Doing な価値観に支配されいると、「やること」がない Being な状態は、どこか無為で退屈なものであるかのように感じてしまう。豊かになることで金銭的な余裕と時間的な余裕が生まれるが、人は退屈を嫌う。人は何かに打ち込みたい。大義が欲しい。しかし、そんな使命はどこにもなく、隣の...
Doing な価値観に支配されいると、「やること」がない Being な状態は、どこか無為で退屈なものであるかのように感じてしまう。豊かになることで金銭的な余裕と時間的な余裕が生まれるが、人は退屈を嫌う。人は何かに打ち込みたい。大義が欲しい。しかし、そんな使命はどこにもなく、隣の芝生に羨望の眼差しが向けられる。 退屈の起源を系譜学的に問うと、遊牧民と定住革命に遡る。定住によって暇が生まれることで、それまでの刺激は失われていった。刺激によって人はその余白を埋めようとする。 一方で、必要なものが必要なだけしかない状態には余白はない。ここからは、余裕や豊かさは生まれない。ボードリヤールは、「消費」と「浪費」を区別している。 - 「浪費」: 必要を超えて物を受け取ること。どこかで限界が来て歯止めがかかる。e.g. 豪華な食事 - 「消費」: 対象が物ではなく、限界がない。概念や意味を消費する。記号的な価値。e.g. グルメブーム 「消費」には終わりがない。贅沢をもたらすわけではなく、豊かにはならない。満足をもたらさないが、無限に続いていく。過剰になるほど、記号的価値と満足の欠如が増大していく。映画「ファイトクラブ」のビジネスマンのように、ブランド品に囲まれていても、どこか生きている実感がないように感じてしまう。 ハイデガーは、退屈を三つの形式に分類している。 ①退屈の第一形式: 何かによって退屈させられること ②退屈の第二形式: 何かに際して退屈すること ③退屈の第三形式: 何となく退屈 ①においては、人はのろまな時間を埋めるために、退屈をしのぐために、仕事などの気晴らしをする。他の仕事のためには貴重な時間は失いたくないと、いつの間にか時間の奴隷になる。 ②では、気晴らしと退屈が絡み合っている。パーティーのように、気晴らし自体が退屈である状態を指す。外界自体が空虚であるのではなく、外界に調子を合わせる付和雷同な態度によって、自分自身が空虚になっていく。 ③は、気晴らし自体が無力化した状態を指す。(虚無感) あらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている。自由であるが故に退屈する。決断によって可能性を実現しようとする。 著者は、退屈の第一形式と第三形式は区別できないと指摘する。第二形式は、心の底から楽しい訳ではなく退屈だが、自分と向き合う余裕がある。これこそ、退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものではないだろうか、と。 人間は、ものを考えないで済む世界を目指して生きているかのように見える。認知コストを減らし、「環世界」を単純化した方が楽になる。ただ、人間は習慣を作り出すことを志向するが、同時に退屈も生み出してしまう。退屈の第二形式≒人間的な生には、考える余裕があるが、第一形式≒動物的な生には余裕がない。 しかし、ラッセルは「教育とは、楽しむ能力を訓練すること」だと述べている。ものを楽しめるようになることとは、贅沢≒退屈の第二形式を存分に楽しむことである。現代は、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会と化している。 生きるとは、世界の様々なサリエンシー≒刺激に対する慣れを構成する、終わりのない学習過程である。 ーー人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。
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メモすることが多すぎてなかなか前に進まなかったけどとても考えさせられた。 必要を超えてものを受け取る浪費には限界があるけど、消費には限界がないから止まらないという件は、ゲームの課金などにみられる現代の消費行動を的確に指摘しているなぁと思った。 再読が必要。
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第四カテゴリーは一見すると謎めいている。けれども、実は私たちの生活において最も身近な退屈なのだ。暇つぶしと退屈の絡み合った何か──生きることはほとんど、それに"際すること"、それに"臨み続けること"ではないだろうか? 人間は自らの環世界を...
第四カテゴリーは一見すると謎めいている。けれども、実は私たちの生活において最も身近な退屈なのだ。暇つぶしと退屈の絡み合った何か──生きることはほとんど、それに"際すること"、それに"臨み続けること"ではないだろうか? 人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。 あらゆる経験はサリエントであり、多少ともトラウマ的であるとすれば、あらゆる経験は傷を残すのであり、記憶とはその傷跡だと考えられる。絶えずサリエンシーに慣れようとしながら生きている我々は傷だらけである。いや、より正確に言えば、"傷痕だらけ"である。
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「なんとなく退屈だ。」 この思いはふとした瞬間に立ち上り、それはきっと自分が退屈な人間である故だと思っていた。 自分の人生は死ぬまでの暇潰しだと思い、絶望していたが、これまでの哲学者も著者も似たような絶望感を抱き、真正面から向き合ってきたのだということがわかって、非常に嬉しかった。 退屈とは何か、人間はいつから退屈しているのか、どのように退屈に向き合ってきたのか、という問いに対して具体的に考察を展開しており、哲学初心者である私でも非常に分かりやすかった。 特に、本著の大きな鍵となっているハイデッガーの考察は非常に興味深く、自分でも勉強したいと思うと共に、これこそが私の環世界への「不法侵入」であり、新たな「気晴らし」となる予感がしている。
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暇と退屈の違い 暇は客観的、退屈は主観的、そして、人は動物になる、人は人を面白がる、そのために知を、興味関心を持ち、考えることが大切。
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