ハンナ・アーレント の商品レビュー
第二次世界大戦後のアメリカで活躍した思想家ハンナ・アーレントの伝記。彼女の出自(ユダヤ人ながら特定のバックグラウンドを持たず、一切の先入観を排した環境に育つ)に基づく、視点の多様性=「複数性」に焦点が当てられており、全体主義に内在する単一性と対比される形で本文中で繰り返し言及され...
第二次世界大戦後のアメリカで活躍した思想家ハンナ・アーレントの伝記。彼女の出自(ユダヤ人ながら特定のバックグラウンドを持たず、一切の先入観を排した環境に育つ)に基づく、視点の多様性=「複数性」に焦点が当てられており、全体主義に内在する単一性と対比される形で本文中で繰り返し言及される。 例えば、「ユダヤ人として攻撃されたならばユダヤ人として自分を守らねばならない(p175)」という主張。 もしユダヤ人が守られるべきとする理由を外部(e.g.人道主義やリベラリズム)に求めるとすれば、今度は「ではなぜユダヤ人だけがあのような迫害を受けたのか?」という疑問に答えねばならず、迫害という事実をユダヤ人という特定の固有名詞のうちに閉じ込めてしまうことになる。「ユダヤ人はそうした地位を与えられた最初の民族に過ぎない(p86)」と述べているのも、「ユダヤ人を特別な存在として見(p178)」てはならないという趣旨と思われる。「因果性はすべて忘れること(p105)」というのも、迫害を歴史的・文化的因果関係で説明するのではなく、そこから離れた一般的・普遍的事実として語らなければならないということなのだろう。 ではなぜユダヤ人が自らを特別視してはならないのだろう?アーレントの主張によれば、自らを「迫害が宿命付けられた民族」として特別視するすることは人々から複数の視点を奪うことでもあり、《あいだの世界》――人々を分離するとともに結合し、互いに対話や論争を交わすことを許す領域――を消失させ、まさしく自らを苦しめたところの全体主義と同じ穴に嵌まり込むことになるからだ(このところポストモダン的な香りがしないでもない)。そして、この《あいだの世界》の消失から生じる「思考の欠如(p174)」による凡庸さの表出こそが全体主義の本質なのであり、ナチズムを怪物的な悪の権化とみなすべきでない、とする主張が後の「アイヒマン論争」に繋がっていく。 最も被害者性を振りかざしても良さそうなユダヤ人のアーレントが、逆にそこに潜む全体主義の萌芽を指摘する――。自らの出自と一旦距離を置き、ひたすら全体主義に客観的な眼を向けるアーレントのストイックさに心を揺さぶられる。読後、書店でアーレントの著作をいくつか手にとってみた。やはり僕のような門外漢には敷居が高そうな代物だったが、いつか読んでみたい。
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2013年に日本で公開された映画『ハンナ・アーレント』は、戦後にアメリカでも名声を確立していたアーレントがアイヒマン裁判に挑むという時代設定であったが、これを読むとそれまでの彼女にどういう経歴があってあの裁判にたどり着いたかのかということが理解できるだろう。 映画を観てアーレントに興味を持った人が『全体主義の起源』や『人間の条件』などの原典を紐解く前に、取っ掛かりとして読むのにちょうどいい入門書。 この本ではアーレントの生い立ちから、ハイデガーやフッサール、ベンヤミンとの出会い、ドイツを追われた後のフランスの収容所生活、そこからアメリカへ亡命、無国籍なユダヤ人という賤民の認識(←ここ注目)、ハンナは母語のドイツ語以外はギリシャ語、ラテン語、フランス語ができてもなんと英語はできず(!)に渡米してしまうのだが、語学をいちから学び、アメリカ国籍を取得、大学教授の職を得て、アイヒマン裁判への傍聴に向かうという一連の流れが伝記のように語られる。 悪をやみくもに糾弾するという正義は、またその行為も偽善と差別を生むことに気がつく彼女の冷静な判断。アメリカに亡命した際のユダヤ人同士における批判、アイヒマン裁判、リトルロック高校事件、アーレントには一貫した視点があることに気付かされる。これを機に、彼女の一覧の著作に興味を持つ足がかりとなるであろう一冊。 終章、彼女のフッサールへの追悼の言葉にも心動かされる。友人を大切にしたアーレントを取り巻く人々に関する情報も多く、文章も読みやすい良本。
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もともとは映画を見に行く予定だったのが、行きそびれてしまったので、評伝を読んでみた。現代日本とはまったく違う文化背景で育ったアーレント。彼女の思想は理解しづらい部分もあったが、現代社会の不毛さを見事に言い当てており、読んでおいて良かったと感じた。 何事も理解せずにはいらなれないと...
もともとは映画を見に行く予定だったのが、行きそびれてしまったので、評伝を読んでみた。現代日本とはまったく違う文化背景で育ったアーレント。彼女の思想は理解しづらい部分もあったが、現代社会の不毛さを見事に言い当てており、読んでおいて良かったと感じた。 何事も理解せずにはいらなれないという性質だったようで、生まれながらの哲学者だったとも言える。 ドイツ国籍をもつ人間として生まれ育ったはずなのに、ナチスが台頭するとユダヤ人として故郷を追われる。その後亡命先でも、同じようにユダヤ人だからと追いだされたり収容状に入れられたりする。アーレントにとって頼りにできるのは個人的な愛情や友情だけだった。この経験が全体主義やイデオロギーに染まることへの批判を生み出す。また、人と人の間に存在するもの(それを「公共性」とアーレントは呼んでいる)の重要性を説いた。人間は密着しすぎても離れすぎてもうまく関係が保てない、という視点だ。密着しすぎれば視野が狭まり、離れすぎれば無関心になる。絶妙なバランス感覚はユダヤ人として、世間と微妙な距離を取りながら育ってきたからだろう。つながりを絶たれ、孤独に陥った人間は全体主義に染まりやすいという指摘、これはまさに現代日本そのものではっとさせられた。
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ハンナアーレント入門書としてはよい。だが、彼女の思考の深淵に触れる場合は、やはり彼女自信の書いたテクストを読み、それと対話するのが1番だと再認識。
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「思考の欠如」私たちは理解するために思考しなければならない。真摯に向き合い常に本質的な提起をしたのだろう。物事は単純ではない、何がそうさせたのか、何になってしまっていたのか。常に冷静に問いを見出し、理解していく。思考することに億劫になってはいけない。
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映画を観れば良かったと後悔。ハンナ・アーレントの生涯を知るにはコンパクトで良かった。アイヒマン裁判を通した発言など映画の予告編で気になったシーンと思われる彼女の考え方などを知ることが出来た本でした。
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ナチの迫害を生き延びた政治哲学者。 ではありますが、その言語は示唆に満ちていて、ぎょっとするほどです。固有名詞を日本に、日本と関係の深い諸国に変えて読むと、まさに今日の日本の状況を言い当てられているように感じるのです。ナチの行為や、ユダヤ人の置かれた状況を特殊なものと片づけず、「...
ナチの迫害を生き延びた政治哲学者。 ではありますが、その言語は示唆に満ちていて、ぎょっとするほどです。固有名詞を日本に、日本と関係の深い諸国に変えて読むと、まさに今日の日本の状況を言い当てられているように感じるのです。ナチの行為や、ユダヤ人の置かれた状況を特殊なものと片づけず、「理解しようとする行為」を続けることによって編み出された言葉は、全人類、中でも先進国の人々にとって普遍的な意味を持つと感じます。 日本に特有と思わされている「世間」は、実はどんな文化圏にでも出現するもので、個人が考えることをやめ(或いはやめさせられ)社会が全体主義に陥った状況で必ず現れる現象であり、 その結果現れる「悪」は、個人の、人間としての顔の見える関わり合いの中で出てくる「悪」とは比べようもないほど罪深く、赦しようのないものであること。 一人でも、個人的に交流のある、外国の友人がいる方はわかるはずです。◯◯人ってのは…〇〇という国というのは…のバカバカしさ、浅はかさ、かなしさ。民族主義の無意味さ。 一見美しげな言葉に踊らされ、「わたくしである個人」の抱く違和感を放棄してしまうことの危うさ。 違和感を口にし、表現する人に対して、無知であり非効率的でありナイーブすぎると片付ける「力」の強力さ。 現代社会は、それ自体が、個人に考えさせることを控えさせる装置です。 でも、考えないことは、罪。 私たち一人ひとりは、紛れもなくこの世界の一員であり、その行動のすべては、この世に影響を与えているということです。 時に考えすぎと云われがちな私は、ナイーブすぎるのか、と思うことも多かったのですが、考えることは力であると、勇気ももらいました。
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それはまさに、あたかも奈落の底が開いたような経験でした。……これはけっして怒ってはならないことだったのです。犠牲者の数のことをいっているのではありません。死体の製造やその他のことを申し上げているのです。(p.89) 工業的な大量殺戮はまさに「死体の製造」とも形容される事態であった。(中略)人間による人間の無用化。人間の尊厳の崩壊。それは理解を絶する「けっして怒ってはならなかった」ことであり、その事態を直視することは地獄を見るようなものだった。(p.90) 人権の喪失が起るのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときのみである。この足場によってのみ人間はそもそも諸権利を持ち得るのであり、この足場こそ人間の意見が重みを持ち、その行為が意味を持つための条件をなしている。自分が生れ落ちた共同体への帰属がもはや自明ではなく絶縁がもはや選択の問題ではなくなったとき、あるいは、犯罪者になる覚悟をしない限り自分の行為もしくは怠慢とは全く関わりなく絶えず危難に襲われるという状況に置かれたとき、そのような人々にとっては市民権において保証される自由とか法の前での平等とかよりも遥かに根本的なものが危くされているのである。(『全体主義の起源2 帝国主義』)(p.111) 政治は、市民たちが法律に守られながら公の場で語り行為するということでもあり、人びとが複数で共存するということを意味する。アーレントは全体主義下で遂行された「人類に対する犯罪」を人間の複数性にたいする犯罪であると見なした。(中略)それは、「複数である人間によって複数である人間について語られた物語のなかで真実性をもって記憶される権利、歴史から消されない権利」にも結びつく。(p.115) 問題は、ただ、私たちが自分の新しい科学的・技術的地市区を、この方向に用いることを望むかどうかということであるが、これは科学的手段によっては解決されない。それは、第一級の政治的問題であり、したがって職業的科学者や職業的政治屋の決定に委ねることはできない。(p.142) 疑いをいれない一つの政治観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を、アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び、全体主義の特徴と見なしたのである。 「思考の動き」のためには、予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。(p.174)
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ドイツ系ユダヤ人として生まれ、全体主義と対決した政治哲学者。アウトラインは掴めたのでまずはその著書「全体主義の起源」「人間の条件」を読まなくては。
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