非道に生きる の商品レビュー
園子温、恐るべし感性と信念の持ち主。 終わりの方に共感した話が沢山あった。 自分も非道とまでは言えないけれど、自分の考えを持ってブレずに生きて行きたいと思った。
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ひどく観客を突き放すような映画を撮る人だと思っていた。 エンドロールを眺めながら余韻に浸ることを許さず「自分の現実を見ろ」「自分の現実を生きろ」と背中を押されている気がしたものだ。 この本を読んでその理由が分かった。 いつだって大事なのは現実、その刹那なのだ。
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自分が自分の関係者である。その刹那を豊かにいきること。 自分に正直ななかでも、客観的に自分の立ち位置を分析されていたり、園子温さんのすごさがわかりました。
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面白かった。なんとなく、ずっとカルト的人気作家で、安定して活動されているのかと思ったらこんなに浮き沈み、悩みがあったのか。大学の時にイメージフォーラムの学生作品を観て、映像をやるには自分には信念が足りん、と思った記憶が蘇った。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
映画だけじゃなく、モノづくりにたずさわる人なら読んでおいて損はない。 以下メモ。 ●映画に関わる人は目に映るものすべてをライバルだと思わないと成長しないように思います。テレビドラマでもAVでもアートでも、いま窓の外に見える風景でも、すべて映画と同じレベルに存在している。「映画は映画だ」と、何か独立したものと捉えているようではダメじゃないでしょうか。 ●僕の現場では、掃除や運転しかしていない下っ端もみんな「アイデア出し担当」です。僕や中心スタッフがすべてを決めて周りを従わせるのではなく、ふと若造に「お前、何かアイデアない?」と訊いてみる。ラストシーンの重要な一言がそれで決まることもあります。みんなが言いたい放題言える空間にしていくことが、事前に考えてもいなかった発想を呼び寄せたり、つらい撮影現場でのガス抜きの役割を担ったりしているように思います。 ●僕は基本的に「想像力を羽ばたかせる」というのが嫌いなんです。なぜなら、想像する自分があてにならないから。「想像力」と言えば聞こえはいいけれど、それは断定とか独りよがりといった言葉にも置き換えられるものだと思います。 ●『希望の国』について言えば、被災した農家の人はそんなに難しい言葉を話さない。「当時は緊急時避難準備区域か設定される前で、空間線量は◯◯マイクロシーベルトで…」といった、客観的な視座からの、難しい原子力用語を使った言葉はほとんど出てこない。出てくるのは「大変だった」「辛かった」「寒かった」「厳しい」といったボキャブラリーです。この視点に立たないと、ただの解説映画ができあがってしまいます。 ●リアリティを映しだすというのはとても難しい問題です。目の前の現実を前提にするのではなく、それとは「別の」現実を考慮に入れたとき、フィクションとリアリティは重なります。「脂汗をかいてガバっと起き上がり、悪夢から目覚める人なんていない」と言う役者がいたら、「それはお前の人生経験がユルいからだ」と忠告します。戦争や紛争で家族を殺された人たち、過酷な日々を送る人たちは、いくらだってそういう目の覚め方をする。自分の人生だけがリアルなんじゃない。一見フィクションに見えるものでも、別のレイヤーの中で見ればリアルなのです。 ●とにかく自分を疑わないこと。面白いと思ったことを断念しない。自分を信用しない自分なんて、哀しすぎる。『自殺サークル』という映画で「あなたは、あなたの関係者ですか?」という謎のメッセージを描きましたが、まさにそれです。自分が自分のより良き理解者であること。でないと、自分は自分と無関係になっていきます。
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「自殺サークル」以降の作品しか知らなかったので、それ以前の作品や東京ガガガでの活動。そして少年時代のこと。彼の考え、スタイルは昔から一貫している。常識やカテゴライズされたものを壊すこと。彼は本当に新しいものを生み出そうとしているのだ。彼に惹かれる部分はそこなのだと発見できた。 そ...
「自殺サークル」以降の作品しか知らなかったので、それ以前の作品や東京ガガガでの活動。そして少年時代のこと。彼の考え、スタイルは昔から一貫している。常識やカテゴライズされたものを壊すこと。彼は本当に新しいものを生み出そうとしているのだ。彼に惹かれる部分はそこなのだと発見できた。 そして、「オレが決める」という個人の独断こそが本当に面白い作品を作ると信じている。自分を信じないで、誰が自分を信じてくれるんだ。その言葉に鼓舞された。
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献本いただき、読み終えました。 色々と話題作、問題作?を撮り続ける園子温監督の本です。名前は前から知ってたんですが、作品はみたことないです。 で、この本ではどういう生き方をしてきたか、インディーズ時代にどういう作品を作ってきたか、作品論、そして日本映画について書いてますが、とく...
献本いただき、読み終えました。 色々と話題作、問題作?を撮り続ける園子温監督の本です。名前は前から知ってたんですが、作品はみたことないです。 で、この本ではどういう生き方をしてきたか、インディーズ時代にどういう作品を作ってきたか、作品論、そして日本映画について書いてますが、とくにインディーズ時代の話はいわゆる徹底的に作品をみてもらえるかを考えて動いて、賢い人だなと感心しました。
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生きてて感じる違和感は、「建前」だらけだからだ。 このひととセックスしたいとか、こいつ死なないかなとか、腹立つから不幸になってくれないかなとか、そうゆう心の底から出てくる本音を隠して、奇跡とか感動の涙とかで覆ってごまかしてる。 だからわたしはそういう人たちに対して、インスタントな...
生きてて感じる違和感は、「建前」だらけだからだ。 このひととセックスしたいとか、こいつ死なないかなとか、腹立つから不幸になってくれないかなとか、そうゆう心の底から出てくる本音を隠して、奇跡とか感動の涙とかで覆ってごまかしてる。 だからわたしはそういう人たちに対して、インスタントなはりぼてみたいだなあとしか思えない。だって不幸のほうがリアリティあるし切実だし心の中によどむ。嬉しかったことは1日や2日で忘れるけど、怨みや殺意はそう簡単に消えたりしない。 園子音の作品は常にブレーキのないジェットコースターみたいだなあと思ってきたが、その理由が分かった気がする。そもそもブレーキのない人間のようだ。 でも自分の過去の成功をコピーしないというのは大変なことだろうなあ。 「・・・っぽいね」というのは表現者に対する最上級の侮辱。 園子音、ライバル。 目に映る全ての自分が好きなもの、ライバル。 『自分の作品を無視することができないくらいに量産して時代に認めさせる』 『自分で時代を作る』 『自分を騙さない』 『自分が面白いと思うものだけを追求する』 私の人生は私が監督の映画作品のようなものだ。同時にプロデュースしちまおう。
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園子温によって語られる園子温のこれまで、そして「刹那」に生きてきた今までの人生が本人によって語られている。 園子温映画によるモノローグの集中砲火(『紀子の食卓』など)が前半にあるためにその登場人物が後半にどう動くかが違和感なく観客に受けいられていくように、その『非道に生きる』を...
園子温によって語られる園子温のこれまで、そして「刹那」に生きてきた今までの人生が本人によって語られている。 園子温映画によるモノローグの集中砲火(『紀子の食卓』など)が前半にあるためにその登場人物が後半にどう動くかが違和感なく観客に受けいられていくように、その『非道に生きる』を読んでいくと園子温という人がなぜ映画監督として突出しているのか、なぜそのフィルモグラフィーがあるのかがすうっと入ってくる。 まず、これは生き方の本だ。これは創造する人の本だ。 周りの顔色に合わせて同じ青信号でなければ渡らないのであれば他者との差異は絶対に生まれはしない。それは協調性のある国民性によるガラパゴス化がうまく発揮されない現在において自分がどう生きるかを考え刹那に動こうとする時に周りなんか関係ない。今、何信号であろうが必要があれば走ってしまえばいいし、あるいは東京ガガガのようにその交差点すら幕で囲んでしまって交差点という特異性を封印してしまえばいいのだ。 昔お会いして話を聞いている時にバブル後ぐらいにエアマックスとかスニーカーが流行ったから買い漁っていた連中のほとんどは今や仕事を失ってたりして無惨なことになっていると言われていた。 これはスニーカーを買い漁っていたのが問題ではなくて、ただ流行っているからという理由だけで買い漁っているような周りを見て動いているやつは結局沈む時には周りと同じように沈むんだよって教えられた気がしていた。だって、未だにスニーカーが好きで好きで面白いやつが出たら買って履いてを続けている人は彼らとは違う、もはやスペシャリストですらあるんだから。 周りなんか気にしせずに突き進んでいいくとそれが特異なものに武器になる。それにはもしかしたら覚悟が必要なのかもしれない。世間とは違うのだから。園さんのような生まれ持った天の邪鬼気質ではないと難しいのかもしれない? いやそんなことはないはずだ。 僕はやりたくもない仕事をしてそれが給料も安定していてボーナスが出ても仕事のストレスで結局は心身ともに壊れていくのなんかお断りだ。人生について考えればそんな生き方をしていて自分は楽しいとは思えないから今みたいな状態になっている。 二十代中頃で園さんの『ハザード』を劇場で初めて観た衝撃は僕の人生の中で忘れられない出来事だった。あの時に感じた事がここで書かれていると読みながら思った。僕はあの映画の中でオダギリジョーさんが演じたシンの刹那的に生きる衝動に惹かれ、周りなんか気にしないで自分が面白いと思う事に対して咆哮し彷徨したいとあの日渋谷で思ったんだ。 園さんの視線は彼の作品について語られるようにエログロなものではなくて他者を排除しようとか敵意をむきだしなんてことはない。四畳半の生活の中でそれでもずっと続けてきてどん底と呼ばれる生活を得て様々な人と向き合ってきたその視線はとても優しい。 園子温作品は人に夢を見せないで夢から醒まさせる、そう覚醒を促す。覚醒したものはもはや過去の自分には戻れるはずもない。しかし覚醒した世界でその五感は以前よりも敏感になっている。だからこそもっと前よりも自分の「個」がより際立ってくる。 だから周りなんか気にしないでいい、刹那に非道に生きれる。
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