なぜ私だけが苦しむのか の商品レビュー
ユダヤ教の聖職者が書いた本だから、当然神を肯定するための内容になっている。そのため、ユダヤ教やキリスト教の神を信じていない人にとっては同意しにくい主張がある。ただ、納得できる考え方も多く、答えにくい問いに真摯に向き合う著者の姿勢には好感がもてる。 著者は、神は人生に起こる不幸に...
ユダヤ教の聖職者が書いた本だから、当然神を肯定するための内容になっている。そのため、ユダヤ教やキリスト教の神を信じていない人にとっては同意しにくい主張がある。ただ、納得できる考え方も多く、答えにくい問いに真摯に向き合う著者の姿勢には好感がもてる。 著者は、神は人生に起こる不幸に関与しておらず、不運な出来事は神のせいではなく、ただのめぐり合わせだという。そして、そうであるからこそ、苦難は神の計画の一部であるとか、罰として与えられたもの、乗り越えられるから与えられたものであるといったよくある考え方を一切否定している。 ではなぜ病や死などの不幸があるのかといえば、それはわからないという。それらはただ人生のひとつの条件であるだけに過ぎないと。人間が苦しみ悲しんでいるとき、神もまた、人の味方として苦しみ悲しんでいるのだそうだ。この点は、遠藤周作の『沈黙』で主人公がたどり着くキリスト観にもよく似ていると思った。 また著者は、なぜ苦しまねばならないのかとか、この苦しみの意味はなにかとかと問うな、ではどうすればよいかと問えと言う。この考え方は、フランクルが『夜と霧』で述べている「生きることが自分になにを求めているか」という問いと同じだと思う。 ただ、神が苦難を与えも取り除きもしないなら、神が神である根拠はなにか、神を信じなければならない理由はなにか、人と神の違いはなにかと疑問に思う。寄り添って苦痛を共有することなら、人でもできることではないか。この疑問にも答えられているが、この答えにはいまいち納得感がなかった。曰く、神は災いよりも素晴らしいことのほうがずっと多い世界を創造した。また、人の心に働きかけて奮い立たせ、苦しむ人を助けるよう導いているのだと。 悪いことより良いことのほうが多い世界を創造したというなら、悪いことが全くない世界にすることもできたのではないか。そうなると、人の不運に神が関与していないという主張と矛盾しないだろうか。結局人間に起こる不幸は、神が災いゼロの世界にしなかったからだ、つまり神のせいだということにならないか。災いゼロの世界にすることは神にはできなかったと言うなら、「神は災いよりも素晴らしいことのほうがずっと多い世界を創造した」という言い方は間違っている。 人の心に働きかけて云々というのも、物理的な出来事に関与できないのに、人間の心理を意図的に導くことはできるというのはご都合主義的な解釈に感じる。 全体を通して、聖職者としては最も答えにくいだろう問いに真正面から取り組んでいる著者の姿勢には共感できるし、起きたことを嘆くのではなく、どうするかを考えようという主張にも納得できる。ただ、あくまでも神を肯定したうえで、という制限つきなので、その都合に合わせるために神を恣意的に都合よく解釈しているよう感じる。
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メモ→https://x.com/nobushiromasaki/status/1824048490563223954
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なぜ私だけがこんな目に遭うのだろう、何の悪いことをしたのだろう… そう思ってしまう気持ちに寄り添うことの大切さを書いた、ユダヤ人ラビの著書。 稀に人の身に降りかかる例外的な不幸な出来事は神が起こすものなのか否かというところから、神の存在意義につながる宗教的な話。 けれど、強い宗...
なぜ私だけがこんな目に遭うのだろう、何の悪いことをしたのだろう… そう思ってしまう気持ちに寄り添うことの大切さを書いた、ユダヤ人ラビの著書。 稀に人の身に降りかかる例外的な不幸な出来事は神が起こすものなのか否かというところから、神の存在意義につながる宗教的な話。 けれど、強い宗教観を持たない私が全く理解できないわけではない。例えば、不幸な事件で命を落とした現場に花を供える人たちの行動は、まさにこういうことなのだろう。亡くなった方の遺族へ対する「あなたは1人ではありませんよ」という心強いメッセージにもなっているのだと気がついた。 ともあれば、逆に不幸に見舞われた人にあれこれ口出しをする人が多くもある。これは「不幸な出来事はバチが当たったからだ」という考えが根強く浸透している日本というお国柄もあるだろう。 人間はもちろんのこと、神さえ不完全であるこの世の中を、あなたは愛せますか、という問いに、未だ答えが出せずにいる。 宗教的な考えは分からないからと敬遠せず読んでみることをおすすめしたい。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
神は全能ではないが善ではあるという捉え方と、宗教というものの、喪に服する行事の意義というものに、人間に備わった社会性が人を未来に前進させる動機になることを再認識した。
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神は全能ではなく、全能ではないが善であるという論理が新鮮だった。 教会では神は全知全能とされるので。 神が全知全能であり、等しく私たちを祝福し愛するのであれば、なぜこの世には苦しみが存在するのか、原罪を差し引いても不思議だと思っていたが、前提を崩すことで納得出来た。 良くも悪...
神は全能ではなく、全能ではないが善であるという論理が新鮮だった。 教会では神は全知全能とされるので。 神が全知全能であり、等しく私たちを祝福し愛するのであれば、なぜこの世には苦しみが存在するのか、原罪を差し引いても不思議だと思っていたが、前提を崩すことで納得出来た。 良くも悪くも自業自得というか、この世の全てに意味があるという思想がよくある。障害者の親は選ばれているという話も嫌いだった。苦しみは罰ではなく運が悪かったとして受け止めるほうが、個人的には楽で良い。 人生が充実している人は自分の行いのため、神の祝福ため、苦しみの中にある人は運が悪い、神の手の届かない事象だと思って割り切るのがいいかも
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■1010。一読。2021年03月17日。エッセイ集だが、中心となるエッセイではヨブ記の議論をトリレンマとして分析し直し、再解釈をおこなっている。
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邦訳タイトルの通り、幼な子が亡くなったり、愛する人を失ったり、難病や障害に冒されたりする、そうしたとき人は、なぜほかの誰かではなく、この自分が苦しむのかと、自問自答し、嘆き、他者や社会、神を恨む。 善良な人がそうした不幸に見舞われるのははなぜか、そして、そのような不幸に見舞...
邦訳タイトルの通り、幼な子が亡くなったり、愛する人を失ったり、難病や障害に冒されたりする、そうしたとき人は、なぜほかの誰かではなく、この自分が苦しむのかと、自問自答し、嘆き、他者や社会、神を恨む。 善良な人がそうした不幸に見舞われるのははなぜか、そして、そのような不幸に見舞われたとき、人はどうすべきなのかとの重い問いについて、奇病にかかり若くして亡くなった息子を持つ著者が、その悲痛な体験を通して考え抜いた、その考察を記した書である。 著者はラビであるので、神から実に悲惨な苦難を課されたヨブを巡る物語、ヨブ記についての解釈を始め、神についての考察を様々に行うが、抽象的に神学を論じるのではなく、人間の不幸に関する問題を、具体的に丁寧に考えていくので、一神教の信徒ではなくとも違和感なく同調できる。 自分が苦しむ立場になったとき、あるいは苦しむ家族や友人、知人に接することになったとき、本書の教えは大きな支えになってくれるであろう。
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なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記 ユダヤ教の指導者である著者が ヨブ記のテーマ「人間の苦悩と神の関わり」から 下記について明快に答えた本 *神とは何か、祈りとは何か *人間であることは何を意味するのか 悲しみ苦しんでいる人がいたら、おすすめすべき1冊 神の全知全能性を...
なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記 ユダヤ教の指導者である著者が ヨブ記のテーマ「人間の苦悩と神の関わり」から 下記について明快に答えた本 *神とは何か、祈りとは何か *人間であることは何を意味するのか 悲しみ苦しんでいる人がいたら、おすすめすべき1冊 神の全知全能性を否定することで、畏れの存在の神から慰めの存在の神へ。遠藤周作「沈黙」の 人間の苦悩に対して なぜ神は沈黙するのか への答えにも感じる 祈りとは、神に要求する取引でなく、私たちと神を繋ぐ行為とした。慰めの神がそばにいることを発見できる 神とは何か〜慰めの神 *神には限界がある〜人生の悲劇は神の意志ではない *人間が善を選ぶか、悪を選ぶか、神はコントロールしない *その苦しみを乗り越えるために、神に助けを求めればいい *すでにこうなってしまった以上、私はどうすればいいか という問いが必要 宗教のみが嘆き悲しむ人に対して、自分の存在価値を確認させてあげることができる 人間であることの自由 *人間は善と悪とが渦巻く世界に生きている *人間であることは〜本能をコントロールすること *死ぬということは 人生にら与えられた一つの条件 嫉妬を取り除く考え方 私たちが嫉妬する人たちも、彼らなりの傷や痛みがある〜誰もが悲しみを知っている
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理不尽な苦悩や悪がなぜ存在するのか、について、納得できる説明・・この世界は完全さに多少欠けていて、だからこそ、赦し、愛することを知ることで勇気を持って人生を生きることができると説く感動の書。宗教への関心や、信仰がなくても、この書の価値は理解できるでしょう。
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生死に立ち会う局面もあろう仕事に就くことを機に買った本。そこから4年経って読み直してみた。 理不尽な苦しみは、神によって成されたものではない。 大きな苦しみにぶつかったとき、「なぜ神様はこのような苦しみを私に与えたのか」「それほど信仰深くは無かったが、酷いことなどしていないのに...
生死に立ち会う局面もあろう仕事に就くことを機に買った本。そこから4年経って読み直してみた。 理不尽な苦しみは、神によって成されたものではない。 大きな苦しみにぶつかったとき、「なぜ神様はこのような苦しみを私に与えたのか」「それほど信仰深くは無かったが、酷いことなどしていないのに、この仕打ちはあんまりだ」と考えてしまいがちだが、それは間違っている。 神にも力の及ばないことは多くあり、事故や死は私を懲らしめるためのものでは決してないということ。 そんな神に、誰が祈りを捧げるものか、と。 大切なのは、苦しんだときに心を寄せてくれた人がいたということ。(他にもあったけどこれが一番印象的で忘れた笑) ここからどう進んでいくかということ。 何か自分の身に、抱え切れないほどの悲しい出来事が起こってしまったとき、もう一度読み直そうかな。 悲しみの理由探しはしないようにしようと思った。
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