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なぜ私だけが苦しむのか の商品レビュー

4.3

42件のお客様レビュー

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2019/10/09

【読中感想】#苦しみに際限はない 「苦しみ」に終わりはありません。 人として生まれてきた時点で 「苦しみ」は付いて回り、 今か今かと首を長くして あなたのそばにいます。 この苦しみに理由も答えもありません。 ただ、折り合いを自分がつけるだけです。 怒ってもいい、嘆いてもいい、悲し...

【読中感想】#苦しみに際限はない 「苦しみ」に終わりはありません。 人として生まれてきた時点で 「苦しみ」は付いて回り、 今か今かと首を長くして あなたのそばにいます。 この苦しみに理由も答えもありません。 ただ、折り合いを自分がつけるだけです。 怒ってもいい、嘆いてもいい、悲しんでもいい。 自分の苦難は相手の苦難でもあることを理解し認め 誰かと自分が結び合い、繋がり、支え合うことで 「苦しみ」を越えて次に進むことができるのです。 …なんて書くと宗教チックですが 端的に言えば、自分の苦しみは相手の苦しみなのだから 隣人を慈しみ愛し繋がりなさい、ということでしょうか。 何かに悩み躓いている人にとって 役に立つ本でありますように。

Posted byブクログ

2018/05/09

「宗教があまり役に立っていないことの理由は、たぶん、ほとんどの宗教が悲嘆にくれている人びとに対し、彼らの痛みを和らげようとするよりも、多くの思いと時を、神を正当化し弁護することに向け、「悲劇も本当は良いことであるし、不幸に思えるこの情況も本当は神の偉大なご計画のなかにあるのだ」と...

「宗教があまり役に立っていないことの理由は、たぶん、ほとんどの宗教が悲嘆にくれている人びとに対し、彼らの痛みを和らげようとするよりも、多くの思いと時を、神を正当化し弁護することに向け、「悲劇も本当は良いことであるし、不幸に思えるこの情況も本当は神の偉大なご計画のなかにあるのだ」と説得しているように」思えるから。「私たちが自分自身の困難な事態に対処したり、あるいは悩んでいる人たちの援助をしたいと思っても、思うようにうまく対処できないのは、私たち自身が心の痛みに伴う現実を受け入れることがなかなかできないからです」。 本全体としては難しくてよくわからなかったけど、書き出しのこの箇所はとても納得がいった。

Posted byブクログ

2019/09/29

p63 (ヨブ記の)作者は、神が善であることを信じ、ヨブが善であることも〜。〜神は全能であるという信念を放棄しようとしている〜。 p79 神が第一に重きをおいて考えていたのは、混沌とした宇宙に秩序と規則をつくり出すことでした p81 行き当たりばったりとは混沌の別名〜神の創造の光...

p63 (ヨブ記の)作者は、神が善であることを信じ、ヨブが善であることも〜。〜神は全能であるという信念を放棄しようとしている〜。 p79 神が第一に重きをおいて考えていたのは、混沌とした宇宙に秩序と規則をつくり出すことでした p81 行き当たりばったりとは混沌の別名〜神の創造の光が届いていない〜混沌は悪〜 p126 神にできることは〜人間のことを、憐れみと同情の念で見つめることだけ〜 p175 古い中国の物語に〜「悲しみをまったく味わったことのない家庭へ行って、からし種を一つもらってきなさい。→ブッダのキサーゴータミーのエピソードか。 p187 ジャックリーマーの詩→神はすでにすべてを与えてくれている。我々の使い方が悪いのだといった意味か。神の信じ方として無理が少ない。p189 祈りが私たちにしてくれる第一のことは〜祈りによって繋がることができる〜 p204 苦しみを乗り越えるための力と勇気を与えてくれるのが神なのです。 p205 神は実在しており、〜絶えず私に確信させてくれる事実は、祈る前にはもちあわせていなかったそれらのもの(力や希望や勇気)を、ほとんど例外なく得ている〜→祈り=言語化による作用を発生させるシステム? p215 私は神の限界を認識しています。 p218 〜出来事は、その発生時においてなんの意味も持っていないのだと考えたら〜。〜私たちのほうで意味を与えることはできます。私たちのほうで、それら無意味な悲劇に意味を持たせれば良いのです。 p219 自分の悲しみの責任者を告発することは、孤独な人間をより孤独にすることでしかない

Posted byブクログ

2018/01/08

敬虔なユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者に当たる立場の人)である作者が、自分の息子を不治の病で亡くしたことをきっかけに、自分が信じる神とは一体何なのか、なぜ神は自分の息子を助けてくれなかったのか、なぜそもそも神は「早老症」という病気を他の誰でもなく自分の息子に与えたのか、そんなに自...

敬虔なユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者に当たる立場の人)である作者が、自分の息子を不治の病で亡くしたことをきっかけに、自分が信じる神とは一体何なのか、なぜ神は自分の息子を助けてくれなかったのか、なぜそもそも神は「早老症」という病気を他の誰でもなく自分の息子に与えたのか、そんなに自分や自分の息子は神に背く悪いことをしたのか(もちろんしていない)、神に祈るとは何か、祈っても意味はないのか、息子を失っても自分は生きていかなければならないのか、なぜ自分だけがこんなに苦しい思いをしなければならないのか、という次々と沸き起こる疑問(自分が信じてきた神への疑惑)に対していくお話です。 聖書の立場は、「息子に不治の病を与えることを決定したのは神である、全知全能の神は明確な理由をもってそうすることにしたのだから作者は神がそう決めた理由を考えて行動しなければならないし、その苦難を乗り越えられない者に神は不幸を与えない」というものであり、信者に対して「この決定は、他でもない自分が信じる神によるものなんだ」という部分に救いを見出して慰められて前に進むことを促していますが、この本の作者はユダヤ教のラビという立場でありながら、聖書に書かれたそういうことの一部は間違っていると断言しています。 善良な市民が圧倒的な不運に見舞われる一方で悪人が幸福になるという不運や不条理は自然の摂理でどうしても起こってしまうことであって、神はそれに対して無能で何もできない、というのがこの作者が導き出した答えです。 ではなぜ我々は、(信じている宗教は何であれ)神に祈るのか、という疑問に対する作者の答えが感動的でしたので紹介します。 「祈りは正しく捧げられる時、人を孤独の極みから解放します。一人きりだと思う必要はないし、見捨てられたと思う必要もないことを、人は祈りを通して再確認できるのです。」 特に神様を信じているわけでもないしかと言って否定しているわけでもない僕にとっても、心に響く本でした。僕が周りの方たちから普段そうしてもらっている様に、僕も不運に苦しんでいる人を見かけたら、あなたは一人きりではないと心から伝えられる人でありたいと、新年にふさわしいまじめな気持ちにさせてくれた良書でした。

Posted byブクログ

2016/02/18
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

「なぜ」苦しむのか、という本ではない。 私「だけ」が苦しいことに対する、ひとつの答えがこの本にはあった。 著者はユダヤ教のラビで、人間の苦しみに対して神はどういう存在であるのかを聖書を読みながら、自分の体験をまじえながら、書いている。 私は無信仰なので神の部分はさておいて、心の持ちようという部分で考えさせられた。 事故や病気、それ以外にも貧困や偏見などによる挫折などで傷ついたとき、人は自分「だけ」が苦しい思いをしていると思いがちである。 そんなとき、理屈で納得させようとしたり、もっと頑張れと励ましたり、そんなことを考えるなとたしなめたりすることは、どれも間違いである。 周りの人にできることは、ただ黙って傍にいること。ひとり「だけ」で孤独になる必要はないことを伝えること。 “運命の手に一人もてあそばれていると感じるとき、私たちはとかく一人きりで暗い片隅にこそこそと逃げていき、自分を憐れみたくなるものです。そんなとき、私たちは、それでも自分は人々の繋がりのなかの一員なのだということを思い出す必要がありますし、私のことを気遣っていてくれる人が周囲にいるのだ、自分は命の流れに繋がっているのだということを覚えている必要があるのです。” “人びとが自分のことを心配してくれていると知ることは、人の健康状態に影響を与えうると、私ははっきりと信じています。” 時に周囲の人を煩わしいと思うこともあるでしょう。私にはあります。 けれど、それでも、孤独ではない保証があれば、安心して落ち込んでいられるのです。 そして、浮上したくなった時、孤独でないことを感じられれば、どれだけ安心できることか。 著者は神と人の関係についても言及している。 “祈りというのは、基本的には神に哀願してものごとを変えてもらうということではありません。” “わたしたちに災いをもたらすのは神ではなく、巡り合わせです。” 神は全能ではない。 神は人を神に似せて創った。 それは本能だけで行動するのではなく、自分で判断し、選択する能力を人間に与えたということ。 善を選択するのも、悪を選択するのも、それぞれの個人の判断。それを神は覆すことは出来ない。 なぜなら、善をしか選択できないなら、それは何をも選択できないことと同じだから。 では、神はなんのためにいるのか。 “完全でない世界を赦し、そんな世界を作った神を赦し、人々に手をさしのべ、何がどうあろうと生き続けていく”ための動機づけが、神ということのようだ。 私はそこに神を持ってくることは出来ないけれど、言わんとすることはわかる気がする。 立ち直る力は神が与えてくれるのか、自分の心のうちに最初から持っているのかは、人それぞれの宗教解釈によるだろうけれど、人生って公平ではないし、理不尽なものであるとわかったうえで、それでも生きていかなければならない人間ってやつには、傍で支えてくれる存在が必要である。 そういうことなんだと思った。

Posted byブクログ

2015/12/10

原題は“When Bad Things Happen To Good People”だそうですが、この邦題は的を射ているし、読者を引き込むタイトルだと思います。まさに私自身、病を得てこのような思いに取り憑かれていたところでした。 苦しみの渦中にいる方は、この本を読み、心洗われる体...

原題は“When Bad Things Happen To Good People”だそうですが、この邦題は的を射ているし、読者を引き込むタイトルだと思います。まさに私自身、病を得てこのような思いに取り憑かれていたところでした。 苦しみの渦中にいる方は、この本を読み、心洗われる体験をすることでしょう。また、医療や介護など病いや老いに寄り添うお仕事の方、家族や友人の不幸に接し何とか力になりたいとお考えの方には是非一読をお勧めしたいです。宗教の枠を超えて訴えかけるものがあります。 ヨブ記の解釈には、賛否はともかく非常に興味をおぼえました。ここを起点として、色々に考えていきたいです。

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2015/09/15

先日、「不幸とは何か」というお題で話し合う機会があった時にふと思い出した本書。ラビ(ユダヤ教の師)であり子供を難病で亡くした著者が旧約聖書の文学的傑作『ヨブ記』を紐解きながら、人生における苦難との向き合い方について筆を進めていく。因果の誤謬に縛らぬよう諭すのは仏教的だし、祈りを神...

先日、「不幸とは何か」というお題で話し合う機会があった時にふと思い出した本書。ラビ(ユダヤ教の師)であり子供を難病で亡くした著者が旧約聖書の文学的傑作『ヨブ記』を紐解きながら、人生における苦難との向き合い方について筆を進めていく。因果の誤謬に縛らぬよう諭すのは仏教的だし、祈りを神に対する行為以上に共に祈る者たちへの社会的紐帯として考えるその視点はキリスト教めいている。宗教にできること、できないことは何なのか。その限界を身をもって経験しながら導き出された内容は信仰心の有無に関わらず響いてくる良書であった。

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2014/06/05

特定の宗教を信じているわけではないが、それでも不運、不幸に対する考え方として十分に参考になった。 この本の説得力を高めているのは宗教と運命に真摯に向き合う著者のスタンスにあると思う。

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2014/05/15

因果応報。不幸が訪れる時、人はそこに理由を探そうとする。そして時に、神の試練、あるいは神の反感として認識をしようとする。救いのない神を憎む。しかし、著者は、不幸と神は本来無関係であり、不幸が生じるのは、仕方ない確率論だという。そして、滔々と神に祈るべきでは無い事柄を説く。 神と...

因果応報。不幸が訪れる時、人はそこに理由を探そうとする。そして時に、神の試練、あるいは神の反感として認識をしようとする。救いのない神を憎む。しかし、著者は、不幸と神は本来無関係であり、不幸が生じるのは、仕方ない確率論だという。そして、滔々と神に祈るべきでは無い事柄を説く。 神とは何か。この著書から読み取れるのは、人の幸せや不幸の直接的要因として、無関係な存在であるということだ。従い、誰かを特別に選定し、そのような振る舞いをする事もない。このように定義する時、人間の振る舞いの結果や、自然現象も含めた事象に、神は関わらないという解釈になる。著者は、理屈を述べている。しかし、この理屈でどんどん神の型抜きをしていけば、いずれ、神とは等身大の人間自身になるのではないか。当然、カリスマティックな信仰の対象として、人に勇気を与え(勇気を増長させ)、愛を深めさせる事は出来るのかも知れない。 信仰とは、盲目である。しかし、だからこそ、身体をゆったりと預け、安らぎを得ることが出来るのかも知れない。

Posted byブクログ

2014/03/03

ああ、なんで? なんでオレだけが? こんなにも苦しまなきゃいけないの? そりゃ、別にオレが聖人君子のような素晴らしい人間だとは思わないけどさ… こんな目にあうほど悪いことをしたつもりもないよ… つーか、オレより悪いことしてるヤツなら他にもっといっぱいいるじゃん! なのに、何でオレ...

ああ、なんで? なんでオレだけが? こんなにも苦しまなきゃいけないの? そりゃ、別にオレが聖人君子のような素晴らしい人間だとは思わないけどさ… こんな目にあうほど悪いことをしたつもりもないよ… つーか、オレより悪いことしてるヤツなら他にもっといっぱいいるじゃん! なのに、何でオレがこんな目に?! 多かれ少なかれありますよね?こういうの… 何で自分だけ?と… ボクもやっぱりこんな風に思う時あります… 何で自分がこんな目にあうのか? 自分がいけないのか? 何か悪いことをしてしまったのか? 何かの罰なのか? という問いに対して… すぐにはわからないかもしれないけど、神様のお導きなんだよ… この苦難によってあなたは優しくなれる、強くなれる、成長できるんだよ… この困難は乗り越えられる人にだけ訪れるんだよ… といったような答えがよく返ってくる… しかし、この本には… それらは違う、と書いてある… 自分の幼い子供が奇病にかかって、余命十数年と宣告されて、絶望の淵を彷徨ったユダヤ教のラビ(ユダヤ教の教師)… 神に仕える著者の辿り着いた答えが書いてある… ユダヤ教のラビの話だし、副題に現代のヨブ記とか書いてあるからややこしいとか小難しいとか思うかもしれないけど… この著者の身の回りで実際に起きた話を基に、著者のその答え、考えが書かれているので… そして文章に著者の優しさが滲み出ているのでスッゲーわかりやすい… スッと入ってくる… マジで優しく語り掛けてくれている感じ… ボクはユダヤ教やキリスト教の信徒じゃないし… 現実と宗教をギリギリのところで折り合わせている感じもして、ちょっと、ん?と思うところもあるけど… でも… ああ、こういう風に考えるとイイんだな、とか… そういう考えもあるんだな、と… いくつも響きました… まだ潰れそうになるほど深い絶望に陥ったことはないけれども… この本を先に読んでおいて良かった… もしそんな時が自分に訪れたら… この本は例え僅かだとしても、立ち上がるヒントになってくれると思うし… もし、周りに深く絶望している人がいたら、ヨブ記のようにはしない… 私たちにできることは、「なぜ、こんなことが起こったのか?」という問いを超えて立ちあがり、「こうなった今、私はどうすればよいのか?」と問いはじめること…

Posted byブクログ