枯木灘 の商品レビュー
ものすごく緊密な文体でなかなかの難物であるが、読ませる。神話的なテーマに貫かれた圧倒的なスケールと力によって強引にねじ伏せられるかのような体験であった。どう転んでも評価せざるをえないであろう。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
主人公は竹原秋幸である(岬の時点では24歳、枯木灘では26歳)彼女は20歳、紀子。舞台は紀州、枯木灘付近の路地。父は蝿の王こと浜村龍造。彼は3人の女(フサ、キノエ、ヨシエ)と関係を結び、秋幸には腹違いの兄弟が4人いる。現在はヨシエと結婚している。母は竹原フサ。彼女は3人の男(浜村龍造、竹原範蔵、西村勝一郎)と関係を結び、秋幸には種違いの兄弟が5人いる。現在は範蔵と結婚をしている。登場人物はもっと多いが、基本的にはこの関係を軸に物語は紡がれる。大概の小説は、登場人物、特に主人公の心情、欲望、行為などによって進行するが、この小説は関係性そのものが動いている、生きている、それゆえに、秋幸の性格、行動は常にすでに生まれたときに決定していたように錯覚する。 主人公の秋幸は、この入り組んだ関係を作った龍造をフサを憎み、自分が浜村龍造と竹原フサの息子であることを何度も何度も否定しようとする。竹原のお墓にも浜村家のお墓にも入りたくないと秋幸は言う。だが、秋幸がこの2人の息子であることを否定すればするほど、この2人の息子以外の何者でもないことを告白してしまっているように読める。自分を自分たらしめているものは紀州という土地であり、この人間関係でしかない。その現実を否定し、自分が自分であることの根拠を自分に求めた結果、秋幸は「自分はがらんどうだ。草だ。木だ。」という思いに行き着いたのではないだろうか。 「自分はなぜここにいて、あそこにはいないのか」ということに疑問を持ち、自分がイマココに居ることの恣意性をとことんまで突き詰めた人でなければ、こういった関係性、土地の物語を書くことはできないのではないだろうか。(主人公の秋幸にとっては、なぜ自分は竹原家にいて、浜村家や西村家にはいないのかということ)中上健次は孤独な雰囲気を醸す人であったということを何かで読んだことがある。中上健次の孤独とは、(別の時代、別の土地でありえたかもしれないのに)戦後という時代に、新宮という地(それも被差別部落)に生まれたという暴力的な事実と正面から向き合い、関係性の中に埋没することができなかったか、あるいは埋没することを自分に許さなかったがゆえに育まれたものではないだろうか。そんなことを思った。
Posted by
中上自身が「ギリシャ悲劇のようなものを書きたかった」と言っていた『枯木灘』。 再説され、反復することによって、過去が現在に集結する。 寄り集まった「いま」がまた繰り返されて、いま、未来がつくられていく感覚。
Posted by
荒涼とした紀州・枯木灘に土方として生きる2人の男。 彼らを取り巻く暴力・聖俗・性・血縁・閉鎖社会を描ききったドロドロした1冊。特に血縁関係については再説をふんだんに用いて描いてるのが特徴的。 けど実際登場人物の血縁関係が複雑すぎて確実に途中から把握できなくなるっていう・・・。 眠...
荒涼とした紀州・枯木灘に土方として生きる2人の男。 彼らを取り巻く暴力・聖俗・性・血縁・閉鎖社会を描ききったドロドロした1冊。特に血縁関係については再説をふんだんに用いて描いてるのが特徴的。 けど実際登場人物の血縁関係が複雑すぎて確実に途中から把握できなくなるっていう・・・。 眠りを誘う淡々とした文体も印象的だったな~・・・寝る前にはお世話になりました。
Posted by
肉体労働、土方、暴力、被差別部落、腹違い、種違い、海、山、日。 この本を読んだ人にとって中上健次は特別な存在になると思う。 簡単に「オススメ!」とは言えない歯痒さ・・・・・・中上健次の息がかかった文章だからこそ読めた。 クドイぐらいに味わわされるのは、主人公・秋幸が置かれてい...
肉体労働、土方、暴力、被差別部落、腹違い、種違い、海、山、日。 この本を読んだ人にとって中上健次は特別な存在になると思う。 簡単に「オススメ!」とは言えない歯痒さ・・・・・・中上健次の息がかかった文章だからこそ読めた。 クドイぐらいに味わわされるのは、主人公・秋幸が置かれている現実、苦しみ、憎しみの心の内そのまま。 どろどろとした体液のような血のような、人が犬のように生きていて、自分はこの血筋の中で別物でありたいと願いながら、核のようにど真ん中に存在している…。
Posted by
阿部和重がパクリでしかないことがよーくわかる。土地に根ざす狂気と、母親が「いくらきょうだいでも同じ家に若い者が二人もおったらあかん」と言わざるをえないような、家の孕むいびつで淫靡なもの。「郁男は二十四の齢に首を吊った。美恵は古市が安男に刺され死んだ事がもとで気がふれた」。熱に浮か...
阿部和重がパクリでしかないことがよーくわかる。土地に根ざす狂気と、母親が「いくらきょうだいでも同じ家に若い者が二人もおったらあかん」と言わざるをえないような、家の孕むいびつで淫靡なもの。「郁男は二十四の齢に首を吊った。美恵は古市が安男に刺され死んだ事がもとで気がふれた」。熱に浮かされた文体。再説=反復の効果。まるで神話の出で来始めのよう。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
『岬』から続く「中上健次といえば」という作品。私が初めて読んだ中上健次でもあった。再読なので冷静に読めるかと思っていたが、だいぶ揺さぶられた。思わず涙腺も緩んだ。やはりとんでもない力を持つ小説である。 河出文庫版の『枯木灘』には登場人物の複雑な家系を考慮して、後ろに家系図がついている。そして紀州の地図も。昔読んだ時、後ろの家系図を随時確認しながら進めていたことを思い出した。今回もそうしたが、当時、家系図を見ながらでないと読めないような小説が本当にいい小説なんだろうか? という迷いのような思いを抱いたことがあった。1冊の本の中に純粋に書かれていることのみを拠り所にして、作者の思いを汲み取ることができるようにその書物が作られていなければその書物は何かが不足しているのではないか、と。それは、自作の中で他の自作についての言及がある大江健三郎さんのような作家を読む時にも感じていたことであった。 しかし最近は、1冊の本の中に書ききってしまえるような内容であれば、それだけの内容なのかもしれない、と思うようにもなってきている。長年の累積による洗練された集大成的な意味合いを持つ作品ならまた別の話だが、優れた作家というのは、継続して書くこと、考えることの中で進化していっているのではないだろうか。だから出版された本、という形は膨大な著者の思考の海の中の目安になる点でしかなく、読む側にも著者の思考をたどりながら、バラバラなものを再構成するプロセスが必要なのだろう、とそんなことを考えている。中上健次の諸作品は私にとって、そんな読み方をして取り組む価値のあるものだと思っている。労力のいる作業ではあるが。バラバラと言ったが、文庫でいえば奇しくも『岬』は文春、『枯木灘』は河出、『地の果て 至上の時』は新潮と分かれていることもなんだか面白い。本棚に並べるのが好きな者としては出版社を合わせて欲しい、と思ったりもするのだけれども。 『枯木灘』自体を今回読み直して思ったことの一つは、時間的な広がりについての意識が書かれてあるということだ。「蠅の王」浜村龍造が、自身の行為を浜村孫一からの流れで語る部分が頻出するが、読んでいるうちに、この秋幸の物語を語る言葉の中に、この『枯木灘』の中で現在の時間を生きている人間の声にとどまらず、過去にこの土地に生きた人から連綿と受け継がれてきた言葉もそこに織り込まれていって、複雑な模様をなしているように思えてくる。美恵が「兄やん」郁男について振り絞る言葉、ユキが自身の報われない人生について語る呪詛のような言葉。特にこの物語で登場する女性の語りは、遠い昔からの声と混じって聞こえてくるように思われる。それはまさにこの「路地」そのものを書こうとするにはふさわしいありかたなのではないだろうか。 考えてみたいことは山ほどあるが、他の諸作品を読む中でも消化していければと思う。この先も中上健次を読むが、何か1つの作品を読むたびに他の作品での声が頭に響いてくるということがあると思う。『枯木灘』を読みながらも『岬』の諸短編の文章にまとわりついていた熱が呼び起こされることがあった。次は『地の果て 至上の時』だ。
Posted by
戦後最大の作家と名高い中上健次の記念碑的大作。作者の複雑な生い立ちが反映された本作は氏の故郷である紀州・枯木灘に徹底的に固着し、切っても切れない血縁関係のどすぐろさを生々しく表現している。圧倒的な重厚感の漂う文体は一句一文字が息もつけぬような迫力を帯びている。何か自分まで内側に得...
戦後最大の作家と名高い中上健次の記念碑的大作。作者の複雑な生い立ちが反映された本作は氏の故郷である紀州・枯木灘に徹底的に固着し、切っても切れない血縁関係のどすぐろさを生々しく表現している。圧倒的な重厚感の漂う文体は一句一文字が息もつけぬような迫力を帯びている。何か自分まで内側に得体の知れない沈殿物を抱えたような読後感が残ります。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
う~ん、難しい小説だな、色んな意味で。 濃い人間関係と、怨念と、人間の欲と、性が絡まりあった閉鎖的な土地を舞台にした小説。 そういうものの中から産まれたような主人公は、それから背を向けるように肉体労働に励み、心の中の葛藤や欲望を洗い流そうとするが… 蓄積した怒りの奔流は些細なきっかけから吹き出し、重大な過ちを犯してしまう。 閉鎖的な土地柄からその事件は人々の口の端にのぼるが、それすらもただの織物の縦糸一本のように織り込まれ、なんら変わらない日常が繰り返されていく。 そしてその噂で作られた織物は、いつのまにか現実となって人々にまとわれていくのだ。 非現実が現実であり、現実は非現実的なのだと思い知らされる作品。
Posted by
オスカー、百年の孤独の関連で読んでます。 サーガってか血の物語。 女はやっぱり、食い物なんだなあ。
Posted by