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私家版・ユダヤ文化論 の商品レビュー

4.1

71件のお客様レビュー

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2009/10/31

うーん、よく覚えていない。 いずれにしても、いつものうちだ節でロジックが展開し、難しい問題や事象がなんでもないように読めてしまうところがすごい。 非常に高度で哲学的、さらには宗教的な書籍を笑いをともないながら記述できるのは一つの才能だろう。最近は発刊ペースが鈍っているが、もう、十...

うーん、よく覚えていない。 いずれにしても、いつものうちだ節でロジックが展開し、難しい問題や事象がなんでもないように読めてしまうところがすごい。 非常に高度で哲学的、さらには宗教的な書籍を笑いをともないながら記述できるのは一つの才能だろう。最近は発刊ペースが鈍っているが、もう、十分発刊したんじゃないか。 武道やレヴィナスを引用しながら論じていくはいつものことだが、うーん。 よく思い出せないな・・・。

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2009/10/24

「私家版」とつけた手軽さが好ましい、あるユダヤ論。 以前読んだ内田さんの本が面白かったので、これも期待を持って読んだ。 ら、面白かった! 最初の方は歴史を比べながらユダヤ人を事実から見ており、終章の考察(discussion?)がいちばん面白かった! レヴィナスの「原父殺し」に...

「私家版」とつけた手軽さが好ましい、あるユダヤ論。 以前読んだ内田さんの本が面白かったので、これも期待を持って読んだ。 ら、面白かった! 最初の方は歴史を比べながらユダヤ人を事実から見ており、終章の考察(discussion?)がいちばん面白かった! レヴィナスの「原父殺し」について一部よく分からなかったのが心残り・・・ その辺りを勉強して終章だけもう一度読みたい。 <個人的まとめ> ユダヤ人が化学や芸術の分野において優れている、と考えられているのは彼らの民族共通の思考法があるからではないだろうか。 それは常に「遅れて登場した」事を義務付けられ、未来から過去を決定する方法を取っている事だ。 更には、有責性のために「犯していなかった罪」を反省する事で善性を見出す。その受難によって人間が成熟する事を神は促している。 単に愛するだけ<憎悪と葛藤する愛は相殺せず強化され、葛藤が無い場合より強い愛を感じる </個人的まとめ>

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2009/10/12

『寝ながら学べる構造主義』に続き、内田樹氏の作品を読むのは、これが二冊目。 数多くの著書を発表されているが、おそらく氏の「本気」の一冊の一つだと感じた。 ユダヤをもっと知っていれば・・・。 レヴィナスをもっと知っていれば・・・。 もう少し勉強してから、また戻って来ようと思えた...

『寝ながら学べる構造主義』に続き、内田樹氏の作品を読むのは、これが二冊目。 数多くの著書を発表されているが、おそらく氏の「本気」の一冊の一つだと感じた。 ユダヤをもっと知っていれば・・・。 レヴィナスをもっと知っていれば・・・。 もう少し勉強してから、また戻って来ようと思えた一冊。

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2009/10/04

まったく内容には触れていませんが、あしからず。  * 個人的には内田樹の本をちゃんと読むのはおそらく、これがはじめてとなる。いつだったか『映画の構造分析』を読んだはずだが、当時は「映画」についても「構造分析」にも疎かったためにあまり記憶に残っていない。 立場としてはまったく...

まったく内容には触れていませんが、あしからず。  * 個人的には内田樹の本をちゃんと読むのはおそらく、これがはじめてとなる。いつだったか『映画の構造分析』を読んだはずだが、当時は「映画」についても「構造分析」にも疎かったためにあまり記憶に残っていない。 立場としてはまったく異なるので一緒にするのもどうかと思うが、小谷野敦や呉智英と似ている感じで読んだ。これに井上章一を加えて、雑多な知性の在り方というか、興味の赴くままに自由に文章を書ける人たちたちとして、個人的にはカテゴライズ出来るように思う。エッセイのようであり、学術的でもある、そういう感じの文章である。こういう人たちの本を読むと、ひとつの分野に専門的になることの不自由さというのは、たしかにあるのだなと実感できる。もちろんある種の地盤として、そのような専門領域は彼らのうちにも確保されているのだろうけれど、そこにおんぶにだっこ、とはなっていない。だからこそ、臆面もなくその道の大家に対して批判を繰り広げることが可能なのだろう。 ところで、建築において、このような書き方が出来る人を僕は寡聞にして知らない。『法隆寺への精神史』『桂離宮神話の崩壊』など、井上章一はもともと建築の専門教育を受けているし建築の文章も書けるのだが、建築とはすこし距離をとり過ぎていて当て嵌まらない。結局、五十嵐太郎が、建築に足場を置きながら脱領域的に、自由に筆を揮っている論者としておそらく、一般的にも筆頭となるのだが、近年の彼が書くのは時評的な短文がほとんどで、前に挙げた人たちのように思考を転がして長い論考を書くタイプではない。何より、彼は基本的に批評対象を既存の歴史に接ぐことをもって自らの批評としている節があるため、ほとんど率直な否定的意見を(少なくとも)文面上では述べない。この点が上の人たちと少し違うだろう。 建築において、本当の意味で脱領域的タイプの論者が待望される。

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2009/10/04

ユダヤってなんなのかわからなかったので読んでみた。 結局、わからなかった。 でも、わからないものだということがわかる点で、「ユダヤとはこうだ!!」と言ってる本より信頼できる。

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2009/10/04

文章がうまく、いい本だが、著者も認めるとおり基本的には分からないことについて書いてある本なので、まとまりがない。というより脱線・末節的な文章が多い。 ・ディアスポラというユダヤ民族を表す語は、なぜユダヤ民族が優秀かということに対して一つの説明になると思う。この本によれば聖書・タル...

文章がうまく、いい本だが、著者も認めるとおり基本的には分からないことについて書いてある本なので、まとまりがない。というより脱線・末節的な文章が多い。 ・ディアスポラというユダヤ民族を表す語は、なぜユダヤ民族が優秀かということに対して一つの説明になると思う。この本によれば聖書・タルムードに約束された未来に対してユダヤ人は有責であるという→レヴィナス 一方、排斥され、定住を許されなかった歴史こそユダヤ民族を今日の作り上げたともいえる→サルトル

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2009/10/07

思想系の新書にしては読みやすいというか取っつきやすい。(今まで何度となく難しい言い回しに本を放り出してきたのだ) 著者がなるべく伝わりやすく書いているのだとわかる。 だが、内容がわかりやすいかどうかは別問題。そして、著者自身が書いているように、非常に説明しづらい話だ。感想も書きづ...

思想系の新書にしては読みやすいというか取っつきやすい。(今まで何度となく難しい言い回しに本を放り出してきたのだ) 著者がなるべく伝わりやすく書いているのだとわかる。 だが、内容がわかりやすいかどうかは別問題。そして、著者自身が書いているように、非常に説明しづらい話だ。感想も書きづらい…。 でも、決して退屈な話ではなかったのですよ。

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2009/10/04

【ヨーロッパ文化を理解するための一助として】  初心者向けに書かれているが、引用文献がしっかりしている。特に、サルトル原著(安堂信也訳)の「ユダヤ人」(岩波新書、1956)と併せて読むとよい。

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2009/10/04

ま、こんなもんですかね。まずまずおもしろいとは思いました。これは職場の先輩と感想を話し合ったときの雑談ですが、私たち(=ニホンジン)はこの本を「『在日』論」として読むことができる/読むべきであるのではないか、とも思います。姜尚中氏が中村雄二郎氏との対談で触れていた「『エグザイル』...

ま、こんなもんですかね。まずまずおもしろいとは思いました。これは職場の先輩と感想を話し合ったときの雑談ですが、私たち(=ニホンジン)はこの本を「『在日』論」として読むことができる/読むべきであるのではないか、とも思います。姜尚中氏が中村雄二郎氏との対談で触れていた「『エグザイル』の快楽」の話に通じているな、と。あ、ユダヤ人こそ本家「エグザイル」でしたね(汗)(20071005)

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2020/07/15

ユダヤ人というのは、つくづく不思議な民族だと思う。 何故ユダヤ人は繰り返し迫害されてきたのか、という問いに対して、一番政治学的にもっともらしい答えは、「社会的弱者を用意することで、下層市民の不満を緩和するため」、という答えだ。自分も、それが妥当な理由なのだろうとこれまで思っていた...

ユダヤ人というのは、つくづく不思議な民族だと思う。 何故ユダヤ人は繰り返し迫害されてきたのか、という問いに対して、一番政治学的にもっともらしい答えは、「社会的弱者を用意することで、下層市民の不満を緩和するため」、という答えだ。自分も、それが妥当な理由なのだろうとこれまで思っていたのだけれど、ユダヤ人というのは、それだけでは説明がつかない、更に考察が必要なシチュエーションにあるらしい。 ユダヤ人は、たびたび迫害の対象にありながら、経済・文化の要の位置にはかならずといっていいほどユダヤ人の存在があり、きわめて多くのノーベル賞学者を輩出している。その割合の多さは、他民族と比べて突出して多く、もはや偶然では片付けられない数字になっている。 筆者は、「これまでに明確な回答といえるユダヤ人論はなかったし、自分自身も明確な回答を述べられるつもりはない」としながらも、丹念にユダヤ人の特性について一つ一つ検証を進めていく。 そこから導き出される結論はとてもシンプルで、そこに至るロジックも筋が通っていて、とても腑に落ちる総括の仕方だった。 読みながら思ったのは、諸行無常の思想を、常に身をもってシビアに実感しているのがユダヤ人という民族なのだということだ。 普通の市民であれば、ごく自然にどこかの国民として生活をし、無意識的にアイデンティティーを得ているところを、そもそものアイデンティティーを獲得するところから自分自身で始めなければならない。 このことの最も大きなアドバンテージは、考えるという行為をとことんまで追求するのに適した環境を生来的に持っているということだろう。 ユダヤ人ならざる身では、本当のところは理解出来ないのかも知れないけれども、その独特な成り立ちについてかなり詳しく説明されている本だった。 その問いは「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合か、という問いにも書き換えることができる。経験的に言って、人間はまったく無動機的に愚鈍になったり邪悪になったりすることはない。私たちはそうあることを熟慮の末に選んでいるのである。(p.7) 「ユダヤ人」ということばについて私たちがまず踏まえておくべきことは、それを中立的・指示的な意味で用いることがほとんど不可能だということである。私たちは「ユダヤ人」という社会的集団名称を辞書的意味に限定して用いることができない。私たちはつねに何らかの価値判断込みでしかこの語を用いることができない。(p.20) 人々の怨嗟や憎悪を一身に集めてしまう被差別集団はあらゆる社会に存在する。ユダヤ人もまたそのような集団の一つである。ユダヤ人が存在しない集団では、別の任意の小集団が(例えば黒人が、例えばツチ族が、例えばセルビア人が・・)「供犠」対象に選ばれる。その集団が社会の悪のすべてを集約的に表現しており、その集団さえ根絶すれば社会は再び原初の清浄と活力を回復する、そういう種類の「物語」は世界中どこにでもあったし、今もある。それがある社会の構造的な矛盾を隠蔽して、国民統合を成就することのできる「ソリューション」である限り、シニックな政治家たちはこれからも政治的選択肢の一つとして人種差別を繰り返し政治的に活用するだろう、というのが科学的なタイプの供犠論である。(p.165) さしあたりこのようなリストから導き出せるのは、かなりシンプルな言明である。それは「ユダヤ人たちは多くの領域でイノベーションを担ってきた」ということである。私たちが問題にしているのは、あくまで「程度の差」なのであるが、「程度の差」と言って済ませるには、ユダヤ人がかかわってきた文化的領域はあまりに広大であり、彼らがなしとげてきたイノベーションはあまりに多種多様なのである。(p.177) ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と、『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」である。(p.178) 個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて、「端的に人間的であることを目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから、ユダヤ人は「端的に人間的であろうとする」まさにそのみぶりによって、彼だけがユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。(p.197) 私たちがユダヤ人について語る言葉から学ぶのは、語り手がどこで絶句し、どこで理路が破綻し、どこで彼がユダヤ人についてそれ以上語るのを断念するか、ほとんどそれだけなのである。(p.233)

Posted byブクログ