文盲 の商品レビュー
#5奈良県立図書情報館ビブリオバトル「パッション/情熱」で紹介された本です。 2011.8.13 http://eventinformation.blog116.fc2.com/blog-entry-650.html?sp
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本人による自叙伝であるから、本人の書きたいことしか書いてないのは当たり前なんだ。タイトルの『文盲』の意味は深い。
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『悪童日記』三部作を読んだのは、すごく流行っている時期で(1990年代?)、『悪童日記』はいかにもダークな話が好きな中高生向きの話だなと思ったのだが、三部作読み終えると、構成の巧みさ、面白さに舌を巻いた。しかし、何しろ一文が短くて簡潔なので(そんな文章であれだけ奥行のある印象を残...
『悪童日記』三部作を読んだのは、すごく流行っている時期で(1990年代?)、『悪童日記』はいかにもダークな話が好きな中高生向きの話だなと思ったのだが、三部作読み終えると、構成の巧みさ、面白さに舌を巻いた。しかし、何しろ一文が短くて簡潔なので(そんな文章であれだけ奥行のある印象を残せるのだから大した才能なのだが)、まあ、作家は才能あるけど、誰でも読める本だよなあと、流行りに乗りたくない天邪鬼気質が邪魔して手放しに好きとは言えなかったのだ。 今改めてこの本を読むと、簡潔ながら毒のある彼女の文章は、難民生活を送り、「敵性語」で書かざるを得なかった(その前からハンガリーは列強の支配に翻弄されてきたわけで、そもそも「お上」なんて信じないベースもあった)ことに由来することも分かった。 翻訳者の解説にある通り、母語でない言葉で小説を書くと言っても、もともと素養のあったナボコフや、自ら選んだ多和田葉子らとは違う。ハンガリー語で書ける状況があれば、ハンガリー語が良かったのだから。 しかし、ハンガリー語で書いたら、こういう文体にはならなかっただろうし、難民生活がなければ作品も違っていただろう。ハンガリー語で書いていたら、世界で読まれる作家にはならなかっただろう。作家の幸不幸はわからない。 作家だけじゃなく、人間みんな、何が幸せで、何がそうでないのかは、死ぬ時まで分からないものかもしれないなあ、と思った。 また『悪童日記』シリーズ、読もうと思う。
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本文中で「オーストリアの偉大な作家トーマス・ベルンハルト」について描かれている箇所があった。一度読んでみたい。 悪童日記ほど悲惨ではないが、祖国を引き裂かれ母語を奪われるという経験をした著者、意外なほどに遅咲き(なにしろ26歳にしてフランス語を習い始め、その言語でものを描いているのだから)。 『今でもなお、朝、家から人がいなくなり、隣人たちが皆仕事に出かけてしまうと、わたしは少しばかり後ろめたい気持ちで台所のテーブルの前に腰を下ろし、何時間もかけて新聞や雑誌を読む。その間、掃除をしない。前の晩の食器も洗わない。買い物にも行かない。洗濯物を洗うことも、アイロンをかけることもしない。ジャムやケーキを作ることもしない……。 そして、何よりも重大なことに、書くことをしない。』
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“わたしも、始めよう。また学校へ行くのだ。”(P.88) “そしてわたしは、倦むことなしに何度でも辞書を引く。わからないことを調べる。わたしは熱烈な辞書愛好家となる。”(P.90)
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それぞれの著書のあとがきに書いていることとほとんど一緒だったので、すぐに読み終えてしまった。あとがきも他の著書のあとがきとそんなに変わらない内容だったので、訳者さんもこれ以上書くことがないのかなーと。
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あの『悪童日記』の作者の、短く淡々とした叙述に終始した自伝。言語に関する記憶と思索。侵略されることにより、または、亡命することにより、新たに獲得しなければならない言語的経験の恐ろしい体験。書くという喜びと、書き続ける能力を持った天才。
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こんな言い方、平和ボケの日本人が高みの見物を決め込んでいるみたいで気がひけるんですが、読んでて「これって自伝よね?」と何度も確認したくなるような波乱万丈な半生です。亡命先でフランス語を覚え、「カミュサルトルも読めるようになった。フォークナーもヘミングウェイも読めるようになった」。前者はともかく米文学まで・・・??当時のハンガリー語の事情が伺われます。 グルジアのでもアルゼンチンのでも翻訳されている日本語が読める幸せ。 翻訳者の堀茂樹氏は、クリストフ翻訳者としてだけでなく、津崎良典「デカルトの憂鬱」に出てくる、“ジェネロジテ”の語感についてのエピソードでも好感。
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文章がとても美しくて、何度でも読み返したくなる。 兄弟との秘密めいた絆、亡命によるアイデンティティの喪失など、作品に登場するそれぞれのモチーフの源泉をみる思いがした。 フランス語でも読んでみます。
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90頁ほどの短い作品ですが、終始暗い影を落とし重みという読み応えがあります。祖国ハンガリーを逃れ難民となり、母語ではない「敵語」でものを書くことを強いられた『悪童日記』で知られる亡命作家の苦悩と葛藤の日々を描いたエッセイ。 幼少期~夫とともに亡命した時代までの自身が置かれた状況...
90頁ほどの短い作品ですが、終始暗い影を落とし重みという読み応えがあります。祖国ハンガリーを逃れ難民となり、母語ではない「敵語」でものを書くことを強いられた『悪童日記』で知られる亡命作家の苦悩と葛藤の日々を描いたエッセイ。 幼少期~夫とともに亡命した時代までの自身が置かれた状況が淡々と綴拉れていますが、その文字を追っても彼女の心情はほとんど伝わってきません。 「どこにいようと、どの言語であろうと、私はものを書く。」 生きるために“敵性言語”のフランス語を学び書いた作品は世界中に支持される名作となりました。モノクロの世界、荒野にひとり、表情を変えず鋭い眼光で一点をじっと見据える少年―『悪童日記』で読んだ時に感じたイメージが、この自伝を読んでさらにクリアになります。 亡命をした者はそこでまた過酷な選択に迫られます。祖国に戻ろうとする者、耐え切れず死を選ぶ者、祖国への想いを殺してそこで生きる者…。著者は生きることを選びました。ものを書くことでそのアイデンティティを保ち、大きな相手と闘っていたように思います。 彼女の悲痛な想いを少しでも汲み取りたいと思うけれど、日本でぬくぬくと過ごしてきた私が想像力を必死に膨らませようとしてもその境地には到底届かないでしょう。 喜怒哀楽を押し殺したような虚無。その物悲しい静けさが妙に後に残ります。でもこれこそ“生の声”なのかもしれません。
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