大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章- の商品レビュー
「大工よ・・・・」は興味を持って読めたが、「シーモア 序章」は読むのが苦痛だった。 バディによるシーモアの追悼。 ぐだぐだとひねくりまわされた文章が苦手だ。 ユーモアも感じるが、それ以上にエゴが強く出過ぎていて、拒否感がわく。 バディの個性と想いが強すぎて、その奥にいるシーモアが...
「大工よ・・・・」は興味を持って読めたが、「シーモア 序章」は読むのが苦痛だった。 バディによるシーモアの追悼。 ぐだぐだとひねくりまわされた文章が苦手だ。 ユーモアも感じるが、それ以上にエゴが強く出過ぎていて、拒否感がわく。 バディの個性と想いが強すぎて、その奥にいるシーモアが歪んで見える。 あえてこのような作品としているのだろうけれど、私には気持ちの悪い作品だった。 後半の方が、読んでいてシーモアの姿が浮かんできた。 ところどころ笑ってしまう表現もあった。 1999.3.17 非常に読むのがしんどかった。特に「シーモア序章」の方は、時々苦痛を感じるほどであった。何と言うか、文章が凝られすぎている。これは訳されているために起きる問題なのかもしれないし、サリンジャーが意図してよしとしたことなのかもしれない。私の能力が低く、文学においてはこの点が素晴らしいとされているのかもしれない。しかし、今の私には「良い作品」と感じることができない。とはいえ、あちこちにちりばめられたユーモアもすごくわかるし、「大工よ~」は内容的にもかなり面白く、全面否定する気はない。
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読み辛いけど三回目からすんなり読めるようになった。 シーモアがとにかく何に対しても幸せ病なとこがいかれててとても好き。そう言う人格もきっとあるんだろう。兄弟仲良し描写を至上のものと考えているので読んでいる間中めっちゃ幸せ。
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大工よ、屋根の梁を高く上げよ 野崎孝訳 「フラニーとゾーイ(もしくはズーイ)」の内容をしっかりとは覚えてないが、結構好きな作品だと記憶している。 この作品を読んで、第一に、彼らの兄、シーモアに再び会うことができてとても嬉しい気分だ。たしか「ナインストーリーズ」にも登場したはずで、...
大工よ、屋根の梁を高く上げよ 野崎孝訳 「フラニーとゾーイ(もしくはズーイ)」の内容をしっかりとは覚えてないが、結構好きな作品だと記憶している。 この作品を読んで、第一に、彼らの兄、シーモアに再び会うことができてとても嬉しい気分だ。たしか「ナインストーリーズ」にも登場したはずで、それ以来の再会である。 「ライ麦畑でつかまえて」で出会ったサリンジャーだが、シーモアたち兄弟はインテリで、アジアの思想にどっぷり使っている様子が、打って変わって新鮮に感じた覚えがある。また、そのインテリ具合が鼻にかからず、皮肉さは微塵もなく、聡明さを感じさせるから憧れる兄弟なのだ。 ライ麦畑といい(3作しか読んでないけど)、サリンジャーが描く人物たちには、どこか強く惹きつけられる。 読書中、ふと顔を上げて「何時間たったのだろう」と思うと一時間も経っていなかった。それほどまでに没入する読書体験は久しぶりだ。 サリンジャー独特な言い回しやこれほどまでの引力が原作のままなのか(翻訳が素晴らしいのか)、翻訳によって生み出されたものなのか、また、翻訳されていない作品に出会うためにも原作にたくさん触れたいと思わされた。 p104 『結婚する二人は互いに相手に奉仕すべきである、という。互いに相手を高め、助け、教え、強めるべきであるが、なかんずく奉仕すべきである。二人の間の子供は、敬意と愛情をもって、しかも密着しないで育てるべきだ。子供は一家の客であって、愛し、かつ尊敬すべきであるーが、決して所有すべきではない。子供は神のものだからである。 シーモアー序章ー 井上謙治訳 井上さんの訳のせいか、原作のせいか、、とても読みづらかった。「大工よ、、」と比べても、、
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「シーモア ー序章ー」がものすごく読みづらくて、何度も挫折 バディの中でシーモアが神格化されていて、読み終わるのが寂しくなった
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
「ものを書くことはお前にとって宗教以外の何ものでもない」ということを、自分の中にある神格の極致であるシーモアに言われてしまうのはなかなかにつらくない?と思った 書いても書いてもたどり着けない他ならぬシーモアがそれを言うの…そりゃあますます書くよねと思う… 「大工」の方のこのめちゃくちゃ演劇的な感じなんだサリンジャーすっげえな小説でこれをするのかよ…と恐れ入った勉強になった 好きなのは「大工」 ただ静かな空間じゃないと読めない、これは人の会話聴きながら読める文章ではない
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グラース家の長男シーモアに関する二篇。どちらも次兄バディによる手記で、シーモアに対する親愛を至るところに感じることができます。 『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとズーイー』に続く三部作目なので、他の二作品を読んだ後に本書を手に取った方がシーモアの魅力がより増します。 『大工よ...
グラース家の長男シーモアに関する二篇。どちらも次兄バディによる手記で、シーモアに対する親愛を至るところに感じることができます。 『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとズーイー』に続く三部作目なので、他の二作品を読んだ後に本書を手に取った方がシーモアの魅力がより増します。 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』 妹ブーブーからシーモアが結婚することを聞いたバディは、ブーブーの依頼(という名の指示)もありどうにか時間を繕って式へ赴く。しかしシーモアは自身の結婚式当日に「幸せすぎる」という理由で現れなかった。 舞台はおおよそ車内とアパートの一室という限られた空間。新婦側親族のシーモアへの(当然の)辛辣な批判を中心に、まるで演劇を見ているように全ての登場人物が終始生き生きとコミカルに映ります。シーモア本人は登場しない中、会話の流れやバディとブーブーのやりとり、残された日記などを通してシーモアという人間像が徐々に浮き彫りになります。単発の読み物としても十分楽しめる、グラース家の魅力が光る作品です。 ささやかな1コマですが、ご老人の“Delighted(喜んで)”の下りはつい頬が緩んでしまうくらい大好き。 『シーモア-序章』 シーモア亡き後にバディがシーモアについて思うことをつらつらと綴る。 特にストーリーもなくバディの一人語りなので読みにくさはありますが、グラース家の人々が無条件にシーモアを愛し多大な影響を受けていることが伝わる一篇です。
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謎と魅力の多いシーモアに迫る作品。 ようやくここまでたどり着いたという感じ。サリンジャーにとっても、このシーモアという人間ひとりを追うことに、書くことの一生を費やしたのではないのだろうか。 「ほんとう」そのことを求めてやまないシーモアという人間にとって、目に映るあらゆる現象のまば...
謎と魅力の多いシーモアに迫る作品。 ようやくここまでたどり着いたという感じ。サリンジャーにとっても、このシーモアという人間ひとりを追うことに、書くことの一生を費やしたのではないのだろうか。 「ほんとう」そのことを求めてやまないシーモアという人間にとって、目に映るあらゆる現象のまばゆいほどの輝きに焼き尽されてしまいそうだったに違いない。 シーモアのあらゆる言動が、周囲の人間にとっては不可解なものに映るかもしれない。けれど、そのひとつひとつが彼の誠実さに裏打ちされたものであるからこそ、忘れられない、愛されるべき存在であるのだろう。 インドや中国、日本の東洋哲学に通じていたようで、バディの語りを通じて、シーモアというひとつの境地をじっと考え続けていたに違いない。生きること、信仰、サリンジャーにとっては精神というひとつの同じ蓮の上のことだったのだろう。 シーモアの序章とあるが、おそらくは概観・概要といった方が正確か。グラース家の時間的な始まりではなくて、シーモアという人間を少しでもとらえようとするバティの精神の軌跡なのだ。だが、このとらえどころのないひとりの人間の概観を描こうとするには、あまりに彼の魅力を捨象してしまう。だからこそ、書き、考えながら時間をいったりきたりして、少しずつ何かとどめようとしているのだ。 シーモアの自殺について探求していくというよりかは、シーモアという存在に深く根を下ろそうとしていく。自殺についてどうして死んだのかというより、この人物はいったいなんなのか、その言動をひとつひとつ紐解いていくよう。自殺という現象さえも、シーモアという人間の一部であるかのよう。 ことばが続かないほど、バティはシーモアのことを好いていた。簡単にことばが紡げてしまったら、それこそ、シーモアを間違って歪めてしまうのではないのかと恐れているのが伝わってくる。 サリンジャーにとっても、このシーモアについてとっかっかるということはひとつの区切りだったのだろう。グラース家がこの後どう続いていくのか、追っていきたい。
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何度も読んだにも関わらず「シーモア序章」については感想らしきものを書けそうにないので、以下は「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のみを対象としたレビュー。 結論から言うと、めちゃくちゃ面白い。でも、かなり人を選ぶ。 サリンジャーならではの文章スタイルがこの作品の頃には完成...
何度も読んだにも関わらず「シーモア序章」については感想らしきものを書けそうにないので、以下は「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のみを対象としたレビュー。 結論から言うと、めちゃくちゃ面白い。でも、かなり人を選ぶ。 サリンジャーならではの文章スタイルがこの作品の頃には完成系を迎えていて、初読時には迂遠に感じられるかもしれない(おまけに訳がそれに輪をかけている。そもそもサリンジャー作品を完璧に日本語訳するのは不可能だと思う)。 「大工よ~」におけるサリンジャーの文章スタイルについて述べると、言うべきことを具体的には言わず、示唆させるに留めるという感じ。 示唆というのは、例えば本来そこでその言葉を使うのはふさわしくねえんじゃねえかという表現をしてみることや、このタイミングでそれに触れる必要があるのかというような言及をすること。そうした違和感から、言外に滲み出ているニュアンスを汲み取ったり、伏線丹念に回収していったりすることが読者には求められる。 そういう風に時間を掛けてディテールにこだわって暗号を解読するように読んで初めて、本当に面白いと感じられる話じゃねえかと思う。 例えば、本文を読み進めていると、割りと唐突な形で何度も《この年は1942年だった》というようなフレーズを見掛ける。 この唐突なコピペ的一節は、それくらい1942年という年が合衆国社会にとって大きく不気味な意味をもつものであることを示しているのだろう。 主人公が自身の不可解で不自然な行動を《この年は1942年だったから》と説明しているあたりにその闇の深さを伺うことも出来ると思う。 (自身の思いを第二次世界大戦が最も激化した年号に代弁させるしかない人物の心情はどんなものか) 話の構成事態は決して複雑ではないし特段ドラマチックでもない。 第一人称人物バディ・グラースが、自身の兄の結婚式が開かれる予定だった一日を後日談的に回想したもの。婚礼を巡るドタバタから、ある種の教訓らしきものを見出だして終わる。 物語後半では神と人間、あるいは主客の問題など、宗教的であったり哲学的であったりする話題が頻発するようになる。読み進めるのに注意の必要な作品ではあるが、そこら辺の知識はなくても楽しめると思う。
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「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」は、ほっこりした。バナナフィッシュを読んだときのシーモアの印象がだいぶ変わり、シーモアも人間なんだと思った。「シーモアー序章ー」は読み終わるのにかなり時間がかかるくらいよくわからなかった、、、。バディはシーモアが大好きなんだなとしか。しばらく時間を...
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」は、ほっこりした。バナナフィッシュを読んだときのシーモアの印象がだいぶ変わり、シーモアも人間なんだと思った。「シーモアー序章ー」は読み終わるのにかなり時間がかかるくらいよくわからなかった、、、。バディはシーモアが大好きなんだなとしか。しばらく時間をおいてまた読みたい。
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感情のままに流される人を眺めながら、そんな人や世の中を逆手にとって自身の内面を高める生き方に、幾分救われた気持ちになる。期待してなどいなかったから。
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