知的生産の技術 の商品レビュー
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文の書き方、読み方、思考、データのまとめ方等について 第一刷発行が今から40年以上前なだけあって、 現代ではパソコンを使えば、 苦もなく出来る事(データ整理、管理や、日本語タイピング)に 40年前は苦労していたことが分かる。 パソコンの普及に伴い、 データ整理に苦労しなくなった現代、 知的生産活動により創造されるモノの 効率、品質は上がっているんだろうか。
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1969年。他の本で紹介されていたため読んでみました。 当時を窺えるのもまた面白いです。 知識・研究について模索されたことや論じたことが提言として書かれています。 ○学校は知識を教えるが知識の獲得の仕方は教えない ノートの書き方や読書の仕方、 原稿・手紙の書き方など基礎的な技術は、 個人が工夫して開発したり、他人から見て学ぶものとして、 体型的に教えることがされていない。 しかし皆悩むところや工夫した結果は大差ないものなのだ。 というようなことが書かれており、共感しました。 基礎的な内容とはいえ、人間としての在り方を左右するものでもあると思います。 今探すとその成果ともいえるものがあるのでしょうか? 次に繋がる1冊です。
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気になったところ * p15 アメリカでは、初等教育においてFORTRANを教えることが始まった(1969年出版時)→日本の情報教育の遅れを痛感した。 * p1 「芸のコツというものは、師匠からおしえてもらうのではない。ぬすむものだ」というのである。おしえる側よりもならう...
気になったところ * p15 アメリカでは、初等教育においてFORTRANを教えることが始まった(1969年出版時)→日本の情報教育の遅れを痛感した。 * p1 「芸のコツというものは、師匠からおしえてもらうのではない。ぬすむものだ」というのである。おしえる側よりもならう側に、それだけの積極的意欲がなくては、なにごとも上達するものではない、という意味だろう。→共感。空手の中村先生にはじめに言われたことと同じ。 * p3 (学校というものは、)知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである。p4 おしえてくれないからこそ、学生たちは自発的・積極的に、自分で工夫し。あるいは先生や先輩のやりかたを「ぬすんで」、どうやらきりぬける方法を身につけるようになるのである。 * p29 「発見」は、できることなら即刻その場で文章にしてしまう。p30 (手帳は)いつでもみにつけていなければならない。 * p35 きれいにノートをつける人がおおいのには感心する。ノートというものはこういうものだとおもって、うたがいもせず、自分の字のほうをそれにあわせて、縮めてきたのだろう。 * p54 コンピュータ=忘却の装置 * p81 整理を実現するには→ 1.「あり場所」が決定されている。これを記憶しておくには、体系的でなければならない。また、取り出したら、元に戻すことを徹底しなければならない。 * p93 知的生産のために必要な部分空間は、仕事場と、「事務所」と、資料庫と、材料置き場である。 * p95 (整理とは、)むしろ、精神衛生の問題なのだ。いかにいらつきをへらすか、という問題なのだ。 * 読書について>>p101 内容の正確な理解もためには、とにかく全部よむことが必要である。「ななめよみ」はきわめて危険で非効率的な読み方であろう。→はじめからおわりまで読んだ本に対してだけ「読んだ」という語をつかうことを許す。一部だけよんだ本にいは「見た」という語を使う。 * 読書>>p109 わたしは、読み上げた本を、もう一度はじめから、全部めくってみることにしている。そして、さきに印をつけたところに目を通すのである。そこで、なぜ印をつけたのかあらためて考えてみる。→二度読むことのよって理解がます。(一部でも)また、印には、「だいじなことろ」と「(自分にとって)おもしろいことろ」の分かれる。重要なのは、後者である。 * 読書>>p114 読書においてだいじなのは、著者の思想を正確に理解すると共に、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ。 * 日記>>p163 日記とは、要するに日付順の経験の記録であって、文学的なものではない。p165 日記は自分にための、業務日誌なのである。 * 日記書き方>>p167 * 記録>>p170 ものごとは、記憶せずに記録する。 * 日記の意味>>p174 すべての経験は進歩の材料である。p175 知的生産に携わろうというものは、若いうちから、自家用文書館の建設を心がけるべきである。 * 文章p200 文章をかくという作業は、二つの段階がある。一つは、考えをまとめる段階。二つ目は、それらを実際の文章にする段階である。→p201 なかなか、筆が進まないときは大抵、第一の段階がうまくいってないときである。
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意外と梅棹忠夫先生の本って読んだことが無いと思い購入。情報とか資料の整理を考える時、どうしても「お片付け」という発想に陥りがち。知的生産の技術に触れて改めて肝に銘じたいことは、ちゃんと後工程を考えること、つまりは情報や資料は手に入れて終わりではなく、その後の「転用」、「応用」が効...
意外と梅棹忠夫先生の本って読んだことが無いと思い購入。情報とか資料の整理を考える時、どうしても「お片付け」という発想に陥りがち。知的生産の技術に触れて改めて肝に銘じたいことは、ちゃんと後工程を考えること、つまりは情報や資料は手に入れて終わりではなく、その後の「転用」、「応用」が効いてナンボなんやと。勉強させていただきました。
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様々な本で紹介されていたので購入しました。1969年発行とのことでしたが、現代でも十分参考になる話ばかりでした。現代のノウハウ本の原点を見た印象です。
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これを読んで京大カードなるものを使ってみようと思った. Evernoteは便利だけど,見直す際には自由度が低いから,手書きも大事にしようと思う.
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さすがに40年も前の本なので書いてあることはアナログな情報処理の話で、今の時代だったら全てコンピュータでやってしまうようなこと、タイプライターだったり手紙についてだったり原稿の記法だったりでしたが、頭の使い方というか、「知的生産」をするにあたっての心構えみたいなものは学べたかと思...
さすがに40年も前の本なので書いてあることはアナログな情報処理の話で、今の時代だったら全てコンピュータでやってしまうようなこと、タイプライターだったり手紙についてだったり原稿の記法だったりでしたが、頭の使い方というか、「知的生産」をするにあたっての心構えみたいなものは学べたかと思います。 本書を通して知的生産に関する取り組みの「刺戟になればよい」と著者がはじめに再三述べるように、いわゆる「ハウツー本ではない」です。 そういう意味では、具体的手法として身につくところは少ないですが、取り組み方、心構えについて考えるところになったのでよかったかなーと思います。 ところどころ、現代の情報社会を見越したような記述があるところには驚きました。
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1969年に、こんな手法を実践しており、そして、それが今でも活かせる点に大きな感銘を受けた。当時はパソコンのような便利な道具がなく、あってタイプライター、基本は手書きの時代。それでも、情報の整理とそれを元に生み出す基本は同じ。今後も、ずっと通用する技術が満載。
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なにかのビジネス書を読んでいた時に、おすすめの書籍に挙げられていたこの一冊。 ここ数年、古くても10年以内に出版された本が大勢を占めるなか、1969年発売と群を抜いて古いこの本が、なんだかやけに気になった。 書名の「知的生産」という言葉にも、なんだか無性に惹かれた。さっそく図書...
なにかのビジネス書を読んでいた時に、おすすめの書籍に挙げられていたこの一冊。 ここ数年、古くても10年以内に出版された本が大勢を占めるなか、1969年発売と群を抜いて古いこの本が、なんだかやけに気になった。 書名の「知的生産」という言葉にも、なんだか無性に惹かれた。さっそく図書館に行って読んでみて、あまりにおもしろかったので一気に読み終える。そして、そのまますぐ書店に直行し、買ってしまった。 本を読んで、こんなに衝撃を受けたことはなかった。著者である梅棹忠夫の考え方、そして手法に、ただひたすら感動した。それと同時に、これまでの自分がいかに考えなしに生きてきたんだろうかと猛省した。 まず、一番最初に印象に残ったのが、この一文。 【なんにもかいてなかったら、わたしは毎日大発見をしたような気になっても、じっさいのわたしの知的活動の内容は、何年もまえとおなじところで足ぶみしているかもしれないのだ。(28ページ)】 これまでの人生では多くの物事を学び、体験してきたつもりだった。 でも、考えてみれば、それを記録に残して蓄積するという行為は、ほぼまったくと言って良いほどできていない。代表的な学生時代のノートだって、その場で板書を写して、テストが終わったら、もう見返すことはない。今となっては、それらのノートなんて全部資源ゴミに出されて再生紙になっている(と思う)。 当然、自分のアタマの中に全部記憶できているワケはない。 …いや、むしろ、ほとんど入っていない。 学生時代のコトだけじゃない。社会人になってからだって、状況的には大差ない。これまでにやってきたシゴトだって、その場その場で処理はできても、ろくに記録に残してきていない。毎回同じようなトコでつまづき、毎回同じように調べたり工夫したりして、処理をしているような。 …まさしく、ボクは“足踏み”している。 【今日では、情報の検索、処理、生産、展開についての技術が個人の基礎的素養として、たいせつなものになりつつあるのではないか。(18ページ)】 まさしく、その通り。 シゴトに限らず、日常生活の諸々にしたって、この考え方は生きるはずだ。 むしろ、そうしなきゃいけない。そう思った。 この瞬間から、梅棹忠夫はボクの“心の師”になったのでした。
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技術論もさることながら,技術を解説する上での失敗過程や歴史的背景も触れられている。初版からかなりの年月が経過している本ではあるが,とても示唆に富んでいる。自己啓発本が蔓延している現在でも,新たな気づきを十二分に得られるのではないかと思う。
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