1,800円以上の注文で送料無料

日本宗教のクセ
  • 新品
  • 書籍
  • 書籍

日本宗教のクセ

内田樹(著者), 釈徹宗(著者)

追加する に追加する

日本宗教のクセ

2,090

獲得ポイント19P

在庫あり

発送時期 1~5日以内に発送

商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 ミシマ社
発売年月日 2023/08/04
JAN 9784909394910

日本宗教のクセ

¥2,090

商品レビュー

4

9件のお客様レビュー

レビューを投稿

2024/09/24

「夕日」や「お墓」、「政教分離」をキーワードに自由な対談が行われています。当該の書籍を読んでいないのでわかりませんが、内田氏の「日本習合論」の考え方をベースとしているようです。 少なくとも習合している状態は良いことであるということが前提として話が進んでいきます。 思うに、「境...

「夕日」や「お墓」、「政教分離」をキーワードに自由な対談が行われています。当該の書籍を読んでいないのでわかりませんが、内田氏の「日本習合論」の考え方をベースとしているようです。 少なくとも習合している状態は良いことであるということが前提として話が進んでいきます。 思うに、「境界線を適度に曖昧に保っておく」というのが、宗教を考えるうえで重要な概念になってくると感じました。 神仏習合は、仏教と神道の境界を曖昧にしておく考え方とも言えます。 夕日は、昼と夜・安全と危険の境界であり、その曖昧さ、両義性に人間は惹かれるのでしょう。アメリカの開拓者たちは、その夕日が沈む方に向かってフロンティア(境界)を押し進めて、境界を無くしていったとも言えるのではないでしょうか。 また、物狂いは異界とのチャネルを有しており、普通の人が感じ取れないものを感じ取れると考えられていたとのことです。普通の社会では居場所がないようでも、生きていくために必要な非社会的な役割を担っていることを皆がわかっていたため、支えられて居場所を与えられてきたと考えられます。 そう考えると、新宗教の教祖に、いまでは精神病と見なされるような狂った言動をする人物が多かったことも分かる気がします。そのような物狂いと社会的な人間との間に、さらに科学で境界を引いてしまった現在では、宗教的なものと触れ合う機会が失われているのかもしれません。 そして、死者は「生きている人間」と「もう土に還った人間」との境界に位置するものであり、死んだからといって何もなかったことになるわけではないという意識は、死というものに対する宗教的な考え方の第一歩です。 この「境界」というキーワードを用いて、最後に釈徹宗氏が宗教的センスに関して大変共感できる考え方を述べていました。 「信仰・信心というのは、信じている人と信じていない人との境界を生み出すわけです。それを避けることができない。だから、信仰や信心は常に他社を傷つける可能性をはらんでいる。そのことに自覚的であるかどうか。また、宗教に無自覚な人は、他者の信仰や信心に対して鈍感になりがち。それは、無自覚に他者の尊厳や人格を棄損してしまいがちだということです」 今後、釈徹宗氏の著書も読んでみたいと思わせてくれた一冊でした。そして実際にNHK出版の『問われる宗教と”カルト”』に出会うことができました。 なお、前提知識が無いからか、内田氏の言葉選びが難解だからか、読みにくいところもありました。政治(自民党)や原発を批判したいがあまりにこじつけていると思わされる部分も見受けられます。印象に残ったフレーズの多くは内田氏の発言でしたが、文脈を考えて見直してみると、何かそれっぽいことを言っているような物言いで煙に巻かれている気分。こういう本は結論を求めるものではないのでしょうが、なぜこの話をしているのだっけ?と見失うこともありました。

Posted by ブクログ

2024/08/20

誰もが主観的願望や偏見を投影して世界を見ている。「私が見ている世界だけが真の客観的現実で、お前たちの見ている世界は幻想だ」と言う権利は誰にもない。「自分が見ているものの客観性を過大評価しない」というて知的節度は必要だが、「誰もが主観的バイアスのかかった現実認識をしている。みんな妄...

誰もが主観的願望や偏見を投影して世界を見ている。「私が見ている世界だけが真の客観的現実で、お前たちの見ている世界は幻想だ」と言う権利は誰にもない。「自分が見ているものの客観性を過大評価しない」というて知的節度は必要だが、「誰もが主観的バイアスのかかった現実認識をしている。みんな妄想のうちにいるのだ」というニヒリズムに飛躍することに反対である。確かに全ての人は主観的願望を投影して、幻想的な世界を見ているのだけれど、幻想にも身体レベル、心のレベルで「受け入れられる幻想」と「人として受け入れがたい幻想」の違いがある。ものごとには「限度」というものがある。その限度を超えるふるまいに僕は自制を求めているのです。

Posted by ブクログ

2024/05/26

『日本宗教のクセ』 内田樹・釈撤宗 2024年5月26日 8:21 まだ、文章にまとめるには脳内で整理しきれていないが、人間の認識を広げるものとしての宗教としての機能はやはり絶対的に認めることができると思う。現在、(自分を含めて)大衆社会の中で、時間や空間の感覚が狭くなってい...

『日本宗教のクセ』 内田樹・釈撤宗 2024年5月26日 8:21 まだ、文章にまとめるには脳内で整理しきれていないが、人間の認識を広げるものとしての宗教としての機能はやはり絶対的に認めることができると思う。現在、(自分を含めて)大衆社会の中で、時間や空間の感覚が狭くなっているとも感じるが、特に社会保障やセーフティネットの問題を考える場合、いかに不遇の人々を自分自身の変容態と認識しきれるかによって、徴税能力が大きく異なると感じる。究極的には、社会はあらゆる虚構的存在によって成り立っているが、その虚構をどこまで害のない形で信じ切れるかによって、社会の運営、引いては個人としての幸福にも大きく影響するのではないかと感じる。最初に引用するお話の中でも、カントよろしく、すべての人々にとっては世界はあくまで主観的な認識に基づく幻想にすぎない。しかしながら、自分が見ているものが幻想であり、他者もまた全く異なる幻想を見ているという双方に自制の効いた状況の中で、お互いが折り合っていくかという意味では、年季の入った古来からの宗教には、幻想の弱毒性のレベルが高いのではと感じる部分がある。 • 最近、Twitterでも内田老師がつぶやいていたが、主観的な認識に対する「程度の問題」ということを、よくよく理解しなければならない。近現代の思想の中で、構造主義やマルクス主義では、「大きな物語」が重宝されていた。多くの事柄を説明できるような大きな器に乗っかっている時代である。しかしながら、ポストモダニズムの中で、我々が見ているものはすべて主観的な幻想であり、客観的事実は存在しないということが叫ばれ始める。これはこれで、「自分が見ているものの客観性を過大評価しない」という知的態度としてはよろしいのであるが、それを推し進めた結果、「誰もが主観的バイアスのかかった幻想の中で生きているゆえに」不可知論に陥り、相対主義の中で折り合いがつかなくなってしまうことは、よろしくない。我々が目にしているあらゆる幻想の中で、「受け入れられる幻想」と「人として受け入れがたい幻想」をしっかりと区分けして、ブリッジングすることが、現在の市民に求められていることではなかろうか。最近、新入社員や若手社員とお話することが多くなったが、結構理想主義的なことを言うメンバーも多い。私自身もかつてはそうであり、今ですらも諸先輩方にはそう思われているようにも思えるが、会社という不完全な人間の集合体において、正直、問題のない組織はない。潔癖的に処理してしまえば、たちまちメンタル不調に陥る中で、組織としてクリティカルな問題から、一つ一つ手当て(決して、解決ではない)を施していくしかないのであろうと言う積極的諦念が生まれてからというもの、とても仕事がしやすくなったというブレークスルーが私自身がある。実際に、リーダー陣と話してみても、巷に言われる課題解決能力というものはいささか曲解されている節もあるように思える。身もふたもない話であるが、課題は解決できないのである。そもそもにおいて、世の中のすべての課題のうち、我々が認識できる課題が一部であり、そうした課題の中でも、どの課題が一番クリティカルで、なおかつ機会にも変容しやすいかという課題間の見極め能力が高い人が、やはり課題”解決”能力が高いのではないかと実際に組織の中にいると感じるのである。 Go Westという性分:夕日の習合論の中で出てくる話であるが、人間には西へ向かう性質があるのではないかいうものである。世界史の中で登場する多くの帝国や、先駆者は西へ進んできているという趨勢がある。想像にたやすいのは、アメリカの開拓期であり、そもそもにおいて、ヨーロッパから西へ進んできたのがアメリカと言う国の建国そのものである。さらに、中国を見ても、唐の時代も西へ進み続けている。中国が東に来たのは実に始皇帝が不老不死の秘薬があるとそそのかされて船出した時と、まさに元寇の時くらいであろう。なぜ人は西へ進むのか。それは夜を迎えないためであるというのが内田老師の仮説である。当たり前であるが、人は西に進み続ける限り、夜を迎えることはない。体内時計ならぬ、体内方位磁針のようなものがあり、集合的無意識の中で西へ進む性質があるのではないかという想像である。なお、世の中にはオリエンテーションという東へ向くという単語はあるが、オクシデンテイトという言葉はない。いささかこじつけのような感もあるが、西には無意識に向かうため、東へ向くということには概念が必要と言うことらしい。

Posted by ブクログ

関連商品

同じジャンルのおすすめ商品

最近チェックした商品