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存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて
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存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて

東浩紀(著者)

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存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 新潮社
発売年月日 1998/10/30
JAN 9784104262014

存在論的、郵便的

¥2,420

商品レビュー

4.3

24件のお客様レビュー

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2025/05/24

東浩紀によるデリダ論。脱構築とかグラマトロジーとか散種とか幽霊とか、独自の哲学理論を構築して70年代の現代思想に多大な影響を与えたデリダだが、中期にあたる著作には内容がひどく難解で何を言ってるのか、何がしたいのかよくわからないものがたくさんあるけど、これって結局何なの?なんでこん...

東浩紀によるデリダ論。脱構築とかグラマトロジーとか散種とか幽霊とか、独自の哲学理論を構築して70年代の現代思想に多大な影響を与えたデリダだが、中期にあたる著作には内容がひどく難解で何を言ってるのか、何がしたいのかよくわからないものがたくさんあるけど、これって結局何なの?なんでこんな意味のわかんないものを書いたの?というところに目を向け、詳細に解説している。そのために用いられるのが「存在論的」という言葉と「郵便的」という言葉。語れ得ぬものが世の中にはあることを言葉によっていかにして語るかという命題を己に課して書かれた本がデリダの中期著作群の役割、ということなのだろう。一応その論旨はわかったのだが、細かい部分についてははっきり言ってちんぷんかんぷんな部分が多く、到底すべてをちゃんと理解したとは言い難い状態でとりあえず読了。その答えを最後まで取っておきながら最終章へ論を進めていくやり方や、最後にそれら積み上げてきたものをうっちゃってしまうあたり、ミステリー小説のようでさえある(確かこれは千葉雅也が『現代思想入門』でも言ってた本書の感触)。まあよくわからないところはよくわからないものとして、据え置くってのは、ある意味でデリダ的と言えなくも無さそうだし、いずれまた読み直すときがくるかもしれないけれど、もうここらでこの文章は打ち切るべきだろう。

Posted by ブクログ

2024/12/08

ようやく読了。 時間をかけて読み終えそれでも理解できた実感がない。27歳の英俊が書いた本とあるが、東浩紀の写真が若い。後に加齢臭騒動でネットを賑わすことになるなど想像もつかない、爽やかな青年だ。最初の著作らしい。気合いが違う。難解だ。 幸い別書で千葉雅也がデリダについて平易な...

ようやく読了。 時間をかけて読み終えそれでも理解できた実感がない。27歳の英俊が書いた本とあるが、東浩紀の写真が若い。後に加齢臭騒動でネットを賑わすことになるなど想像もつかない、爽やかな青年だ。最初の著作らしい。気合いが違う。難解だ。 幸い別書で千葉雅也がデリダについて平易な言葉で解説してくれていたので、パロールとエクリチュール、脱構築的な概念は何となく目で追える。誤配や散種、差延についても、それを手引書に考えながら読む。言葉は、一意に定まらない。無茶苦茶乱暴に言えば、それを巡る思索でもある。 ー 社会性および歴史性のアプリオリな普遍的諸構造の内部で、そしてそのおかげによってのみ可能なのだ。あらゆる相対主義は、経験的他者を「他者」として見出す視線(感情移入)のうえに成立する。フッサールが問題とするのがまさにその視線のもつ普遍性の起源である以上、彼の議論は文化相対主義に先行している。そしてそこで「ヨーロッパ的人間性」に絶対的価値が与えられるのは、私たちが「幾何学」の起源と理念性について検討したものと同じ理由からである。 ー 私たちはすでにアウシュヴィッツの例で、固有名の事後性について考察した。ソクラテスもまた事後的にのみ固有名に、精神の起源になる。そしてデリダは固有名的単独性を支えるその事後性=反復可能性、ソクラテスの背後にいるプラトンを決して忘れることができない。引用箇所の最後でデリダは、「郵便 poste」について触れている。私たちはつぎの二章で、この語が「かも知れない」を表す代表的隠喩であることを詳しく検討することになるだろう。ソクラテスは忘却されたかも知れない。彼の無知は知に、イロニーは哲学に回収されなかったかも知れない。その偶然性の記憶が、脱構築を駆動する。哲学の歴史は固有名の集積である。そしてそれは偶然的かつ経験的に成立したものでありながら、必然的かつ超越論的に真理を語る。「哲学」と名指された知を支えるこの逆説の意味を、デリダはきわめて真剣に考えている。もし「哲学」全体がひとつの言語ゲームでしかないとすれば(この立場は多くの相対主義者、例えば前述のローティによって主張されている)、他の諸哲学はつねに可能であり、したがって、新たな哲学を、つまり新たな語彙とスタイルと参照項を発明する試みが常に求められることになる。 ー 「プラトンのパルマケイアー」における例を借りれば、「代補の論理」とはつぎのようなものだ。プラトンの対話篇、とりわけ『パイドロス』では、エクリチュール(書くこと)はまず記憶を代補するものとされる。しかし現実には、ひとは書き記すことによって、むしろ気を抜いてそれを忘れてしまうことがある。それゆえソクラテスは同時に、しっかりと記憶するためにはむしろ書き記さないべきだ、というアドヴァイスもまた行わねばならなくなる。しかしこれは矛盾している。エクリチュールは記憶力を補う(強化する)と同時に脅かす(弱体化する)というのだから。この自家撞着的な論理が「代補の論理」と呼ばれる。前章を受けて言えば、ここでもまたコンスタティヴとパフォーマティヴの衝突が問題になっている。「エクリチュールは記憶を代補する」という命題は、パフォーマティヴに受け取られたとき「エクリチュールは記憶を代補する」から記憶しなくてもよい」、コンスタティヴな命題内容と逆の事態を引き起こしてしまう。つまり「代補の論理」とは、一つの言説に対する二つの読解レヴェルの必然的短絡に注目するものであり、これは形式的にはゲーデル的決定不可能性の問題に等しい。そしてデリダの考えではより一般的に、記憶/エクリチュール、一次的/二次的、オリジナル/コピーといった二項対立はすべて必然的に、「代補の論理」的自家撞着、すなわちゲーデル的自壊の地点をその内部に宿している。 ー シニフィアン(signifiant)とは、言語学用語で「能記」とも訳され、言語記号の表現面(音のイメージや聴覚映像)を指します。シニフィアンと対比される言葉に「シニフィエ(signifié)」があり、これは言語記号の内容面(意味や概念)を指します。シニフィアンとシニフィエは、言語体系内で分節された記号(シーニュ)を構成する2側面で、互いの存在を前提としてのみ存在します。 目の前の事物に与えられた名前を伝達するだけならば、人は容易に言葉を扱える。目に見えない言葉を如何に誤配せず届けられるだろうか。しかもその文意は時代背景によっても異なる。その言葉で形成されたルールがまた構造を築くのだし、教科書ともなる。ただ、一つ言えるのは、我々の大衆世界は言葉に厳密に規定された世界を生きているのではなく、観念世界の比重が高く、さらには、その意味さえもデフォルメ化した印象世界で生きているという事だと思う。

Posted by ブクログ

2024/09/26

「なぜ中期デリダはあのような奇妙な文章を用いたのか?」 という謎が提示され、ミステリ小説みたいにその真相に迫っていくのでワクワクした。 特に「散種」の説明はとても分かりやすく、初めて理解できた気がした。 しかし最後にはまさかのどんでん返し。 メフィスト賞かよ……!

Posted by ブクログ