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存在論的、郵便的 の商品レビュー

4.3

23件のお客様レビュー

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2024/12/08

ようやく読了。 時間をかけて読み終えそれでも理解できた実感がない。27歳の英俊が書いた本とあるが、東浩紀の写真が若い。後に加齢臭騒動でネットを賑わすことになるなど想像もつかない、爽やかな青年だ。最初の著作らしい。気合いが違う。難解だ。 幸い別書で千葉雅也がデリダについて平易な...

ようやく読了。 時間をかけて読み終えそれでも理解できた実感がない。27歳の英俊が書いた本とあるが、東浩紀の写真が若い。後に加齢臭騒動でネットを賑わすことになるなど想像もつかない、爽やかな青年だ。最初の著作らしい。気合いが違う。難解だ。 幸い別書で千葉雅也がデリダについて平易な言葉で解説してくれていたので、パロールとエクリチュール、脱構築的な概念は何となく目で追える。誤配や散種、差延についても、それを手引書に考えながら読む。言葉は、一意に定まらない。無茶苦茶乱暴に言えば、それを巡る思索でもある。 ー 社会性および歴史性のアプリオリな普遍的諸構造の内部で、そしてそのおかげによってのみ可能なのだ。あらゆる相対主義は、経験的他者を「他者」として見出す視線(感情移入)のうえに成立する。フッサールが問題とするのがまさにその視線のもつ普遍性の起源である以上、彼の議論は文化相対主義に先行している。そしてそこで「ヨーロッパ的人間性」に絶対的価値が与えられるのは、私たちが「幾何学」の起源と理念性について検討したものと同じ理由からである。 ー 私たちはすでにアウシュヴィッツの例で、固有名の事後性について考察した。ソクラテスもまた事後的にのみ固有名に、精神の起源になる。そしてデリダは固有名的単独性を支えるその事後性=反復可能性、ソクラテスの背後にいるプラトンを決して忘れることができない。引用箇所の最後でデリダは、「郵便 poste」について触れている。私たちはつぎの二章で、この語が「かも知れない」を表す代表的隠喩であることを詳しく検討することになるだろう。ソクラテスは忘却されたかも知れない。彼の無知は知に、イロニーは哲学に回収されなかったかも知れない。その偶然性の記憶が、脱構築を駆動する。哲学の歴史は固有名の集積である。そしてそれは偶然的かつ経験的に成立したものでありながら、必然的かつ超越論的に真理を語る。「哲学」と名指された知を支えるこの逆説の意味を、デリダはきわめて真剣に考えている。もし「哲学」全体がひとつの言語ゲームでしかないとすれば(この立場は多くの相対主義者、例えば前述のローティによって主張されている)、他の諸哲学はつねに可能であり、したがって、新たな哲学を、つまり新たな語彙とスタイルと参照項を発明する試みが常に求められることになる。 ー 「プラトンのパルマケイアー」における例を借りれば、「代補の論理」とはつぎのようなものだ。プラトンの対話篇、とりわけ『パイドロス』では、エクリチュール(書くこと)はまず記憶を代補するものとされる。しかし現実には、ひとは書き記すことによって、むしろ気を抜いてそれを忘れてしまうことがある。それゆえソクラテスは同時に、しっかりと記憶するためにはむしろ書き記さないべきだ、というアドヴァイスもまた行わねばならなくなる。しかしこれは矛盾している。エクリチュールは記憶力を補う(強化する)と同時に脅かす(弱体化する)というのだから。この自家撞着的な論理が「代補の論理」と呼ばれる。前章を受けて言えば、ここでもまたコンスタティヴとパフォーマティヴの衝突が問題になっている。「エクリチュールは記憶を代補する」という命題は、パフォーマティヴに受け取られたとき「エクリチュールは記憶を代補する」から記憶しなくてもよい」、コンスタティヴな命題内容と逆の事態を引き起こしてしまう。つまり「代補の論理」とは、一つの言説に対する二つの読解レヴェルの必然的短絡に注目するものであり、これは形式的にはゲーデル的決定不可能性の問題に等しい。そしてデリダの考えではより一般的に、記憶/エクリチュール、一次的/二次的、オリジナル/コピーといった二項対立はすべて必然的に、「代補の論理」的自家撞着、すなわちゲーデル的自壊の地点をその内部に宿している。 ー シニフィアン(signifiant)とは、言語学用語で「能記」とも訳され、言語記号の表現面(音のイメージや聴覚映像)を指します。シニフィアンと対比される言葉に「シニフィエ(signifié)」があり、これは言語記号の内容面(意味や概念)を指します。シニフィアンとシニフィエは、言語体系内で分節された記号(シーニュ)を構成する2側面で、互いの存在を前提としてのみ存在します。 目の前の事物に与えられた名前を伝達するだけならば、人は容易に言葉を扱える。目に見えない言葉を如何に誤配せず届けられるだろうか。しかもその文意は時代背景によっても異なる。その言葉で形成されたルールがまた構造を築くのだし、教科書ともなる。ただ、一つ言えるのは、我々の大衆世界は言葉に厳密に規定された世界を生きているのではなく、観念世界の比重が高く、さらには、その意味さえもデフォルメ化した印象世界で生きているという事だと思う。

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2024/09/26

「なぜ中期デリダはあのような奇妙な文章を用いたのか?」 という謎が提示され、ミステリ小説みたいにその真相に迫っていくのでワクワクした。 特に「散種」の説明はとても分かりやすく、初めて理解できた気がした。 しかし最後にはまさかのどんでん返し。 メフィスト賞かよ……!

Posted byブクログ

2024/08/06

現代日本の哲学者であり批評家である東浩紀(1971-)による博士論文をもとにした研究書、1998年。もとは浅田彰と柄谷行人が編集を務める雑誌『批評空間』に連載されたもの。 □ 自分がこれまで「自己意識の形式化」と主題化して考えていた問題とは、本書に準えてまとめてみれば、或る形...

現代日本の哲学者であり批評家である東浩紀(1971-)による博士論文をもとにした研究書、1998年。もとは浅田彰と柄谷行人が編集を務める雑誌『批評空間』に連載されたもの。 □ 自分がこれまで「自己意識の形式化」と主題化して考えていた問題とは、本書に準えてまとめてみれば、或る形式体系に対して、①形式体系の内部で自己関係的命題を構成することで矛盾を導く「形式化」の問題(「論理的脱構築」、ゲーデルの不完全性定理を典型とする思考形式)であり、②さらにそうした事態を対象化して形式化それ自体に内在する自己矛盾を当の形式体系の内部へ繰り込んでしまう「否定神学」の問題(「存在論的脱構築」、ハイデガーの現存在分析を典型とする思考形式)であった。さらに本書では、単数的で独我論的な「否定神学」とは別の経路として、③複数的でコミュニケーション論的な「郵便」という隠喩=概念を仮定してデリダの読解を試みる(「郵便的脱構築」、フロイトの精神分析が参照される)。 それらはいずれも、「思考されるもの/思考すること」、「思考の対象/思考を可能にする条件」、則ち思考、意識、論理における「オブジェクトレヴェル/メタレヴェル」という階層化を巡る問題であり、「超越論的であること」とはどこにどのように位置づけられるのかという問題でもある。 □ 随分前から、いつか誰かがこの問題を主題にした論考を書くのではないかと、期待半分怖れ半分といった心地でいたのが、実はそれが四半世紀以上も前にすでに出版されており、しかも自分もその存在を知っていながらこれまで内容には触れずにきてしまったというのだから、なんとも拍子抜けしてしまうが、せっかく待ちに待って出会えた本書であり、自分がこれまでずっと憑かれたように拙くも考え続けてきた主題をこれほど精緻に図式化している本書であるのだから、これからも精読していこうと思う。 本書は、初対面のはずなのに長い付き合いの友人であるかのような、妙な存在である。この年齢になって初めて読み終えた本ではあるが、これは私にとっては青春の書であり、同時に青春の終わりの書であるかもしれない。

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2023/10/03

現代思想のオールスターの言説を批判的に読み解きつつ、デリダの思想を読み解く試み。 二種類の脱構築。郵便、幽霊。転移。を理解するのがやっと。ところどころ、副次的にそういうこと!と儲けもん的に理解が深まる思想があった。

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2022/11/18

東浩紀の博論 ・大陸哲学と分析哲学の双方に目配せ 哲学史的には、論理実証主義の登場やそれらのハイデガーに対する批判により、ドイツフランスを中心とした大陸哲学と、英米を中心とした分析哲学に哲学研究は2分される。東氏はこの本で、両者の知的伝統をを固有名に対する関心という点で比較したり...

東浩紀の博論 ・大陸哲学と分析哲学の双方に目配せ 哲学史的には、論理実証主義の登場やそれらのハイデガーに対する批判により、ドイツフランスを中心とした大陸哲学と、英米を中心とした分析哲学に哲学研究は2分される。東氏はこの本で、両者の知的伝統をを固有名に対する関心という点で比較したり、デリダサール論争に注目することによりむずびつけている。両知的伝統を踏まえた議論ができるという点は東氏の強みの1つだと思われるが、この点はあまり指摘されない気がする。 ・のちの議論の雛形 『動物化するポストモダン』や『ゲンロン』におけるいくつかの批評など、東氏の現在までの議論の分析枠組みがこの本で構築されている。

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2022/04/28

ラカンもドゥルーズも読まなくていい。不毛な言語の羅列、思考の隘路。考えているふりをしたい人たちのための言説だ。社会は一歩も前に進まない。 デリダも同様だ。東氏の功績によって、「読まなくていい」がはっきりしてよかった。それにしても、快刀乱麻。ざっくり、ばさっと、難解な思想をさばい...

ラカンもドゥルーズも読まなくていい。不毛な言語の羅列、思考の隘路。考えているふりをしたい人たちのための言説だ。社会は一歩も前に進まない。 デリダも同様だ。東氏の功績によって、「読まなくていい」がはっきりしてよかった。それにしても、快刀乱麻。ざっくり、ばさっと、難解な思想をさばいていく。「紋切り型」(p256)のフランス現代思想をさくっとまとめる。見事。 デリダもラカンも分からなくていい。でも、そう納得するためにも、本書は読んだほうがいいだろう。

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2021/11/26

ハイデガーの『存在と時間』を読んで、そこで幾度も用いられている論理形式に納得しかねた哲学素人がその乗り越えを期待して本書を手に取った。 『存在と時間』で根本的に疑問に思ったのは、ハイデガーが先生のようにポンポン新しい固有名詞を「現象学的手法」の名のもとにどこかから持ち出して、「そ...

ハイデガーの『存在と時間』を読んで、そこで幾度も用いられている論理形式に納得しかねた哲学素人がその乗り越えを期待して本書を手に取った。 『存在と時間』で根本的に疑問に思ったのは、ハイデガーが先生のようにポンポン新しい固有名詞を「現象学的手法」の名のもとにどこかから持ち出して、「それは存在的には××だが、存在論的には〇〇なのである」と、あたかも何かを理解したような気にさせる形式を一貫して採用していること。この論理は構造的には預言者とか宗教の伝道師が語るときのものと変わらないと思ったのだ。 この『存在論的、郵便的』では、ハイデガーの哲学にラカンの理論を併置し、両者に共通する、"ある固有名詞を特権化・絶対視し、言葉の意味全体の根拠としてそれを挙用する手法"を「存在論的脱構築」と名指し、それに対抗する言説としての「中期デリダ的文章」とその手法「郵便的脱構築」がフロイトを援用しながら言われている。 詳しく述べると、存在論的脱構築と郵便的脱構築では言葉の意味の不確定性(=超越論的シニフィアン)の取り扱いが異なっている。前者においてはその不確定性は、"一つの(ないしは有限個の)言葉の意味の不確定性"へと言語体系内で「皺寄せ」され、皺寄せされたその一点は言語体系内での定義が不可能なものとして言語の外部に依拠するとともに、その言葉以外の残余については意味の確実性が担保される。 後者においては、言葉の意味の不確定性は無数のそれぞれの言葉に分割されて宿っており、一つ一つのそれらの不確実性は記号がエクリチュールとしてのみ解釈される無意識の次元からの揺さぶりとして捉えられる。そして無意識は「転移」によって他者へと接続されている…。 本書を読み終わって、まず私は冒頭の疑問を通して私自身の物事の捉え方に潜む一切の恣意性を排除したかった、という私自身の欲望を理解することができた。この「恣意性の問題」は、第二章でデリダ派の問題として直接的に言及されている。本書を通じてそのことに対する明確な回答を得られたと思うのでとても満足している。 また、本書では言葉の意味の絶対化についてだけではなく、意識生活において何かに拘りそれを過剰に意味づけること一般に対しての批判もデリダから読み解かれていて、著者自身も最後の部分で「デリダに拘りすぎた」というニュアンスのことを言い性急に議論を終えている。 この態度はまさしく「観光客」的であるとともに、著者自身がこれまでに身を以て示して続けてきた在り方だと思い、ある種の感動さえ覚えたけれども、私自身もそのような転移的な読みや、実存の悩みの末に哲学書にのめり込むこと自体もそろそろ終わりにし郵便空間に身を委ねるべきである、と強く感じさせられた。人生の転機となり得る読書体験だった。

Posted byブクログ

2020/09/02

頭のいい人が書く本。 小生も昔に同じ記号でも2つ以上の意味を持つことを考えていたことがある。 ハイデガーとフロイトの中間にデリダをおいている。ハイデガーの別名が存在論的、フロイトの別名が郵便的。タイトルに入れているだけのことはある。 デリダがどうして意味が難読の文章を書くの...

頭のいい人が書く本。 小生も昔に同じ記号でも2つ以上の意味を持つことを考えていたことがある。 ハイデガーとフロイトの中間にデリダをおいている。ハイデガーの別名が存在論的、フロイトの別名が郵便的。タイトルに入れているだけのことはある。 デリダがどうして意味が難読の文章を書くのかを理解したいという著者の気持ちがわかる。実に単純だ。しかし、それを知るために随分と紆余曲折して現代哲学を学ぶこともできる。 ゲーデルの不完全性定理は数学用語なので慎重に扱わなければならないが、本文に影響はないと思われる。

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2019/12/30

読むものを惑わし、拒絶しているようにも見えるデリダの奇妙なテキスト群はなぜ書かれ、なぜ必要だったのかという素朴な疑問から始まる一冊。丁寧に、幾重にも引かれた補助線を一気に畳み込んでいく展開がすさまじい。というよりも振り落とされた。だが、あくまでも語り口は平易だ。 積んで数年、読...

読むものを惑わし、拒絶しているようにも見えるデリダの奇妙なテキスト群はなぜ書かれ、なぜ必要だったのかという素朴な疑問から始まる一冊。丁寧に、幾重にも引かれた補助線を一気に畳み込んでいく展開がすさまじい。というよりも振り落とされた。だが、あくまでも語り口は平易だ。 積んで数年、読み始めて忘れるを三度繰り返し、ようやく腰を落ち着けて読み始めてから三カ月にしてようやく読み切る。読み切ったものの、正直理解できているのかというと微妙なところがある。また時間を空けて読もうと思う。

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2018/02/16

殆ど何言ってるのかわからなかったが、所々オッと思うところがあった。 しかし、もう何にオッと思ったのか忘れてしまった。 一方でオッと思ったことは確かなのである。 オッと思ったことが「オッと思った箇所」から剥がされ、当該箇所は郵便空間を漂い、オッと思ったことだけが幽霊として現前をゆら...

殆ど何言ってるのかわからなかったが、所々オッと思うところがあった。 しかし、もう何にオッと思ったのか忘れてしまった。 一方でオッと思ったことは確かなのである。 オッと思ったことが「オッと思った箇所」から剥がされ、当該箇所は郵便空間を漂い、オッと思ったことだけが幽霊として現前をゆらついているのだった。

Posted byブクログ