- 中古
- 店舗受取可
- 書籍
- 書籍
存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて
定価 ¥2,420
1,925円 定価より495円(20%)おトク
獲得ポイント17P
残り1点 ご注文はお早めに
発送時期 1~5日以内に発送
店舗受取サービス対応商品
店舗受取なら1点でも送料無料!
店舗到着予定
2/6(木)~2/11(火)
商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 新潮社 |
発売年月日 | 1998/10/30 |
JAN | 9784104262014 |
店舗受取サービス
対応商品
店舗受取なら1点でも送料無料!
さらにお買い物で使えるポイントがたまる
店舗到着予定
2/6(木)~2/11(火)
- 書籍
- 書籍
存在論的、郵便的
商品が入荷した店舗:0店
店頭で購入可能な商品の入荷情報となります
ご来店の際には売り切れの場合もございます
オンラインストア上の価格と店頭価格は異なります
お電話やお問い合わせフォームでの在庫確認、お客様宅への発送やお取り置き・お取り寄せは行っておりません
存在論的、郵便的
¥1,925
残り1点
ご注文はお早めに
商品レビュー
4.3
23件のお客様レビュー
ようやく読了。 時間をかけて読み終えそれでも理解できた実感がない。27歳の英俊が書いた本とあるが、東浩紀の写真が若い。後に加齢臭騒動でネットを賑わすことになるなど想像もつかない、爽やかな青年だ。最初の著作らしい。気合いが違う。難解だ。 幸い別書で千葉雅也がデリダについて平易な...
ようやく読了。 時間をかけて読み終えそれでも理解できた実感がない。27歳の英俊が書いた本とあるが、東浩紀の写真が若い。後に加齢臭騒動でネットを賑わすことになるなど想像もつかない、爽やかな青年だ。最初の著作らしい。気合いが違う。難解だ。 幸い別書で千葉雅也がデリダについて平易な言葉で解説してくれていたので、パロールとエクリチュール、脱構築的な概念は何となく目で追える。誤配や散種、差延についても、それを手引書に考えながら読む。言葉は、一意に定まらない。無茶苦茶乱暴に言えば、それを巡る思索でもある。 ー 社会性および歴史性のアプリオリな普遍的諸構造の内部で、そしてそのおかげによってのみ可能なのだ。あらゆる相対主義は、経験的他者を「他者」として見出す視線(感情移入)のうえに成立する。フッサールが問題とするのがまさにその視線のもつ普遍性の起源である以上、彼の議論は文化相対主義に先行している。そしてそこで「ヨーロッパ的人間性」に絶対的価値が与えられるのは、私たちが「幾何学」の起源と理念性について検討したものと同じ理由からである。 ー 私たちはすでにアウシュヴィッツの例で、固有名の事後性について考察した。ソクラテスもまた事後的にのみ固有名に、精神の起源になる。そしてデリダは固有名的単独性を支えるその事後性=反復可能性、ソクラテスの背後にいるプラトンを決して忘れることができない。引用箇所の最後でデリダは、「郵便 poste」について触れている。私たちはつぎの二章で、この語が「かも知れない」を表す代表的隠喩であることを詳しく検討することになるだろう。ソクラテスは忘却されたかも知れない。彼の無知は知に、イロニーは哲学に回収されなかったかも知れない。その偶然性の記憶が、脱構築を駆動する。哲学の歴史は固有名の集積である。そしてそれは偶然的かつ経験的に成立したものでありながら、必然的かつ超越論的に真理を語る。「哲学」と名指された知を支えるこの逆説の意味を、デリダはきわめて真剣に考えている。もし「哲学」全体がひとつの言語ゲームでしかないとすれば(この立場は多くの相対主義者、例えば前述のローティによって主張されている)、他の諸哲学はつねに可能であり、したがって、新たな哲学を、つまり新たな語彙とスタイルと参照項を発明する試みが常に求められることになる。 ー 「プラトンのパルマケイアー」における例を借りれば、「代補の論理」とはつぎのようなものだ。プラトンの対話篇、とりわけ『パイドロス』では、エクリチュール(書くこと)はまず記憶を代補するものとされる。しかし現実には、ひとは書き記すことによって、むしろ気を抜いてそれを忘れてしまうことがある。それゆえソクラテスは同時に、しっかりと記憶するためにはむしろ書き記さないべきだ、というアドヴァイスもまた行わねばならなくなる。しかしこれは矛盾している。エクリチュールは記憶力を補う(強化する)と同時に脅かす(弱体化する)というのだから。この自家撞着的な論理が「代補の論理」と呼ばれる。前章を受けて言えば、ここでもまたコンスタティヴとパフォーマティヴの衝突が問題になっている。「エクリチュールは記憶を代補する」という命題は、パフォーマティヴに受け取られたとき「エクリチュールは記憶を代補する」から記憶しなくてもよい」、コンスタティヴな命題内容と逆の事態を引き起こしてしまう。つまり「代補の論理」とは、一つの言説に対する二つの読解レヴェルの必然的短絡に注目するものであり、これは形式的にはゲーデル的決定不可能性の問題に等しい。そしてデリダの考えではより一般的に、記憶/エクリチュール、一次的/二次的、オリジナル/コピーといった二項対立はすべて必然的に、「代補の論理」的自家撞着、すなわちゲーデル的自壊の地点をその内部に宿している。 ー シニフィアン(signifiant)とは、言語学用語で「能記」とも訳され、言語記号の表現面(音のイメージや聴覚映像)を指します。シニフィアンと対比される言葉に「シニフィエ(signifié)」があり、これは言語記号の内容面(意味や概念)を指します。シニフィアンとシニフィエは、言語体系内で分節された記号(シーニュ)を構成する2側面で、互いの存在を前提としてのみ存在します。 目の前の事物に与えられた名前を伝達するだけならば、人は容易に言葉を扱える。目に見えない言葉を如何に誤配せず届けられるだろうか。しかもその文意は時代背景によっても異なる。その言葉で形成されたルールがまた構造を築くのだし、教科書ともなる。ただ、一つ言えるのは、我々の大衆世界は言葉に厳密に規定された世界を生きているのではなく、観念世界の比重が高く、さらには、その意味さえもデフォルメ化した印象世界で生きているという事だと思う。
Posted by
「なぜ中期デリダはあのような奇妙な文章を用いたのか?」 という謎が提示され、ミステリ小説みたいにその真相に迫っていくのでワクワクした。 特に「散種」の説明はとても分かりやすく、初めて理解できた気がした。 しかし最後にはまさかのどんでん返し。 メフィスト賞かよ……!
Posted by
現代日本の哲学者であり批評家である東浩紀(1971-)による博士論文をもとにした研究書、1998年。もとは浅田彰と柄谷行人が編集を務める雑誌『批評空間』に連載されたもの。 □ 自分がこれまで「自己意識の形式化」と主題化して考えていた問題とは、本書に準えてまとめてみれば、或る形...
現代日本の哲学者であり批評家である東浩紀(1971-)による博士論文をもとにした研究書、1998年。もとは浅田彰と柄谷行人が編集を務める雑誌『批評空間』に連載されたもの。 □ 自分がこれまで「自己意識の形式化」と主題化して考えていた問題とは、本書に準えてまとめてみれば、或る形式体系に対して、①形式体系の内部で自己関係的命題を構成することで矛盾を導く「形式化」の問題(「論理的脱構築」、ゲーデルの不完全性定理を典型とする思考形式)であり、②さらにそうした事態を対象化して形式化それ自体に内在する自己矛盾を当の形式体系の内部へ繰り込んでしまう「否定神学」の問題(「存在論的脱構築」、ハイデガーの現存在分析を典型とする思考形式)であった。さらに本書では、単数的で独我論的な「否定神学」とは別の経路として、③複数的でコミュニケーション論的な「郵便」という隠喩=概念を仮定してデリダの読解を試みる(「郵便的脱構築」、フロイトの精神分析が参照される)。 それらはいずれも、「思考されるもの/思考すること」、「思考の対象/思考を可能にする条件」、則ち思考、意識、論理における「オブジェクトレヴェル/メタレヴェル」という階層化を巡る問題であり、「超越論的であること」とはどこにどのように位置づけられるのかという問題でもある。 □ 随分前から、いつか誰かがこの問題を主題にした論考を書くのではないかと、期待半分怖れ半分といった心地でいたのが、実はそれが四半世紀以上も前にすでに出版されており、しかも自分もその存在を知っていながらこれまで内容には触れずにきてしまったというのだから、なんとも拍子抜けしてしまうが、せっかく待ちに待って出会えた本書であり、自分がこれまでずっと憑かれたように拙くも考え続けてきた主題をこれほど精緻に図式化している本書であるのだから、これからも精読していこうと思う。 本書は、初対面のはずなのに長い付き合いの友人であるかのような、妙な存在である。この年齢になって初めて読み終えた本ではあるが、これは私にとっては青春の書であり、同時に青春の終わりの書であるかもしれない。
Posted by