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暇と退屈の倫理学 の商品レビュー

4.3

392件のお客様レビュー

  1. 5つ

    171

  2. 4つ

    123

  3. 3つ

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  4. 2つ

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2024/11/12

大学の長期休みになんとなく手に取って読んでみたけれど、かなり時間をかけてしまった。 内容は非常に興味深い。しかし全部理解したとは到底言い難い。 筆者は様々な分野から暇と退屈について論じている。 特に気晴らしの例や消費社会の例は自身も陥ってると思われるものであったためハッとさせら...

大学の長期休みになんとなく手に取って読んでみたけれど、かなり時間をかけてしまった。 内容は非常に興味深い。しかし全部理解したとは到底言い難い。 筆者は様々な分野から暇と退屈について論じている。 特に気晴らしの例や消費社会の例は自身も陥ってると思われるものであったためハッとさせられた。 本書の結論は、そんな痛快な例から想像されるものよりずっとやさしかった。 いつかまた読み返したい1冊である。

Posted byブクログ

2024/11/10

ベストセラーになった哲学書。 おっかなびっくり読み始めたが、たしかに自分でも読み進められた。 「暇」とは何もすることがない、する必要がないこと。 「退屈」は、何かをしたいのにできないという感情や気分だとのこと。 最初に、「暇と退屈」の原理的な考察がある。 出発点はパスカル。 ...

ベストセラーになった哲学書。 おっかなびっくり読み始めたが、たしかに自分でも読み進められた。 「暇」とは何もすることがない、する必要がないこと。 「退屈」は、何かをしたいのにできないという感情や気分だとのこと。 最初に、「暇と退屈」の原理的な考察がある。 出発点はパスカル。 パスカルは人間の不幸の原因を退屈に求め、追い求める対象の中に幸福があると思い込んでいるというシニカルな指摘をしたと紹介されている。 筆者はこの延長上にラッセルとスヴェンセンの議論を位置付ける。 ラッセルは情熱を見つけるよう説き、スヴェンセンはありもしない生の充実を求めるのをやめよと説く。 個人的にはスヴェンセンに寄りたくなるが、本書では本質的な解決にならない、と退けられていた。 次には人間の生活様式と退屈の関係が俎上にあがる。 定住が退屈を生み出したということだが、ここで面白かったのは人類史の見方が大きく変わったという「定住革命」観のところ。 食料生産ができないために遊動生活をせざるをえなかったというこれまでの説明が覆されているのだとか。 ところが、例えば日本では稲作が到来する以前に定住が始まっていたように、どうやら定住の結果食料生産が始まったという説なんだそうだ。 そして、定住生活によって人類はトイレとごみ処理の問題を抱え込むことになる…とのことで、そうだとすれば、現代人は1万年経ってもなかなか習慣が身につかず、問題解決にも至っていないということで、根の深さを思い知らされる。 その後、近代から現代の社会の暇との向き合い方が整理されている。 旧時代の貴族や有閑階級は、他の階層の人々を搾取しつつ、「暇を生きる術」を持っていた。 この人々が没落し、やがて大衆社会がやってくるのだが、労働者たちは(管理された)余暇を与えられ、暇を持て余すこととなる。 今度は、この人々の余暇を消費させるために、さまざまな文化産業が生まれ、人々は消費ゲームに巻き込まれてしまう。 というところで、後半の山場、ハイデガーの議論が紹介されていく。 正直、ここへきて、やっと話がどこへいくか、なんとなく見えてきた気持ちがした。 人間は自由である。 だから退屈する。 「なんとなく退屈」で、気晴らしの力もなくなっている、最も深い状態(第三形式)から逃れるため、人は仕事を作り出し、没頭する。 時間に追われ、自分の求めるものが得られないとき、退屈を感じる状態(第一形式)になる。 一方、退屈を紛らす気晴らしをしているのに、その気晴らしの中にすでに退屈が含み込まれているのが第二形式。退屈に浸っている状態。 そして、ハイデガーは退屈は人に自由であることを教えているのだから、それを発揮するため決断せよ、と言っているのだそうだ。 この話になって、自分の状況がどこに置かれるのか見えてきた気がする。 将来仕事を辞めたら、いったいどういう生活があるのかを考えると、恐ろしい気持ちにもなる自分の状況のことだ。 さて、筆者の議論は、ハイデガーが認めなかった環世界(ユクスキュルによる。生物の個体それぞれが生きている具体的世界)の議論を導入する。 人間には、異なる環世界を移動する高い力があり、この力のため、一つの世界に留まっていられない。 そこで、人は自らに気晴らしを与え、退屈の中で生きていく。 筆者は、自分の環世界をこわしにくるものを受け取り、新しい環世界を形成することに希望を見出だしているようだった。 ということで、退屈は各自が自らの力で切り開いていくものだという結論に向かう。 そして、「浪費」の価値を再発見していく。 消費社会では観念を求めるように作られているため、どこまでいっても欲望が満たされることはない。 これが現代社会の退屈を生み出すものだとした上で、物を楽しむ道、「贅沢」を求める道を開かないといけないという。 結論を出してくれたことは、読者の立場からはとてもうれしいことだが、ちょっと居場所がない気がする。 自分はきっと退屈の第一形式にいる。 現代人が基本的には第二形式にいるという議論で結論が出されていくので、ちょっと置いてけぼりにされた気がするのだ。

Posted byブクログ

2024/11/07

誰もが体験したことのある暇と退屈を様々な角度から考察してみる本。哲学のあーそういう考え方も出来るなぁがやっぱり読んでて楽しい。

Posted byブクログ

2024/11/03

本屋の平棚に積んであるのはずっと目にしていた。衒学的な本だろうと思っていたが、まえがきからよく判らない熱いに文章に引き込まれる。 暇と退屈をテーマにグイグイと突き進んでいく本。常識と思っていたことに揺さぶりをかけてくる。 人が遊動生活を捨て定住を選んだのは、そうせざるを得なかっ...

本屋の平棚に積んであるのはずっと目にしていた。衒学的な本だろうと思っていたが、まえがきからよく判らない熱いに文章に引き込まれる。 暇と退屈をテーマにグイグイと突き進んでいく本。常識と思っていたことに揺さぶりをかけてくる。 人が遊動生活を捨て定住を選んだのは、そうせざるを得なかったから。むしろ、遊動の方が人類には適している。 パスカルは経済学の完全競争のように現実にはあり得ない概念として自然人を提示した。有り得るべき姿としての本来性を排除して疎外を示した。パスカルは自然に還れなどとは言っていない。 ハイデッカーに纏わる本は読んだ。NHKの100分de名著のテキストを買い番組も観たが、それ知っていると思うことが無かった。本書とアプローチが違うとは言っても、ホントに僕はバカじゃなかろうか。 著者のハイデッカーの批判的検討は、やはり本書の眼目と思う。人間と動物の違いを環世界移動能力としている。人間も環世界に生きているが、不安定な環世界しか持ちえない。一つの環世界に浸っていることが出来ない。相当な自由度を持って環世界を移動できるから退屈するのである。 批判的に読むハイデッカーではあるが、著者の徹底的な検討の進め方がこの結論に至る。 人間は考えないで済む生活を目指して生きているなんて、哲学者が云うんだから驚き。 人はパンが無ければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく。バラも求めよう。生きることはバラで飾られなければならない。 本書の結論が胸に落ちてくるのは、もう少し時間がかかりそうだ。第7章と結論はときどき読み返そうと思う。 読了後、再度まえがきに立ち返る。スポーツ観戦に熱中している姿を周囲に見せつけることに意識を集中していたバーの客。留学の案内カウンターで美術の関心があるとだけ言って長時間カウンターで黙って説明を受けていた女学生。久しぶりに見たNHKの無名のサラリーマンを称えるドキュメンタリー番組のテーマソングへの違和感。本の主題に直接関係ないようで、何となく納得してしまった。

Posted byブクログ

2024/11/01

本棚内を検索してみたら2018年に読んでいたようだが、ほぼ記憶になかった。文字面を追っているだけで読めてはいなかったのだろう。 再読になるのだろうが抜群に面白かった。ベストセラーになるのも頷ける。日々の悩みのいくつかは解消されたような気もする。國分功一郎氏の著作では古典の範疇に入...

本棚内を検索してみたら2018年に読んでいたようだが、ほぼ記憶になかった。文字面を追っているだけで読めてはいなかったのだろう。 再読になるのだろうが抜群に面白かった。ベストセラーになるのも頷ける。日々の悩みのいくつかは解消されたような気もする。國分功一郎氏の著作では古典の範疇に入るのではないか。

Posted byブクログ

2024/11/01

おもしろかった! これまで哲学書と名のつくものに何回か取り組み、その内少なくない割合で返り討ちにされてきたけど、この本は通読できた。取り扱う内容は概念的で何回も部分部分を読み返したが、読者が丁寧に追っていく事を手助けしてくれる心優しき本だった。 暇と退屈について、自分に通ずる...

おもしろかった! これまで哲学書と名のつくものに何回か取り組み、その内少なくない割合で返り討ちにされてきたけど、この本は通読できた。取り扱う内容は概念的で何回も部分部分を読み返したが、読者が丁寧に追っていく事を手助けしてくれる心優しき本だった。 暇と退屈について、自分に通ずるものをたくさん感じた。

Posted byブクログ

2024/10/25

おもしろい!途中つまんないかもとおもったけどやっぱり面白い!! 第二形式こそが退屈とうまく付き合い人間が人間らしく生きている正気の状態というが、退屈だという声を聞かずに済むように何かの奴隷になっている状態も至極自然だし、成長や向上を目指す流れが当たり前のように存在し正義とされて...

おもしろい!途中つまんないかもとおもったけどやっぱり面白い!! 第二形式こそが退屈とうまく付き合い人間が人間らしく生きている正気の状態というが、退屈だという声を聞かずに済むように何かの奴隷になっている状態も至極自然だし、成長や向上を目指す流れが当たり前のように存在し正義とされている世の中においては第一形式や第三形式も人間らしい状態なのでは?と思った。まあ人間らしい、の定義によるか。 基本的に快楽、つまり興奮量の減少を求めるが故に習慣が形成される。習慣により囚われの状態になっていれば退屈は起こらないが、環世界は形成されるものの複数の環世界を往復していたり相当な自由度を持って移動できたりと、他の動物に比べて環世界が不安定な状態だからこそ、とりさらわれ続けることができなくて、結果退屈してしまう。(中途半端な習慣づくりしかできないということ?)折衷案としての気晴らしが第二形式の退屈。(たまに退屈の声が大きくなって何かの奴隷になる)これこそが退屈が運命付けられた人間的な生。気晴らしと退屈がちょうどいい塩梅でまじっている。(気晴らしちゃんとあるけど何となく退屈だ、っていうのがベストな状態なのかも?) 自分の環世界が破壊される、つまり習慣により、周囲の環境を経験=シグナルの受信という状態にして自分の環世界への不法侵入に対する盾を構築していた状況が崩れることにより思考を余儀なくされ、思考に囚われた状態になるのは、ある物事にとりさらわれているという意味で動物的な生とも言える。不法侵入の存在を受け止めることができるのは、環世界移動能力が優れているから。環世界移動能力が乏しければ、自分の環世界を揺るがすようなショックすら知覚し得ない??この環世界の崩壊は、規模は様々だが小規模なものなら日常的にあり、その度環世界が再構築されている。つまり日常的に思考にとり攫われている → 快を求めるが故に習慣化するが一つの環世界に入り浸り続けることはできない、新しい環世界構築のタイミングで思考に没頭する(動物的)(けれどもすぐに再構築されてスムーズに移動可能になるから→)and環世界観をスムーズに移動できるがために生まれた退屈に気晴らしで付き合う(人間的)(この際第一、第三の退屈に陥ってしまうと思考の隙間がないから思考没頭もない? 思考すらも決断、第3や第1の退屈の一種では?試行の奴隷になっていると言えてしまうのでは?不法侵入が決定的なもので思考が完全に外的なものの影響、つまり自然発生的なものなら、退屈の一環ではないのか?? 結論として消費ではなく浪費を楽しむべきだと言っていたが、これは本当にその通りだなと。 終わりがないものを追い続けてずっと満たされない感覚を抱くより、浪費する感覚をつかみたい。刹那的なものを味わえるようになることが1番重要ではないかという今までなんとなく持っていた考えと一致。かといって芸術や音楽とかきちんと学ばないと良さが分かりにくいものは、学んでわかるようになってきている、ハイカルチャーを嗜めているという感覚を消費することに繋がりそうで怖いな。 第二形式の退屈において気晴らしを退屈に感じるのではなく、気晴らしとしての機能を存分に発揮させるためには、贅沢を味わえる必要がある。そのためには訓練が必要だけど、それはそれで訓練の奴隷になってしまうのでは?と思ってしまった。日常生活の中で自分をとりさらってくれるものを探す作業が訓練なのか? 自分が消費活動に勤しんでいるだけなのか、それとも真にとりさらわれているのか判断するのはなかなか難しい気がする。 消費社会が、第二形式の退屈における気晴らしと退屈の悪循環を増幅させるということは非常に納得がいく!最後の最後の結論は微妙でした、私は自分にしか興味がない。 この筆者にとっては、このお題こそが最高の気晴らしであり、人間的な生において動物的になれることなのだろう。そういったものに出会える機会を得るという意味では、勉強は訓練の一環であり浪費への一歩となるものなのかもしれない。

Posted byブクログ

2024/10/23

題名を見てもっと軽い話かと手に取ったところ、大変難しい哲学の話しではあったが、新しい気付きを得ることが出来たと思う。 人が退屈と感じるようになったのは温暖化に伴って「定住革命」が起きたからで、それ以前に何十万年も意識してこなかったことが始まった。 ハイデッガーが提唱した退屈の形式...

題名を見てもっと軽い話かと手に取ったところ、大変難しい哲学の話しではあったが、新しい気付きを得ることが出来たと思う。 人が退屈と感じるようになったのは温暖化に伴って「定住革命」が起きたからで、それ以前に何十万年も意識してこなかったことが始まった。 ハイデッガーが提唱した退屈の形式、第一形式、第二形式、第三形式は、ハイデッガーの論説に誤りがあるものの第二形式を「発見」したことは、極めて重要であり、我々はこの第二形式を生きている。云々。

Posted byブクログ

2024/10/22
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

筆者の論理性の高さに脱帽。難しく入り組んだ概念が順序立てて論理的に説明されており、哲学に縁のない私でも議論を理解出来た。 ハイデッガーの退屈の3形式の関係及びそこから導出される本書なりの結論も説得力のあるものであったし、現代人は「チェンジ」しているかどうかではなく、「チェンジした」という情報そのものを消費しているということや、運命と本性の区別などは、身近なるもこれまでにあまり意識してこなかった事柄であり、ハッとさせられた。私はまんまとiPhone15 proに買い換えている。 一点、浪費と消費の違いに関してはあまり腹落ちしなかった。消費が観念・記号を消費しているという説明は理解出来るが、浪費が必要以上に物を受け取り吸収するためにどこかで限界が来るという説明には首肯し難かった。この原因はひとえに本書での浪費の定義が世間一般のそれとずれているためであると思う。例えば、毎年高価な衣料品を大量に購入して中には数回程度しか身につけないものがあるという事例があったとする。これは辞書的には浪費と定義して差し支えないと思うが、本書では浪費ではなく消費に該当する。独自の定義を出発点に議論が展開されれば都度定義を思い出す必要が生まれ、そのために議論に集中できなかった読者が一定数存在するのではないかと感じる。 総じて、示唆に富む素晴らしい本であった。筆者の別の本も読んでみたいと思った。

Posted byブクログ

2024/10/10

再読しなければならない本がまた1冊増えてしまった… 著者と同じように、退屈に悩まされてきた自分にとっては出会うべくして出会った本なんだろう。

Posted byブクログ