騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編(下) の商品レビュー
村上春樹にしてはわかりやすい、と、思いつつ読み進めたが、終盤、一気に春樹ワールドに。本の内容はさておき、あちこちに、ぐさっと刺さる文章が散りばめられていて、同じ世界を見ているのに、作家にはこんな風に見えているのかと…。そんな、言葉の、文章の宝物を見つけつつ読み進めた時間だった。
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「私」は「私」を傷つけたユズと元サヤに戻る。「私」はなぜユズを許したんだろう?恋人やパートナーがほかの誰かとセックスをしていることを知ったら誰だってひどく傷つく。「苦しい!」って叫ぶ自分の心を理解できるのは自分だけしかいないはずなのに、それに自分で蓋をしている。物語のなかでは、物...
「私」は「私」を傷つけたユズと元サヤに戻る。「私」はなぜユズを許したんだろう?恋人やパートナーがほかの誰かとセックスをしていることを知ったら誰だってひどく傷つく。「苦しい!」って叫ぶ自分の心を理解できるのは自分だけしかいないはずなのに、それに自分で蓋をしている。物語のなかでは、物理的に不可能だけど「私」がユズに受胎させたことになっているけど、オイラ的にはそれとユズを許すこととは別物だ。スッキリしない。そもそもまりえと室の父親は誰なんだろう?免色と「私」はそれを知ろうとしない。それを知ろうとしないからこの物語が成り立っているんだけど、まりえも室も自分の子どもだと信じたいわけだ。女性が言うならわかるけど、男がそれを言うと精力自慢になっちゃう……。
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主人公とゆずは想像通りの展開。 まりえと笙子さん・免色さんのその後を書いたら面白そうだとおもった。 雨田息子の父親への想いは、村上春樹の父親への想いがあるような気が。 なんとなくだがわかるな。 こういう心理的な想いを語る描写は嫌いじゃない。
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深い洞察に満ちた村上文学の傑作長編完結編。出口のない森をさ迷う画家は人生の再生を図ることができるのか。 村上ワールドは理屈で理解しようとしてはいけない。想像でも感性でもなく、ごく当たり前に空気の如くその存在を認めなければならない。私たちも日々計算して生きているわけではないが、一日...
深い洞察に満ちた村上文学の傑作長編完結編。出口のない森をさ迷う画家は人生の再生を図ることができるのか。 村上ワールドは理屈で理解しようとしてはいけない。想像でも感性でもなく、ごく当たり前に空気の如くその存在を認めなければならない。私たちも日々計算して生きているわけではないが、一日のうち一瞬でもこの空気を感じることが必要なのかもしれない。
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騎士団長殺し 4巻?読み終わりました 村上春樹の作品は面白くて 長い間 文庫になるのを待って いざ!って感じで読んだのですが…勿論 不思議な謎を知りたくて どこに着地するのか気になって まぁ すいすい読み進めてはいけました。 ただ、感想としては 今までの作品の中で個人的には 面白...
騎士団長殺し 4巻?読み終わりました 村上春樹の作品は面白くて 長い間 文庫になるのを待って いざ!って感じで読んだのですが…勿論 不思議な謎を知りたくて どこに着地するのか気になって まぁ すいすい読み進めてはいけました。 ただ、感想としては 今までの作品の中で個人的には 面白くはなかった。多分 村上春樹さんの文体にちょっと飽きてきたような感覚だけ残った。
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『騎士団長殺し』は肖像画を専門とする一人の絵描きの男が経験する、人生における喪失と再生の物語だ。 読了後、深い満足感を味わうと共に、精巧に完成された村上春樹の小説を読んだ時だけに感じる充実感が非常に心地よい。 僕にとって、村上春樹の小説を読むことは、単なる『読書』ではなくて、体...
『騎士団長殺し』は肖像画を専門とする一人の絵描きの男が経験する、人生における喪失と再生の物語だ。 読了後、深い満足感を味わうと共に、精巧に完成された村上春樹の小説を読んだ時だけに感じる充実感が非常に心地よい。 僕にとって、村上春樹の小説を読むことは、単なる『読書』ではなくて、体験というか、没入観というか、村上春樹の生み出す文章の波に流され、押し戻される経験を愉しんでいるというか、つまり、非常に言葉にするのが難しいのだけれども、それだけ『特別な』ことなのだ。 単に「小説を読むこと」と「村上春樹の小説を読むこと」とは、全くベクトルの違った、言うなれば「小説を読むこと」を『朝昼晩の食事をすること』に例えるならば、「村上春樹の小説を読むこと」は、『誰もいないプライベートビーチに面しているコテージで、心地の良い一人掛けのソファにゆったりと身体を沈め、淹れ立てのコーヒーの芳醇な香りを愉しみながら、夕日に照らされ穏やかに輝いている地中海を眺めている』ような感じなのである。 何が他の小説家と村上春樹とを区別しているのだろうか。 文章の言い回しやリズム感、そして現実とファンタジーを組み合わせたようなストーリーなどであろうか、それもあるだろうが、一番は村上春樹独特の比喩の使い方なのだろう。 村上春樹の使う比喩は、読んだ者に強烈な映像描写を与えてくれる。もちろん、それは単なる写実主義ではない。読者一人一人がそれぞれ違って感じることのできる脳内映像を描写させる力、それが村上春樹の持つ比喩の『描写力の強さ』だ。 この強い描写力を持った村上春樹の文章に浸ると、その時にだけ使われる僕の脳のある部分がことさらに刺激され、そして強烈な脳内麻薬が分泌される。この体験こそが、「普通の小説を読むこと」と「村上春樹の小説を読むこと」の違いなのだと僕は今では思っている。 これまで数々の村上春樹の小説を読んできたが、幸いにもまだ全部は読み切っていない。この体験をこれからも経験できる幸せを噛みしめながら、次の村上春樹の小説の1ページ目をめくるのを楽しみに、この人生を生きていこう。
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イデアやメタファーなどの概念の理解が今一歩。自身の哲学的知識の欠如に反省させられました。終盤にきて怒涛のような展開でしたが、静かに輪が閉じた感があります。村上作品は再読するたびに、作品の色に深みが出てくる感じがします。1度目よりも、2度目、3度目...読み終わったばかりなのに、も...
イデアやメタファーなどの概念の理解が今一歩。自身の哲学的知識の欠如に反省させられました。終盤にきて怒涛のような展開でしたが、静かに輪が閉じた感があります。村上作品は再読するたびに、作品の色に深みが出てくる感じがします。1度目よりも、2度目、3度目...読み終わったばかりなのに、もう再読のリスト入りです。
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ー 「ここにあるものは、すべてが“みたいなもの”なのです」とドンナ・アンナは背後を振り返ることもなく、前方の暗闇に向かって語りかけるように言った。 「本物ではないということ?」 「本物がいかなるものかは誰にもわかりません」と彼女はきっぱりと言った。「目に見えるすべては結局のと...
ー 「ここにあるものは、すべてが“みたいなもの”なのです」とドンナ・アンナは背後を振り返ることもなく、前方の暗闇に向かって語りかけるように言った。 「本物ではないということ?」 「本物がいかなるものかは誰にもわかりません」と彼女はきっぱりと言った。「目に見えるすべては結局のところ関連性の産物です。ここにある光は影の比喩であり、ここにある影は光の比喩です。ご存じのことと思いますが」 その意味を正確に理解できたとは思えなかったが、私はそれ以上の質問は控えた。すべては象徴的な哲学論議になってしまう。 ー 思わせ振りで中身なんて本当は何も無いのかもしれない彼の長編小説を読み終えた。まるで〈古い祠〉のように空っぽで、確かにいたであろうイデアの存在感と鈴の余韻を残して、確かに読み終わった。ある意味ではそう言えるのかもしれない、村上春樹の作品で、ハルキストはそれに興奮する。イデアとメタファーの殺される/覗くあの絵画のように、見ていて(つまり読んでいて)興奮が止まらないのだろう。 私はハルキストではないので、それを楽しまないが、楽しむポイントは以下の4つを深く考察することかもしれないが、そうではないかもしれない。 ①ペンギンのストラップが秋川まりえ→免色渉→私→顔のない渡し守、の手に渡り、そしてプロローグに繋がる彼らと彼らを取り巻く人間関係の遷移。プロローグの夢はいつ見た夢なのだろう? ②雨田具彦(画家の兄)と継彦(ピアニスト目指すその弟)、と私(画家)と免色渉(ピアノ趣味)の擬似的兄弟の連環。 ③免色渉にとっての秋川まりえと私にとっての室の位置付け、あるいは親子関係の因果関係。 ④白いスバル・フォレスターの男=二重メタファー=私?に対する考察、あるいは単なるトリックスターか? まぁ、今回も面白いとも言えないし、かと言ってつまらないとも言えない作品。 少なくとも今回は主人公にある点において激しく共感できず…
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・村上春樹「騎士団長殺し」(新潮文庫)読了、最初に思つたのはこんなハッピ-エンドで良いのかといふことであつた。主人公と妻ユズは別れてもまたよりを戻す。よりを戻してから妊娠していた妻は出産する。生まれた女の子にはむろといふ名前をつける。常識的には自分の子ではないかもしれないのに、「生まれてきた子供が女の子であつたことを私は嬉しく思った。」(第2部下361頁)といふのである。これは村上春樹にとつて新しいことだといふ。これまでの作品で子供ができることはなかつたらしい。それ以前に、別れた女とよりを戻すことはあり得ないらしい。正に新趣向である。時代は東北大震災の数年前であつた。その時テレビで、別れた直後に走り回つた「岩手県から宮城県にかけての海岸沿いの町が次々に壊滅していく様子を目にしていた。」(同358頁)が、保育園に通ふ娘には「津波の押し寄せてくる光景を彼女にできるだけ見せないようにした。」(同362頁)といふ。「何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことなのだ。」(同前)直接的には幼児に対する言葉であらうが、この一文はこの作品を貫いてゐるのではないかと思ふ。 ・この作品では何かを見ることが重要なのである。主人公がイデアを見ること、免色が己が肖像画を見ること、まりえが、笙子が、そして主人公が免色の屋敷を見ること、それ以上に、主人公とまりえが雨田具彦の「騎士団長殺し」や裏の洞穴(?)を見ること、このやうないくつもの見ることによつて作品はできてゐる。それがきつかけになつて物語は進む。その結果のハッピーエンドである。散々見ておいて「何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことな のだ。」とはいかにも切ないではないか。主人公を初めとする登場人物はそこに何を見たのか。特に4枚の絵から何を見たのか。「騎士団長殺し」からは風雲急を告げる時代に生きた青年の思ひであらうか。それは隠し通さねばならぬものなのか。免色やまりえは己が肖像に何を見たのか。描いた主人公はその人物に何を見たのか。そして正しく理解できたのか。かういふのは分からない。読み手が勝手に想像するだけである。正に見ること=読むことと理解することは別物なので ある。そして、それが分からないのに「環は閉じるの?」(同333頁)といふまりえの疑問が解けるとは思へない。主人公も「わからない」と言ふ。私にも分からない。登場人物に分からないことが読者に分かるわけがない。主人公は「たぶんまだ環は閉じきっていない。」(同前)と言ふ。たぶんさうなのだらう。閉ぢたのは、もしかすると、「東北の地震の二ヶ月後に、私がかつて住んでいた小田原の家が火事で焼け落ち」(同363頁)てからであらう。雨田具彦の家とと もに「騎士団長殺し」も主人公のスバル・フォレスターの男の絵も焼失=消失した。その時、既に主人公はプロの肖像画家に戻つてゐた。さうして物語は完結する。物語も閉ぢるのである。まりえや免色と笙子もそれぞれの道を歩き出してゐた。皆が皆新しくなつたのかもしれない。これもまたハッピーエンドではないか。といふより、この長い物語は再生の物語であつたのではないかとさへ思へるのである。主人公に関して言へば、そしてまりえにとつても、これは死と再生の 物語である。最後の節は「恩寵のひとつのかたちとして」と題されてゐる。恩寵である。神や君主の愛や恵み、あるいは単に神の恵みをいふ。かういふ言葉で片づけて良いものかと思ふ。あるいは、かういふのは村上春樹らしいのであらうか。私には分からない。毀誉褒貶あれど、おもしろいといへばおもしろい物語であ つた。
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