数学する身体 の商品レビュー
数学者が書いたエッセイ。岡潔が書いた芭蕉の感覚を、機械のアルゴリズムに対する自然や人間の瞬時の計算として説明されてるのが新鮮だった。 人類は、座標と数式を道具として使い改良して概念を広げながら世界を捉え続けているけど、数と記号がたまたま人類にとって使いやすかったのであって、もし...
数学者が書いたエッセイ。岡潔が書いた芭蕉の感覚を、機械のアルゴリズムに対する自然や人間の瞬時の計算として説明されてるのが新鮮だった。 人類は、座標と数式を道具として使い改良して概念を広げながら世界を捉え続けているけど、数と記号がたまたま人類にとって使いやすかったのであって、もしかしたらその道具では拓けない領域もあるのかもしれないし、また改良していくのかもしれない。どっかで映画『メッセージ』みたいに、地球外生命体に概念を授かることもあるのかもしれない。 普段、うまくコンピュータに仕事させられなくてもどかしさを感じるけど、諦めちゃいけないな(感想)
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(2018年4月のブログ内容を2020年11月に転記したものです) 某大学の生協にたまたま立ち寄ったときに平積みになっていた本です。 数学は身体のどこで行われているのか、これが森田氏の問いかけです。森田氏は数学史や脳科学の知見を紹介しながら次のようにまとめていきます。 ○ ...
(2018年4月のブログ内容を2020年11月に転記したものです) 某大学の生協にたまたま立ち寄ったときに平積みになっていた本です。 数学は身体のどこで行われているのか、これが森田氏の問いかけです。森田氏は数学史や脳科学の知見を紹介しながら次のようにまとめていきます。 ○ 数学の客体化と岡潔 まず、人間は周囲の環境にあわせて、今使える道具を最大限に利用して(指だったり紙とペンだったり)数学しています。古代ギリシアでは『原論』に見られるように図形や道具と「数学する自分」は分かちがたく結び付いていました。二十世紀になって、ヨーロッパ数学は私たちの身体から次々と数学の要素を切り出していきます。例えば、公理的な方法によって「数学するという行為」が、チューリングのコンピューターによって「計算するという行為」がそれぞれ客体化(研究対象になるということ)されました。 一方で、同時代の日本の数学家、岡潔は「情緒」によって数学した人だと紹介されます。「情緒による数学」とは、「客体になりきる」、つまり「数学になる」ことによって数学するということだと、森田氏はいいます。森田氏は岡潔のよく引用した芭蕉の句を取り上げます。 聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水 外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき。ふと我に返る。「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。 この部分は、岡潔の数学観をよく反映した部分であり、筆者が共感し、文系の身から数学科に転身したことの本質にもなっていると思います。 ○ 2通りの「わかり方」を使って考える 私たちは研究対象を客体化して「神の視点」でとらえようとしがちです。もちろん、論理的に組み立てる際にはその行為が不可欠ですが、人生を生きていく上では、車の両輪として「主体として没入する」ことも同様に大事なのだと、改めて感じさせられました。感覚に没入してふと我に帰ったとき、その全体像が「わかる」という経験は大なり小なり、何かに没入した経験があれば、みなさん感じたことがあるのだと思います。 これまでこのブログで紹介してきた、近藤麻理恵氏の「ときめき」、あるとき「自己本位」に気づいた夏目漱石はまさにそのような没入による「わかり方」の結実したものなのでしょう。 わたしが絵画を見るとき、絵画の中に入ってしまったかのような錯覚に陥るときがあります。悲しいようなあたたかいような気持ちになってふっと気づくとまた現実にいる。そのような「わかり方」を人生において充実させ、一方では、数学を1から組み立てるようなわかり方も大事にしていきたい。 行為と行為する身体が「互いに互いを編みながら、新たな風景を、生み出し続ける」、そんな体験のなかにわたしも身をおきたいと思いました。
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アランチューリングと岡潔を題材に数学における身体性を語る本。実践者の言葉という印象を受けた。その領域まで到達するには、やはり実戦しかないんだろうな。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
数学とは人間の営みである。 数学を非人間的なものと考える傾向のある人はいないだろうか。現実世界から離れすぎて、抽象化しすぎて、何を言っているのかわからないと、高校の授業で思った。この本は、数学と人間の歴史をたどり、抽象化する道を丁寧に説明している。アラン・チューリングと岡潔、2人の数学に対する向き合い方を知り、少しだけ数学を手に取って扱えるもののように感じられたかもしれない。
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よくわからない本。字面は終えるけど、真に伝えたことがストンと入って来ない。素直に受け入れられる部分と、著者の記述に抵抗感を覚える部分がある。おそらく、読むこちら側が、数学に対しては、非常に素人的な印象しか持っていないからだと思う。なんとなく分かる、分かるような気はするが、伝えるに...
よくわからない本。字面は終えるけど、真に伝えたことがストンと入って来ない。素直に受け入れられる部分と、著者の記述に抵抗感を覚える部分がある。おそらく、読むこちら側が、数学に対しては、非常に素人的な印象しか持っていないからだと思う。なんとなく分かる、分かるような気はするが、伝えるには字数も記述も中途半端だったんじゃないかなあという印象だ。いや、そのことすら「確信」は持てないのだけど・・・w
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恥ずかしながら、学も少なく活字にあまり強くないので、概要を明確に説明し、筆者の伝えたかった事を述べる事はできません。 特に心に残っている話は、脳のうち「数値」を感じるのは「距離」などを感じる部分で代用しているという話です。それ故、数直線や座標といった「位置」と「数値」を結びつける...
恥ずかしながら、学も少なく活字にあまり強くないので、概要を明確に説明し、筆者の伝えたかった事を述べる事はできません。 特に心に残っている話は、脳のうち「数値」を感じるのは「距離」などを感じる部分で代用しているという話です。それ故、数直線や座標といった「位置」と「数値」を結びつけるなどの面白い考え方ができるのかもしれないというのには合点がいきました。こういう面白い話、数学と身体の関係、身体にとって数学とは何か、数学にとって数学とは何か、なんていう話がちらほらあり、よく分からないけどなんだか「あ、数学やろうかな」と思える書籍でした。
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おもしろい。 「わかる」という感覚。対象に没入しきって、「体得」するしかない。 この「わかる」という言葉について繰り返されるところから、「わかる」ことの難しさを感じた。 数学の勉強に、と思って読んだ。 数学の勉強にはならなかったが、「わかる」という感覚については自分自身常々考えて...
おもしろい。 「わかる」という感覚。対象に没入しきって、「体得」するしかない。 この「わかる」という言葉について繰り返されるところから、「わかる」ことの難しさを感じた。 数学の勉強に、と思って読んだ。 数学の勉強にはならなかったが、「わかる」という感覚については自分自身常々考えていたこととマッチしていた。
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一風変わった数学への手引き書である。どこか哲学書のような雰囲気も漂う。数学史のような記述もあれば、数学に関するエッセイのようでもある。 だが各々の断章は確実に1つの命題に結び付けられる。 すなわち、タイトルの「数学する身体」に。 数学は不思議な学問である。1から始まり、推論を重...
一風変わった数学への手引き書である。どこか哲学書のような雰囲気も漂う。数学史のような記述もあれば、数学に関するエッセイのようでもある。 だが各々の断章は確実に1つの命題に結び付けられる。 すなわち、タイトルの「数学する身体」に。 数学は不思議な学問である。1から始まり、推論を重ね、数学世界を構築していく。数論、確率、幾何、さまざまな分野が、それぞれの用語で論理を組み立て、視野を広げていく。それらは世界を普遍的に捉えることを目する。 けれどもそれを作り上げている人間は、有限の存在である。自分が何者かわからずに生まれ、最終的には死んでいくのが人間である。ある意味、あやふやな存在が、原点から出発して、周囲を少しずつ認識し、仮定から推論を重ね、確固たる世界を築き上げようとしていく。 数学は身体から生まれる。 身体が数学をする。 数学的真理は普遍的と見なされるけれども、それを生み出すのははかない身体である。 数学は身体を超える力を持ちつつも、身体なくては生まれず、また発展しえないものでもある。 本書では、こうした数学と身体の関わりについて、考察を重ねていく。 特に大きく扱われているのが、コンピュータの父と呼ばれるアラン・チューリングと、在野の数学者・岡潔である。 チューリングは、ドイツ軍の暗号エニグマを解いたことでも有名であり、人間を演じ切る機械を作ることは可能かと問う「イミテーション(模倣)ゲーム」の命題でも知られる。チューリングは分析の人だった。人の心をタマネギの皮をむくように1つ1つ解き明かしていく。むいてむいて、最後には何が残るだろうか。そうした形で発展していったのがチューリングの研究の仕方である。 対して、岡は数学を生きた人である。というよりは、彼にとっては生きること自体が命題であり、その1つの発露が数学であったにすぎないのかもしれない。岡は「情緒」という言葉を好んで使った。 数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に「理解」しようとするのではなく、数学と心通わせ合って、それと一つになって「わかろう」とした 著者もまた、チューリングの姿勢よりは、岡の「生き方」に魅かれているようにも見える。 著者は武術家の甲野善紀とも親交があり、そういう点からも、「身体」へのまなざしが感じ取れる。 そうして生み出される著者自身の数学がどのようなものなのか、本書からはうかがい知れないのが若干残念なのだが、それは読み手である自分自身の力不足なのかもしれない。 不思議な広がりを持つ1冊である。
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数学と哲学はもともと近い関係にある、とは昔からよく言われることだが、それがつまりどういうことかを読者にそれなりのボリュームでわかりやすく(文系寄りに)提示している本に初めて出会った。あとがきはややナルシスティックな書きぶりだが、本文は難しいことを一般読者に過不足のない言葉で説明し...
数学と哲学はもともと近い関係にある、とは昔からよく言われることだが、それがつまりどういうことかを読者にそれなりのボリュームでわかりやすく(文系寄りに)提示している本に初めて出会った。あとがきはややナルシスティックな書きぶりだが、本文は難しいことを一般読者に過不足のない言葉で説明しておりすばらしい。
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文系の自分に結びつかない単語が並んでいるタイトル「数学と身体」。思わず惹かれて購入し、書籍内の文体の美しさに鳥肌が立った。チューリングや岡潔といった著名な数学者の功績をしれたし、どんな学問でも心・気持ちに寄り添うことが大切なのだと知った。素敵な本と出会った、幸せ。
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