数学する身体 の商品レビュー
センスオブワンダー、岡潔のエッセイの編纂?でぼんやりと存在を知り、数学ってホントはなんなのだろう、と思って手に取りました。 いや、なるほど、数学の歴史を知るとこんなにも世の中のことや、学術界の変遷を感じることができるのか、と脳がわくわくどきどきしています。 読み終わる前に『計算す...
センスオブワンダー、岡潔のエッセイの編纂?でぼんやりと存在を知り、数学ってホントはなんなのだろう、と思って手に取りました。 いや、なるほど、数学の歴史を知るとこんなにも世の中のことや、学術界の変遷を感じることができるのか、と脳がわくわくどきどきしています。 読み終わる前に『計算する生命』を入手。読み始めたところ。 これもまた、脳と感情が喜ぶ本です。こういう理解ができていれば、高校数学ももっと楽に理解できていたよな、と思います。 そして、数学は生活につながっている、といことをびりびりと感じます。
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※このレビューにはネタバレを含みます
遺伝的アルゴリズムのような人工進化では、磁束などのノイズをリソースとして活用した効率的な回路ができる話は面白い。科学的な思考をもとにしたエンジニアリングではノイズとリソースを明確に分けるが、自然的で即興的なブリコラージュではノイズもリソースもありものの材料として組み合わせて世界を創る。 人類にはまだ理で理解できないこの世界の全体感を、全身とこころで分かろうとする岡潔のアプローチの素晴らしさを改めて感じられる一冊。これが本来の日本のこころなのかも。
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数の歴史から数学史の話を通して、「数学する」とは何か、「数学する身体」とは何かについて語り、ヒルベルトやチューリングにたどり着く。そして数学を数学する者としての岡潔の解説を行うと同時に文学的な物語を語っている。 数学に関する本ではあるものの数学の本ではない。何の本かと聞かれるとこ...
数の歴史から数学史の話を通して、「数学する」とは何か、「数学する身体」とは何かについて語り、ヒルベルトやチューリングにたどり着く。そして数学を数学する者としての岡潔の解説を行うと同時に文学的な物語を語っている。 数学に関する本ではあるものの数学の本ではない。何の本かと聞かれるとこれという表現が見つからない。 改めて数学というものを考えるきっかけになる本
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#ヨンデルホン #数学する身体 / #森田真生 #新潮社 #ドクリョウ #ヨミオワリ もっと集中して読むべきであったか。まぁ、本は逃げない。次は、じっくり。俄然、岡潔を読んでみたくなった。
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本書は数学書ではなく、「数学する」ことについて思索した哲学書だ。 著者の森田真生氏は「独立研究者」というちょっと変わった肩書きで、スマートニュース会長の鈴木健氏からの影響で文系から東大数学科に転向したという経歴の持ち主。 読み進めるごとにセンスオブワンダーが溢れてくるのだが、...
本書は数学書ではなく、「数学する」ことについて思索した哲学書だ。 著者の森田真生氏は「独立研究者」というちょっと変わった肩書きで、スマートニュース会長の鈴木健氏からの影響で文系から東大数学科に転向したという経歴の持ち主。 読み進めるごとにセンスオブワンダーが溢れてくるのだが、本書を30歳の若さで書き上げたというのだから驚き。 前半では数学史を辿りながら、数学と身体との結びつきについてその起源から洞察がなされる。 数式はほとんど出てこないので、数学が苦手な読者でもスイスイ読み進められる。 後半では著者が影響を受けたアラン・チューリングと岡潔の魅力が語られ、心の問題にまで踏み込んだ少し抽象度の高い論説が展開される。 アラン・チューリングといえば「コンピュータの父」「人工知能の基礎を作った天才」であり、昨今のAIブームにつながる話にも触れられているので、興味のある方はぜひ。 うむうむむ。難しい。のにおもしろい。 ーーーーーーー一以下、抜書きーーーーーーーー . 起源にまで遡ってみれば、数学は端から身体を超えていこうとする行為であった。数えることも測ることも、計算することも論証することも、すべては生身の身体にはない正確で、確実な知を求める欲求の産物である。曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない。一方で、数学はただ単に身体と対立するのでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のないところに数学はない。古代においてはもちろん、現代に至ってもなお、数学はいつでも「数学する身体」とともにある。 . 〝数〟は、人間の認知能力を補完し、延長するために生み出された道具である。「自然数(naturalnumber)」という言葉があるが、それは決してあらかじめどこかに「自然に」存在しているわけではない。「自然」と呼ばれるのは、もはや道具であることを意識させないほどに、それが高度に身体化されているからである。 . 例えばオーストラリアのヨーク岬とパプアニューギニアの間にあるトレス海峡諸島の原住民は、両手だけでなく、肘や肩、胸や足首、膝、腰など、全身を使って33まで数える方法を持っている。中世ヨーロッパにおいては、両手の指を使って9999まで数える方法があった。しかし、身体の部位には限りがあるから、いずれにしても限界がある。 . ところが紀元前五世紀頃のギリシアを舞台に、それまでとは異質な数学文化が花開く。計算によって問題を解決することよりも、「証明」によって結果の正当性を保証するプロセスに重きを置く姿勢が生まれたのだ。ギリシアの数学者たちは、「いかに」答えを導き出すかという技術以上に、「なぜ」その答えが正しいかという理論に拘った。とりわけ象徴的なのが、ユークリッドの『原論』である。 . 私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。数学は初めからいまの形であったわけではなく、時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだ。 . チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした。〝数〟は、それを人間が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分学の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピュータの理論的礎石が打ち立てられた。 . 岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。計算や論理は数学の本体ではなくて、肝心なことは、五感で触れることのできない数学的対象に、関心を集め続けてやめないことだという。自他の別も、時空の枠すらをも超えて、大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。 . チューリングが、心を作ることによって心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることによって心をわかろうとした。チューリングが数学を道具として心の探究に向かったとすれば、岡にとって数学は、心の世界の奥深くへと分け入る行為そのものであった。道元にとって禅がそうであったように、また芭蕉にとって俳諧がそうであったように、彼にとって数学は、それ自体が一つの道だったのだ。
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「「数える」という行為から始まって、古代ギリシア人の論証数学、近代ヨーロッパの記号と計算、数学理論を記号操作に写し取ろうとしコンピュータに至るまで、数学史の一つの流れを追った」数学哲学書。AIが人の脳(心)を解明した先に何があるのか、期待と不安が尽きない。
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内容が扱うものが数学で難解なものなので、本当に理解できているかはわからないが、数学の歴史の中でたどり着いた、客観的な計算ではない、人間的なもの、閃き、心、情緒にたどり着いたチューリングと岡潔。心でないものをタマネギの皮を剥くように特定していって、残る心を探究するチューリングと、数...
内容が扱うものが数学で難解なものなので、本当に理解できているかはわからないが、数学の歴史の中でたどり着いた、客観的な計算ではない、人間的なもの、閃き、心、情緒にたどり着いたチューリングと岡潔。心でないものをタマネギの皮を剥くように特定していって、残る心を探究するチューリングと、数学という道の中で、数学になりきり、情緒とはを体得しようとした岡潔の、最後行き着くところは近しいがアプローチが全然違うところが、絶対的な真理というものはないのでは、と思わせて面白い
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岡潔とアラン・チューリング。 難しくてわからないところも多かったけど、難しくてわからないことがあるということを意識することが大切。
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同じ著者の『数学の贈り物』を読み、すっかりファンになってしまい読んだ一冊。数学というものを、数字や記号を使った「純粋に」論理的な思考と考えるイメージに対して、そうした思考に「身体」の役割を取り戻そうとする本。 数学史についての説明は、ユークリッドに始まる古代のギリシア数学から、...
同じ著者の『数学の贈り物』を読み、すっかりファンになってしまい読んだ一冊。数学というものを、数字や記号を使った「純粋に」論理的な思考と考えるイメージに対して、そうした思考に「身体」の役割を取り戻そうとする本。 数学史についての説明は、ユークリッドに始まる古代のギリシア数学から、チューリング機械まで。数学史に関する本を一度でも読んだことがあれば大体知っているような有名どころが押さえられている。 ただ、面白いのは、古代の数学には、「身体性」があった、というところだ。 ユークリッドの書いた『原論』には、多くの命題がある。しかし、現代数学の命題と明らかに異なっているのが、命題を読んだだけでは、状況がよく分からず、横に付けられた図とセットになっている点だと言う。 著者は、このことについて、古代の数学は、ただ、数式や記号を使って、論理的な思考を書くだけでなく、数学というものが、まさに、自分の「身体」を使って図を書くという行為と、不可分だったのだという。つまり、数学をすることは、頭で考えるのと同時に、体で考えていた。 頭の中で考えることと、実際に体を動かして頭の外で考えること。こうした「考える」ということの捉え方が面白かった。 後半、著者は、自分が最も影響を受けたという岡潔の言った「情緒」の言葉を鍵に、数学を体で、直感で理解することを取り戻すべきだという主張を説明していく。 高校時代に学んだ数学も、難しくなればなるほど、そこに数式として書かれたものは、現実的な感覚から遠ざかっていってしまう。著者の主張の通り、そんな数学に、体でなることができたとき、どんな風な景色が見えるようになるのか、とても心惹かれる。 本の数学に関する本筋からは脱線になるが、この本の中で紹介されている、アルタイの写真の話が一番印象に残った。木に立てかけられた板の前に一人の男が立ち、その周り数十人の子どもたちが座っている。 学校という場所があって、そこで勉強をするのではない。たとえ、そこに学校という建物がなくとも、誰かが誰かに教えるという行為が先にあって、そこに「学校」という空間が生まれる。 自分が今まで身につけてきたことを以て、日々生きること。そのためのヒントに満ちた本だった。
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著者の数学に〈情緒〉動かされてる体験がひしひしと伝わってくる。学問の探究へと道を進む稀有な人たちって何かしらこういう信念と、出会いがあるんだろうなと胸踊る内容です(本書の本筋ではないので、悪しからず)。 チューリングと岡潔を軸に、数学と身体というテーマを深ぼっていく構成。恥ずか...
著者の数学に〈情緒〉動かされてる体験がひしひしと伝わってくる。学問の探究へと道を進む稀有な人たちって何かしらこういう信念と、出会いがあるんだろうなと胸踊る内容です(本書の本筋ではないので、悪しからず)。 チューリングと岡潔を軸に、数学と身体というテーマを深ぼっていく構成。恥ずかしながら岡潔の存在を知らず、こんなに観念的な数学との付き合い方があるんだと目から鱗状態になりました。 チューリングの数学を道具として利用して人間と心と数学の境界を暴きにいくアプローチ対して、岡潔は心の奥深くは分け入る行為そのものこそが数学であるという立場をとる。どちらも魅力的で勝つ痺れる対比で捉える筆者の洞察力に傑物感が窺い知れます。同世代ということで、すごい人っているんだなーと単純に感動しちゃう。 丁寧に論を進める筆致と、そのテーマの深淵さかつ引き込まれるその面白さを十二分に堪能できます。数学に興味があってもなくても、必読となっておりますよ。
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