べつの言葉で の商品レビュー
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現代の外国の作家の本はめったに読んだことがありませんでした。 こういう外国語の勉強法があるんだなと実用的な面で読んでいましたが、彼女が何故そんなにイタリア語を愛するのかを綴った章では切なくなりました(私はずっと日本人の間に生まれて日本で育ってきた身ですので、気持ちが分かることはないでしょう)。
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読書会で、翻訳者の栗原俊秀さんイベント「移民をめぐる文学」を知り、せっかくなら読書会までに紹介されている本をできるだけ読もう!と思い読み始めました。読書会までにあと3冊だったのでここまで来たら全部読むぞーーと読み続け、たくさんある積読を押しのけ(笑)10冊新たに読んできたのですが...
読書会で、翻訳者の栗原俊秀さんイベント「移民をめぐる文学」を知り、せっかくなら読書会までに紹介されている本をできるだけ読もう!と思い読み始めました。読書会までにあと3冊だったのでここまで来たら全部読むぞーーと読み続け、たくさんある積読を押しのけ(笑)10冊新たに読んできたのですがこちらで読み終わりました。 小説、エッセイ、論文と多岐に渡った文学選、この機会でないと読まないものばかり。 読書は勢いだなあ 笑 「移民をめぐる文学」はこちら。 https://note.com/michitani/n/nfd0960c15f46 本書の著者は、ベンガル人でコルカタ(カルカッタ)出身の両親がロンドンに移住した時に生まれて、幼少時に渡米して、インド系アメリカ人として作家になった。私が読んだのはこちらの『停電の夜に』。 https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4102142118#comment 著者は、家庭ではベンガル語だけを話し、家を出ると英語だけを話していた。二つの言語は著者にとって母と継母のようなものだったが、相性も悪くどちらを話しても違和感があった。そんな著者は、初めて聞いたイタリア語に惹きつけられた。外国語なのに自分との繋がりを感じた。美しさだけではない、雷に打たれたような経験だった。 アメリカに戻りイタリア語を習い、20年後に夫と子供たちと共にローマに移住することにした。(ご家族も素晴らしい) そして初めてイタリア語で書いたエッセイが本書。 「移民をめぐる文学」は、生活や政治的理由で生まれた国を離れたり、そんな両親から生まれたりした作家や物語だが、こちらは自分の意志で生まれ育った国を離れたという立場の違いがある。だからこその嬉しさ、受け入れられないもどかしさが語られる。 移民の文学では、生まれた国の言葉や習慣を忘れられず移住先の国で「外国人」である第一世代と、移住先の国に馴染んでそんな両親と隔たる第二世代が語られる。ジュンパ・ラヒリはアメリカ移民という意味では第二世代である立場から語る。英語に訛のある両親を「外国人」の目で見るアメリカ人に感じる苛立ち。そして完璧な英語を話す(英語圏で生まれ育ってるんだから当然)自分に対しても「英語できないんだろ」という態度を取られてきた。 自らの意思でイタリアに移住しても、見かけがインド人のため「外国人」扱いされ、かなり流暢になったイタリア語を話すと却って胡乱な目で見られる。そして著者の夫はアメリカ人のため、たどたどしいイタリア語であっても「ご主人のイタリア語は完璧ですね」と言われる。結局は見かけなのか?そしてイタリア語で小説を書こうとすることに対する反対意見も多かったらしい。 …このもどかしさは、日本にいる外国人の方もいいますよね。「自分は日本語も話せるしお箸も使えるのに、英語メニューとスプーンを出される」みたいな。国際社会であるイタリアやアメリカでもそんな感じなんですね。 言葉に惹かれるということはどういうことなのか。言葉を習得することはどんなことなのか。著者にとってはうまく行かなかったベンガル語と英語が、イタリア語を介することによりなんだかうまくいくようになった。小説も、英語を挟むこと無くイタリア語で書きたかった。そしてある時突然頭にイタリア語の物語が生まれた。 ジュンパ・ラヒリは自ら、言語で、住む国を決めた。アメリカでもコルカタにいるように過ごしていた両親は変わらないことが自分自身であるための抵抗の証だった。ジュンパ・ラヒリは変わり続けることを抵抗の証とする。 日本だけにいて旅行さえしない私からすればまったく立場も違うんだよなあなどと思いながらもこんな経験を知ることができるのも「読書」の楽しみである。 <ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語を持たないわ足は、世界をそして机の上を彷徨っている。最後に気がつくのは、本当の亡命とは全く違うものだと言うことだ。私は亡命という定義からも遠ざけられている。P86>
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イタリア語への愛がある故に傷ついてしまう心があり、喜ぶ機会がある。 愛情があるから求める。喜ぶ。傷つく。 愛情が無ければそれらも無い。 何かと向き合う時には「違いを知る」ことを避けられないから、対象が人であれ、物であれ、言語であれ、自分が絶対に傷つかない守られている状態では愛は自...
イタリア語への愛がある故に傷ついてしまう心があり、喜ぶ機会がある。 愛情があるから求める。喜ぶ。傷つく。 愛情が無ければそれらも無い。 何かと向き合う時には「違いを知る」ことを避けられないから、対象が人であれ、物であれ、言語であれ、自分が絶対に傷つかない守られている状態では愛は自分の中に宿らないんだと思う。
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語学を学び直すにあたって、このラヒリのイタリア語での試作は実に考えさせられる。ぼくが学ぶ英語とラヒリのイタリア語の学びはもちろん歴然とした違いがある(ラヒリの学びの姿勢から、あえて英語よりも「マイナー」とされかねない言語を学ぶ矜持についてぼくはもっと深く考えねばならないはずだ)。...
語学を学び直すにあたって、このラヒリのイタリア語での試作は実に考えさせられる。ぼくが学ぶ英語とラヒリのイタリア語の学びはもちろん歴然とした違いがある(ラヒリの学びの姿勢から、あえて英語よりも「マイナー」とされかねない言語を学ぶ矜持についてぼくはもっと深く考えねばならないはずだ)。だが、同じ「言語の学び」という所作を愛しそこから新しい感覚(おそらくはそれこそ「新しい自分」)に触れようとするラヒリを必要以上に「敬して遠ざける」のはもちろん「もったいない」というもの。この本はその点で、学びの動機づけに実に最適だ
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わたしのいるところ から派生して読みましたが、 こちらの作家さんの作品をもっと読みたいし じわっとなじむという感じなので孤独な老後に読んでも幸せだと感じられるのではという見解
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言語とアイデンティティーというものを問い直させられる。 筆者は、アメリカへの移民であり、母語としてのベンガル語は完璧に操ることはできない。一方で、生きていくために必要であった英語は血となり肉となり、自身の言葉として浸透している。 大人になって、自分自身で学ぶことを選んだイタリア語...
言語とアイデンティティーというものを問い直させられる。 筆者は、アメリカへの移民であり、母語としてのベンガル語は完璧に操ることはできない。一方で、生きていくために必要であった英語は血となり肉となり、自身の言葉として浸透している。 大人になって、自分自身で学ぶことを選んだイタリア語。その不自由さと困難さの中にある自由。言葉を覚えるということが、また新しい世界を発見することにつながることが静謐に語られている。
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属してるのか属していないのか分からない微妙な境界線。入り込もうとしても完全には入り込めないもどかしさ。言語が変わることで弱くなってしまう自分自身。 ただ外国語を勉強するだけじゃない、その場所に芯から溶け込もうとして初めて湧き出てくる感情、そして所属することの難しさ。色んなことを...
属してるのか属していないのか分からない微妙な境界線。入り込もうとしても完全には入り込めないもどかしさ。言語が変わることで弱くなってしまう自分自身。 ただ外国語を勉強するだけじゃない、その場所に芯から溶け込もうとして初めて湧き出てくる感情、そして所属することの難しさ。色んなことを思い出した本だった。 外国語で書くと母国語で書くのとはどうしても変わってしまうように感じるけど、最後の一篇でラヒリらしさが出てた気がして、根底は変わらないんだなと改めて。
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アメリカ育ちの英語話者だけど、これはイタリア語で書いたんだって! イタリア語、に心を惹かれ、とりつかれてイタリア移住までするのか!すごい。 コトバのことでまるで恋みたいに一喜一憂している。作家にもいろんな人がいるんだなーと思った。
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外国語を学ぶ期待と失望と苦しさ、はーめちゃわかる〜と思いつつも本まで出しちゃうラヒリに対し私は甘いなもうちょっと頑張ろうと思った。
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彼女とイタリア語は、出会うべくして出会った。運命だったんだろうな。狂おしいほどに熱狂し、葛藤し、日々こころを揺さぶられている。自分というアイデンティティの一部を担うまでの何かに出会えるって、すごい。奇跡だと思う。
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