べつの言葉で の商品レビュー
考えようによってはジュンパ・ラヒリの新作はこれまでと趣が全く異なるとも言えるし、これまで通りだとも言える。異なるのは何より書かれた言語の違いだけではなく、小説という様式ではなくエッセイという語りかけの方法を選んだこと。同じなのは、ジュンパ・ラヒリがこれまで書いてきた主題である二つ...
考えようによってはジュンパ・ラヒリの新作はこれまでと趣が全く異なるとも言えるし、これまで通りだとも言える。異なるのは何より書かれた言語の違いだけではなく、小説という様式ではなくエッセイという語りかけの方法を選んだこと。同じなのは、ジュンパ・ラヒリがこれまで書いてきた主題である二つの異なる文化の隙間に落ち込んで自己同一性の確信を持てないことに対する思い。誰かが悪いという訳ではないことは理性では解っていても、拳を振り上げたくなる感情は否定できない。よしんば降り下ろす先が無いことが分かっていたとしても。 ジュンパ・ラヒリがイタリアに移住し執筆をしているということは「低地」のあとがきで知らされていたし、次回作は異なる趣となると予告されてもいたので、遂にジュンパ・ラヒリも彼女自身の内に抱え込んでいた二つの故郷の間を往き来する振り子のテーマについては大部の「低地」で書き切り、異なるテーマを採用するのかと、実は本の少しだけ勝手に残念に思っていた。その勝手な思い込みはよい意味で裏切られた。ジュンパ・ラヒリは、書きたいことを虚構を通して投影するという間接的なやり方ではなく、直接自身の言葉で語る道を選んだのだ。しかしややこしいのは、自身の言葉で、といいながら、今度は自然に操れる言語ではない、第三の言葉でそれを表現していること。虚構というベールではないけれど、内に抱え込んだ葛藤は、やはり一枚薄皮を被ってしかさらけ出せないことの証明であるようにも思う。但し、別の言葉で書くと言いたいことをより直接的に表現し勝ちだと作家が述べているところに、何故、に対する答えはあるのかも知れないとも思うけれど。 一方で、より表層的なことではあるものの、ジュンパ・ラヒリが扱う言葉を変えて書くことによって産み出される違いは、英語と伊語の両方に堪能でなければ本当には味わえないのだろうと思うと、追いかけても決して辿り着かない虹のふもとを自分は追い求めているという絶望的な思いも湧く。せめてもの救いは、翻訳者に付随する日本語の表現の差異を日本語を理解するモノとしては辛うじて感じられること。そのことによって、同じ主題を聴きながら異なる音楽の響きを耳にしたような擬似的な体験を追従することができる。小川さんの翻訳なくしてジュンパ・ラヒリの小説に耽ることは叶わないように、イタリア語の響きのするジュンパ・ラヒリは、今後中嶋さんなしにはあり得なくなるのかという予感に捉われる。
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ベンガル・英・伊、3つの言語がかたどる三角形の中に自画像を見出していこうとするラヒリの冒険。そのひたむきさ、実に感動的。英語・日本語・米子弁の3つの言語で人格を織りなした私にも大いに共感できるのだ。ホントかww?
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まず、小川高義訳でないラヒリはどうだろうと、おそるおそる読み始めたが、心配は杞憂に終わった。ラヒリの力強さは訳者が変わっても変わらず燦然と輝いていた(もちろん、こちらの中嶋浩郎氏もすばらしい訳だった)。 本の冒頭、イタリア語を湖の向こうに見える小さな家に例えていたラヒリ。泳いであ...
まず、小川高義訳でないラヒリはどうだろうと、おそるおそる読み始めたが、心配は杞憂に終わった。ラヒリの力強さは訳者が変わっても変わらず燦然と輝いていた(もちろん、こちらの中嶋浩郎氏もすばらしい訳だった)。 本の冒頭、イタリア語を湖の向こうに見える小さな家に例えていたラヒリ。泳いであそこまで渡れるだろうか、という思い。 それが本が進んでいくうちに、ラヒリのイタリア語はどんどん進歩していく。当然、たゆまぬ努力あってのものだ。ラヒリの小説を読むと、学問を愉しむ人物がよく出てくるが、これはラヒリ自身のことなのだと、このエッセイを読んで気づく。 外国語に親しんでいる人、外国に住んだことのある人、住んでいる人にはラヒリの苦労と喜びが手に取るようにわかるだろう。
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イタリア語に魅せられ、イタリアに移住したジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いたエッセイ、というので、勝手に、もっと日常的な軽いエッセイを想像していたのだけれど、そういう部分もないわけではないけど、やはりジュンパ・ラヒリなので、軽く読むような感じではなく、一語一語丁寧に読むべき本、と...
イタリア語に魅せられ、イタリアに移住したジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いたエッセイ、というので、勝手に、もっと日常的な軽いエッセイを想像していたのだけれど、そういう部分もないわけではないけど、やはりジュンパ・ラヒリなので、軽く読むような感じではなく、一語一語丁寧に読むべき本、といった感じだった。わたしは丁寧に読めなかったな、と自覚があるのでいつか再読したい。。。 ラヒリが、両親が話すベンガル語と幼少時に習得して今では完璧に身につけた英語と、大人になってから学んだイタリア語のあいだでの苦しみみたいなものが伝わってきた。出自と、欧米人に見えない容姿のせいで、英語もイタリア語も、完璧だとしてもそうは思われず、育ちのせいでベンガル語も完璧とは思われないという。。。 あんなふうになにかひとつの言語に魅せられるっていうのはどういう感じなのかなあと思う。わたしなんかが英語をマスターできたらいいなとか思うのとはまた違うような気がする。
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ジュンパ・ラヒリ最新作はイタリア語で書かれたエッセイ。著者にとって本書が初めてのイタリア語での著作となる。 全編に貫かれているのは、『言語』というものに対する拘り。作家だから当然ではないかと思ってしまうが、ベンガル語、英語、そしてイタリア語と、著者の中でどう動き、どういう意味を持...
ジュンパ・ラヒリ最新作はイタリア語で書かれたエッセイ。著者にとって本書が初めてのイタリア語での著作となる。 全編に貫かれているのは、『言語』というものに対する拘り。作家だから当然ではないかと思ってしまうが、ベンガル語、英語、そしてイタリア語と、著者の中でどう動き、どういう意味を持っているのか、言語を通してアイデンティティを再確認しているようにも読める。 ラヒリの小説は長編も短編も非常に静謐で切ないのが特徴だが、エッセイもそうだった。しかし、静謐さと共に、よりダイレクトに表現されていると感じた。
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