べつの言葉で の商品レビュー
母語以外を好んで使う人の頭の中でいったいどんな冒険が繰り広げられているのかを知りたくて手に取った。言葉を上手に使えなくて当たり前の立場であることがときにその人を助け、時に傷つけるようすを垣間見た。
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※このレビューにはネタバレを含みます
初めてジュンパ・ラヒリの本を読んだ。とても素晴らしい小説。ラヒリは英語をベースとしながら、ベンガル語、イタリア語を扱う。イタリア語があることによってベンガル語と英語の関係もやや安定した。ただ彼女の中ではベンガル語は両親がいることによって成立している言語であって、両親が亡くなったら消えてしまう恐れもある。またイタリア語は今ローマに住んでいるから日々学び流暢さも増しているのだと思うけれど、別の国に行ったら消えてしまう言語かもしれない。 あいにく私は日本語以外に確固たる言語を持たないのでそこまで強い感覚を持たないが、イタリア語での読書は英語より内省的な読書体験であるといったようなラヒリの感覚はわかる気もする。日本語では読み飛ばしてしまう箇所を外国語であるが故に引っかかりより深く理解しようとする体験は同じだと思う。 しかし、イタリア語で書いているにも関わらず、その文体内省の深さはさすがで、英語の彼女の本も読みたいと思った。本書の最後に収録されている短編「薄暗がり」はとても美しく静物描写と心理描写の重なり具合が均整が取れていて非常に心地よい。詩人のような作家という印象を持った。 外国語の読書へと誘う一冊。
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何と、勉強中のイタリア語で書いたエッセイ+小説とのこと。 作者にとっては、言語と自己アイデンティティーは深く結びついていた。なので、自己アイデンティティーと全く関係のないイタリア語との出会い、そしてその勉強は、「不安」と「好奇心」が混然一体となって表れる体験だったということが、随...
何と、勉強中のイタリア語で書いたエッセイ+小説とのこと。 作者にとっては、言語と自己アイデンティティーは深く結びついていた。なので、自己アイデンティティーと全く関係のないイタリア語との出会い、そしてその勉強は、「不安」と「好奇心」が混然一体となって表れる体験だったということが、随所ににじみ出ている。
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ベンガル語で育ち、4歳から英語で生活しはじめ、大人になってイタリア語を愛して学び小説を書きはじめた作者の本。 言語が人ととても密接に結びついていること。母語が無い人は帰る国が無い、亡命すらできないということ。 淡々と語られていく。
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ベンガル人である著者は幼少期に渡米して教育を受け、作家になった。彼女の書いた『停電の夜に』という短編集が素晴らしくて、とても好きな作家の一人。 もう20年来イタリア語を勉強していたそうで、最近イタリアの移住してイタリア語で書いたエッセイ集が本書。 イタリア語の似たような意味を...
ベンガル人である著者は幼少期に渡米して教育を受け、作家になった。彼女の書いた『停電の夜に』という短編集が素晴らしくて、とても好きな作家の一人。 もう20年来イタリア語を勉強していたそうで、最近イタリアの移住してイタリア語で書いたエッセイ集が本書。 イタリア語の似たような意味を持つ単語がまるまる一頁に渡って書かれていたり、イタリア語習得についての苦悩などが綴られている。 イタリア語を学んでいる人は楽しめるのかもしれないが、これがぼくには極めて退屈だった。 この本は初のエッセイでもあるのだが、信じられないくらいつまらなかったので、エッセイは面白くない作家なのかもしれない。 すごく好きなミュージシャンのインタヴューを読んだら、想像を絶するつまらない人物だった時のような気持ちになった。 何語でもいいから、面白い小説を書いてもらいたいです。
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"イタリア語に対して、わたしは魅せられていると同時に怯えてもいる。謎のままで、愛されていても素知らぬ顔だ。わたしの感動を前にして、何の反応も示さない。" "不完全さは構想、想像、創造性に手がかりを与えてくれる。刺激してくれる。不完全であると感じれ...
"イタリア語に対して、わたしは魅せられていると同時に怯えてもいる。謎のままで、愛されていても素知らぬ顔だ。わたしの感動を前にして、何の反応も示さない。" "不完全さは構想、想像、創造性に手がかりを与えてくれる。刺激してくれる。不完全であると感じれば感じるほどわたしは、生きていると実感する。"(p.74) "わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。小さな子供のころから、書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法だった。わたしには静寂と孤独が必要なのだ。"(p.118)
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ベンガル語を話す両親に、幼少期からいたアメリカでは英語があふれ、イタリア語に絆や情愛のような『雷の一撃』をおぼえたジュンパ・ラヒリ。 私だったら環境の過酷さに腐ってたかもしれないのに、アメリカで小説家として偉大な賞を獲得しているだけでも、その心の強さ、あるいは凄さを感じられるの...
ベンガル語を話す両親に、幼少期からいたアメリカでは英語があふれ、イタリア語に絆や情愛のような『雷の一撃』をおぼえたジュンパ・ラヒリ。 私だったら環境の過酷さに腐ってたかもしれないのに、アメリカで小説家として偉大な賞を獲得しているだけでも、その心の強さ、あるいは凄さを感じられるのだが、その後の出来事で、真の『生きる』ということを実感するという、彼女の人生の先の読めない面白さ、怖さに、なぜか共感じみた親しみを感じた。 なぜ、そう感じたのかは、私の場合、先に「わたしのいるところ」という、このエッセイより後に発表した、初のイタリア語で書いた小説を読んでいることもあり、彼女の孤独の部分に深い共感を覚えているからだと思う。 このイタリア語で書かれた初のエッセイでも、『わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法』とあり、小説家であることは、彼女の存在意義のためには必要不可欠であることが分かり、また『言語の壁を壊し、自分を純粋に表現するために書く。書いているときは、わたしの顔かたちや名前は関係ない。偏見やフィルターなしに耳を傾けてもらえる』ともあり、言語の壁に今でも苦しんでいる彼女の姿が垣間見える。 また、単純にエッセイとして、すごく励まされた。 『無知なことが何かの役に立つことは分かっている』や、『不完全であると感じれば感じるほど、わたしは生きていると実感する。もし、すべてが可能だったら、人生に何の意味があるだろうか?』など、彼女のイタリア語として紡ぎ出されると、妙に説得力がある。 このエッセイ集には、彼女のイタリア語の言葉ひとつひとつを摘み集めていく、喜びと共に、苦難に満ちた日々に、生きているということを実感している姿が、真摯かつ丁寧に描かれていて、イタリアに興味がなくても、新しいひとつの人生論みたいなものを感じられるので、私的には、下手な日本人が書いたエッセイよりも遥かに共感出来た。おそらく、真面目な方なんだろうなといった雰囲気が、文章の端々に漂っている。翻訳の中嶋さんもすごいのだろうと思う。 表紙の女の子が溝を飛び越える写真も、ラヒリの挑戦する気持ちと重なって見えて、すごくこの作品に合っていて良い。
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ジュンパ・ラヒリが米国にて小説家として大成功したのちにイタリアへ移住。そしてイタリア語で書いたエッセイ。第二言語を学習する際の心持ちが赤裸々に書かれていて興味深かった。小説家である彼女にとって言語は特別な存在、人生そのもの。これまでの作品でも描かれてきたとおり英語とベンガル語の2...
ジュンパ・ラヒリが米国にて小説家として大成功したのちにイタリアへ移住。そしてイタリア語で書いたエッセイ。第二言語を学習する際の心持ちが赤裸々に書かれていて興味深かった。小説家である彼女にとって言語は特別な存在、人生そのもの。これまでの作品でも描かれてきたとおり英語とベンガル語の2つで板挟みになっていてアイデンティティクライシスに苛まれている。そこにイタリア語という何のルーツもない言語が入ってくることで自分のバランスを整えていく過程がオモシロい。第二言語の学習においてはどのようにモチベーションをキープするかが重要だと思っていて彼女はイタリア語に対する愛がそれにあたる。知りたい/話したい/書きたいという欲求のベースに言葉への愛を持っている人はうらやましいし強いと思う。また彼女がイタリア語を学ぶ上で不安に思うことを正直に書いている点がかなりグッときた。というのも英語話者が第二言語を習得しようとする過程を書いた本を読むのが初めてだった。「よそはよそ、うちはうち」というのは重々分かっているけど同じような困難に直面していることに安心した。分からないこと、変化すること、不完全であることに価値を見出す気持ちが大切だと思い知った。大きな達成感や喜びは大きな障害や苦しみを乗り越えないと得ることはできない。年を取ると予定調和に流されていくのが常である中、本著は何か止まってしまいそうなときに人を奮い立たせる能力を持っている。また本著には2篇の短編小説が含まれておりイタリア語で執筆されたものである。英語の小説では縦横無尽だった彼女の時間や場所のレンジの広さや大胆な展開はないものの、設定のシンプルさゆえの奥行ある感じが良き。英語話者が獲得したイタリア語で書いたエッセイを日本語訳で読むという言語を巡る不可思議さも本著の魅力と言えるだろう。
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新潮クレスト・ブックスはどれもシャレオツ装丁なのですが、とくにこの本は表紙写真とタイトルのインパクト、そしてなにより「ジュンパ・ラヒリ」という呪文のような美しい著者の名前によって印象に残っていました。 ベンガル人の両親をもち、アメリカで育ったラヒリが、ベンガル語とも英語とも自分...
新潮クレスト・ブックスはどれもシャレオツ装丁なのですが、とくにこの本は表紙写真とタイトルのインパクト、そしてなにより「ジュンパ・ラヒリ」という呪文のような美しい著者の名前によって印象に残っていました。 ベンガル人の両親をもち、アメリカで育ったラヒリが、ベンガル語とも英語とも自分の母語としては違和感をもちつつ、ローマに移住し、イタリア語で綴ったエッセイ。 英語で書いた作品によって作家として成功しているラヒリにとって、別の言葉で何かを語るというのは、もう別の人間になるようなもの。 言葉をめぐるエッセイというよりは、ひとりの女性が自分のアイデンティティを探しながら語る文学論のようでした。 もちろん私はこれを日本語で読むわけで、原本が英語であってもイタリア語であっても違いはわからないだろうと思っていましたが、ていねいに選んだであろう言葉、文体は日本語で読んでも美しく、おそらく使い慣れた英語ではなく、イタリア語で書いたからこそ、より彼女らしさが出た文章なのだと思います。 以下、引用。 何がわかるのだろう? 美しいのはもちろんだが、美しさは関係ない。わたしとつながりがあるに違いない言語のような気がする。 わたしはローマにまだ友人はいない。でも、誰かに会いに行くのではない。生き方を変えるため、イタリア語と結びつくために行くのだ。 ていねいにゆっくりと、苦労しながら読む。どのページもうっすらと霞がかかっているように感じる。障害はわたしの意欲をかき立てる。新しい構文がどれも奇跡のように、知らない言葉がどれも宝石のように感じられる。 ばかげた話だが、この単語の意味を知ることでわたしの人生は変わるだろうと確信する。 人生を変えることができるものは、常に自分以外のところにあると思う。 人は誰かに恋をすると、永遠に生きたいと思う。自分の味わう感動や歓喜が長続きすることを切望する。イタリア語で読んでいるとき、わたしには同じような思いがわき起こる。わたしは死にたくない。死ぬことは言葉の発見の終わりを意味するわけだから。毎日覚えるべき新しい単語があるだろうから。このように、ほんとうの愛は永遠の象徴となり得るのだ。 なぜわたしは書くのか? 存在の謎を探るため。わたし自身に寛大であるため。わたしの外にあるすべてを近寄せるためだ。 橋を何度も渡っていると、わたしたちの誰もがこの世で行っている、誕生から死に至る旅のことが心に浮かぶ。橋を渡りながら、もうあの世に着いたのではないかと思うこともある。 「新しい言語は新しい人生のようなもので、文法とシンタックスがあなたを作り変えてくれます。別の論理、別の感覚の中にすっと入り込んでください」 わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。小さな子供のころから、書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法だった。わたしには静寂と孤独が必要なのだ。
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大学で英語とは別の言語を学んでおり、また1年の留学経験もあってか、作中の筆者の気持ちや綺麗な比喩で表現された独特の感情にとても共感した。 外国語を学び、話すことは、本当に、母語の時とは違う自分になる、自分でも驚くくらい、留学先やその言語を話しているときはハッキリと自分の意見や思い...
大学で英語とは別の言語を学んでおり、また1年の留学経験もあってか、作中の筆者の気持ちや綺麗な比喩で表現された独特の感情にとても共感した。 外国語を学び、話すことは、本当に、母語の時とは違う自分になる、自分でも驚くくらい、留学先やその言語を話しているときはハッキリと自分の意見や思いをストレートに伝えられる。言語=アイデンティティ。英語を継母、ベンガル語を母から受け継いだ子、イタリア語を養子とする表現が、なかなか想像するのが難しいであろう作者のそれぞれの言語に対する関係性を非常にわかりやすく表していて、ストンと自分の中で腑に落ちた。
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