街場の文体論 の商品レビュー
どうすれば、相手に「伝わることば」を届けられるのか。これは現代という混迷の時代にあって、生き延びるためにぜひとも身につけておきたいリテラシーであるといっていい。その秘密が全公開されているというのだから読まない手はない。珠玉の知見の数々に誰もが自己の中に新しい星座を見出すことだろ...
どうすれば、相手に「伝わることば」を届けられるのか。これは現代という混迷の時代にあって、生き延びるためにぜひとも身につけておきたいリテラシーであるといっていい。その秘密が全公開されているというのだから読まない手はない。珠玉の知見の数々に誰もが自己の中に新しい星座を見出すことだろう。心地良い読後感の中で、正宗白鳥がかつて源氏物語を評していったように「高原にあって星の煌めく空漠たる晴空を見る思いがした」。 絶賛するにたる内容であることを、いまこれを読むあなたが納得するように、できるだけ噛み砕いた形でそれらを呈示するため本題に入りたいと思う。 突然だが、ペーパーテストや小論文で高得点を獲るのは簡単だ。問題提出者がどう答えて欲しいのかを考えて、つまり相手が喜びそうなことを予想して書けばいいだけだからである。私たちは普通高校にいたるまで、点数が高い答えがどういうものかを学ぶが、「文章の書き方」を学習する機会は皆無であるといって相違ない。つまり、自分が本当に言いたいことにどうやって出会うのか、自分に固有の文体を発見するのかといったことは学校では決して教えてもらえない。受験現代国語で高得点が獲れるような文章というのは、意識しようがしまいが、構造的帰結として相手を見下した態度に結びつきやすいということがわかる。なぜといって、自分の思っていることを正直に書いたら、悪い採点結果が帰ってくる。相手の模範解答を予想して書けばいい結果が帰ってくる。すると、「はいはいわかりましたよ。こういうこと書けばあなたは喜ぶんでしょ。」と自分が伝えたいことを諦めて、期待された文章を書くようになる。そこには「読み手に対する敬意」というものが決定的に欠けている。(受験エリートの多くがシニカルな文章の書き手であることを思い出そう。きっとこのあたりにも原因がある。) さて、感の鋭い方はもうおわかりになっただろうが、結論からいうと、ほんとうの意味で「書く」ということの本質は「読み手に対する敬意」に帰着すると著者はいっているのである。 情理を尽くして語る。僕はこの「情理を尽くして」という態度が読み手に対する敬意の表現であり、同時に、言語における創造性の実質だと思うんです。 創造というのは、「何か突拍子もなく新しいこと」を言葉で表現するということではありません。そんなふうに勘違いしている人がいるかもしれませんけれど、違います。言語における創造性は読み手に対する懇願の強度の関数です。どれくらい強く読み手に言葉が届くことを願っているか。その願いの強さが、言語表現における創造を駆動している。(p16) 敬意とは、「お願いです私を通してください」という懇請とは違う。「お願いです私の言いたいことをわかってください」という構えのことだ。対人コミュニケーションにおいて、必死になって相手に伝えようとする場合に、身振り手振りが多くなるという経験は誰にもあることと思う。それと同じように、必死になって伝えようとすると文章においても、あらゆる表現を駆使しするようになる、身振り手振りが大きい文を創造するようになる。(たとえば比喩表現はまさに相手に伝わって欲しいという願いから生まれたものだ。)また、伝えたい相手によって、表現上の変化がみられるように(小さい子供に伝えるとき、恋人に伝えるとき、年上のひとに伝えるとき)多様な読者像を持っているということが、文章を書く上でものすごく大切なことであるという。 ところで、私たちは誰もみな「言語という檻」に閉じ込められている。実は言語によって、思考も、行動も制約されている。決定的に言語に対して「遅れている」のである。しかし、そのことに自覚的である人間だけが、檻ごといっしょに移動することができる。「檻ごと動く」というのは、定型を身体化することである。そのために有効な方法が一つだけあるのだと著者はいう。 それは母語の古典を浴びるように読むことです。古代から現代に至るすべての時代の、「母語で書かれた傑作」と評価された作品を、片っ端から浴びるように読む。身体化するというのは理屈じゃありません。ただ、浴びるように読むだけです。それが自分の肉体に食い込んでくるまで読む。(p262) 破格や逸脱というのは、規則を熟知している人間にしかできない。言語の冒険は、非常に逆説的ではあるが定型を十全に内面化できた人間だけに許される。生成的な言語に出会うチャンスはそうした、言葉の遣い手になるということである。 と、ここまで実は結論めいたことしか書いていない。結論に至る過程のこそが重要なので、気になった方は買って読んでほしい。きっとこの本に出会えてよかったと思えるだろう。
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文章の書き方ではなく、言葉の届け方を考える本。コミュニケーションと生きることがぐんぐん繋がっていく。混沌とした時代だからこそ、私欲のまま人を出し抜いて生き残るのではなく、giveの気持ちで人と結びついて生きていこう。
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大学で十年近く続けてきた『クリエイティヴ・ライティング』という授業の集大成として最終講義の"講義録"の体で編集されたもので,文章の"書き方"を通して内田さんがこれからの時代を生きていくべき者たちに必要なこと,今伝えたいこと,心構えが話の流れ...
大学で十年近く続けてきた『クリエイティヴ・ライティング』という授業の集大成として最終講義の"講義録"の体で編集されたもので,文章の"書き方"を通して内田さんがこれからの時代を生きていくべき者たちに必要なこと,今伝えたいこと,心構えが話の流れに沿って順不同に並べられている。いい意味でも悪い意味でも内田さんらしく話の内容がすぐ逸れて,いいかんじに臨場感あふれる本だと思った。 いちばんメッセージとして伝わってきたのは,なにか創造する者にとって"何を"書くかということは,書いてみるまでは未知であること。これは テクストー著者 という関係の構図を解体しようとした構造主義の主題でもあるし,執筆家として内田さんが物を書いているときの実感でもあるはずだ。自分が"何を書くのか"は未知であるが,調子のいい時は(ゾーンではないけれど)、書き終えたあとの自分の姿がはっきりと想像できると言う。 また,内田さんの本を読んでいると,構造主義の本を解読するための素養が自然と培われていくところもおいしい。
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著者もあとがきで述べているように、「書くこと」「話す事の本質は読み手に対する敬意」「情理を尽くして語ることが相手に言葉を届けるために必要ということ」などを少しずつ言葉を変えながら繰り返し述べている。 読み終えるのが惜しくなる、「言葉」についての本でした。 魂から出る言葉、生身から...
著者もあとがきで述べているように、「書くこと」「話す事の本質は読み手に対する敬意」「情理を尽くして語ることが相手に言葉を届けるために必要ということ」などを少しずつ言葉を変えながら繰り返し述べている。 読み終えるのが惜しくなる、「言葉」についての本でした。 魂から出る言葉、生身から生まれる言葉。
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最後とおっしゃっていたので、少し心して読みました。 沢山の本を読んで、沢山のものを見て、新しい言葉を、新しい自分を見つけ続けていきたいな。 とにかく一生懸命よんで、言葉を内面化することが、意味のないことではないとわかった気がして救われたよ。 そして、私は沢山の言葉を語りながら、「...
最後とおっしゃっていたので、少し心して読みました。 沢山の本を読んで、沢山のものを見て、新しい言葉を、新しい自分を見つけ続けていきたいな。 とにかく一生懸命よんで、言葉を内面化することが、意味のないことではないとわかった気がして救われたよ。 そして、私は沢山の言葉を語りながら、「君たちのことが大好きだ」というメッセージを伝え続けていくんだなぁ。
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いやぁ、すごい本だ。もう「目から鱗」の落ちまくりである。筆者の神戸女学院大学での最終講義が基になっており、全部で13講あるが、もうどれもどれも「なるほど!」と思うことや蒙昧を拓かれることの連続である。筆者の啓蒙活動には本当に頭の下がる思いだ。それに対して正当な評価がなされないと...
いやぁ、すごい本だ。もう「目から鱗」の落ちまくりである。筆者の神戸女学院大学での最終講義が基になっており、全部で13講あるが、もうどれもどれも「なるほど!」と思うことや蒙昧を拓かれることの連続である。筆者の啓蒙活動には本当に頭の下がる思いだ。それに対して正当な評価がなされないという正統的学問世界の視野の狭さに驚愕する。 内田樹の文学や文章に対しての考えがまとまって提出されている本だ。これらの考えは非常に根源的で、また視野に富むものばかりである。それがきわめて分かりやすい語り口、文体で書かれている。 うーむ、読んでいて楽しいばかりであった。読み終わるのが惜しいくらい。それでいて、もっとどんどん先へ読み進めたいと思わせられる。この手の本としては珍しい思いを抱かせられた。素晴らしい。
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よくある文章術の本みたいに「こうやったら文がうまくなる!」とか言われるより、ずっと勉強になるし、心に残ります。フランス文学や言語学のところが難しかったので、しばらくしてからまた読み直したいです。表紙はアナグラムを意識しているのかな。ぱっと見たら「ぶらく」というひらがなが目に入りま...
よくある文章術の本みたいに「こうやったら文がうまくなる!」とか言われるより、ずっと勉強になるし、心に残ります。フランス文学や言語学のところが難しかったので、しばらくしてからまた読み直したいです。表紙はアナグラムを意識しているのかな。ぱっと見たら「ぶらく」というひらがなが目に入りました。無意識って結構あなどれません! 【メモ】 客観的な視点 軍国少年だった吉本隆明は外国語に翻訳されないけど、戦争が嫌いだった丸山真男は翻訳される理由 アジア各国がPISAでよい成績を得る理由は、他国への関心からくる俯瞰力 エクリチュールについて 話す言葉によって自己は縛られている 無垢なエクリチュールを目指す運動が、文章の魅力につながる 型を自分のものにする 名文をたくさん読み、自分のものにすることによって、表現の自由を得ることが出来る 無意識に得ている情報は思ったよりたくさんある 電子書籍でなく、紙の本である意味 アナグラムについて
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言語学の一番最初に躓く概念の話や、なぜ言語を研究するのか、文章を書くことへの愛や、読書とはそもそもどういうことか、等、分かりやすいし面白いし、切実な気持ちが伝わってきて、とてもじんときました。
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この書物は、14回の最終講義を基にまとめられており、著者の思い入れが臨場感とともに伝わってくる。文学と言語に関するエッセンスが、100名の受講者を前にして、「情理を尽くして」語られているからだ。 表題には「文体論」とあるが、ここで語られていることは、文学論ではなく、言語論でも...
この書物は、14回の最終講義を基にまとめられており、著者の思い入れが臨場感とともに伝わってくる。文学と言語に関するエッセンスが、100名の受講者を前にして、「情理を尽くして」語られているからだ。 表題には「文体論」とあるが、ここで語られていることは、文学論ではなく、言語論でもなく、ましてや書くための技術論でもない。言葉がいかにして生まれ、どのようにして伝わるのかという言葉の生成と伝達にかかわる原理的考察である。そのためには、赤ちゃんが欠かせないらしい。 第9講には、赤ちゃんはなぜ言葉を獲得することができるのかについての考察がある。まだ言葉を理解できない赤ちゃんが、母親からの意味不明の語りかけ(メタ・メッセージ)を「自分宛て」であることを直感できるから言語の習得が始まるという。自分一人に宛てられたと感じ取ることを通して、自分がこの世界に存在することを求められているという宗教的感情も生まれるというのだ。メタ・メッセージは、「宛て名」を持たないと伝わらない。 第11講では、赤ちゃんはなぜ鏡に映った像を自分だと認識できるのかについて考察している。鏡に映る像と自分の動きとが同期するのを見て、鏡に映るのは虚像にすぎないのに、それを自分であると認識できるという「ラカンの鏡像段階」を踏まえ、虚像とも言える他者を仮想的に自己同一化できる者を「大人」と呼びたいという。 最終の第14講は、これまでの講義とはトーンが明らかに異なっている。本当にこれが最後の講義となることを、語る者も聴く者も意識せざるをえなかったからだろう。実際の講義も、聴衆一人一人に向けて静かに、しかし熱く語られたのに違いない。自分の体験も引き合いに出して、講義は終わる。 「皆さん一人一人のなかにも、それぞれが属している、集団や共同体のソウル(魂)、あるいは親たちからのソウルが<メモリーズ>として輻輳している。見知らぬ他者の、死者たちの記憶が皆さんのなかでざわめいている。死者たちの記憶は消えない。ある種の波動のようなかたちで残っていて、それが僕たちの<ソウル>をかたちづくり、そこから他者に届く言葉が不断に生成している」 この書物「街場の文体論」は、読み終わると、「愛の身体論」になっていた。
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内田先生の神戸女学院大学最後でクリエイティブライティングという講義だったそうな。というところで僕の期待は大きく裏切られた。文体論というか文章論と感じた。前半はそんな落胆に包まれた私でありましたが、エクリチュール(だったかいな?)とか出てきたあたりからは流石の内田先生で面白かった。
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