街場の読書論 の商品レビュー
内田氏のあれも言いたいこれも言いたいという考え方の骨幹となる所が少し分かったような気がしました。後でブログをまとめた物と知って納得。それにしても健全なる精神の持ち主だと改めて感心!福沢諭吉先生ももう一度読んでみたくなりました。
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教育棚と著作権棚が興味深かったです。読書の始まりが、親の本棚にある本を読みはじめることであるように、「無償のテクストを読む」ということから長い読書人生をスタートするという一文に共感しました。
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比較的長い期間にわたって書かれた文章を集めた基本的にはブログコンピ本。まえがき、あとがきも収載されており、そこまでやるか?感というか、出版社の何とかして稼げないか?感が表に出ている印象が強いか、見方を変えれば、読書論や書くこと論について集めた編集者の情熱を称えるべきなのかもしれな...
比較的長い期間にわたって書かれた文章を集めた基本的にはブログコンピ本。まえがき、あとがきも収載されており、そこまでやるか?感というか、出版社の何とかして稼げないか?感が表に出ている印象が強いか、見方を変えれば、読書論や書くこと論について集めた編集者の情熱を称えるべきなのかもしれない。タイトルと内容がマッチしていないと感じる内容も多々あるが、内田節は相変わらずで、納得できる指摘を読むとうんうんそうだとニンマリしてしまう。
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教授(あ、「元」教授が正しいのか。まあいいや「教授」で)が本について語ったブログをまとめたもの。私は教授お気に入りの高橋源一郎氏がいまいちピンと来ないので、うーんそうかなあと思うところも結構あるけれど、以下の所はいたって面白かった。 「痩我慢の説」福沢諭吉 リアリスト福沢諭吉の...
教授(あ、「元」教授が正しいのか。まあいいや「教授」で)が本について語ったブログをまとめたもの。私は教授お気に入りの高橋源一郎氏がいまいちピンと来ないので、うーんそうかなあと思うところも結構あるけれど、以下の所はいたって面白かった。 「痩我慢の説」福沢諭吉 リアリスト福沢諭吉の「公的」「私的」のとらえ方に唸る。「国民国家なんてのはただの擬制だよ。だがね、人間というのは弱いもので、そういうものにすがらなけりゃ生きていけやしねえ。その必死さを俺は可憐だと思うのさ」。なるほどねえ。 「ヨブ記」 「私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では記述できないものに取り囲まれている。……誰かが境界線を守護しなければならない。……そのような仕事をする人のことを『歩哨(センチネル)』と呼んだことがある」 村上春樹氏がほとんど同じことを書いていたなあ。 「他者と死者」「レヴィナスと愛の現象学」 ずーっと前から読もうと思ってるんだけど…。なかなか踏ん切りがつかないのだなあ。 「若者よ、マルクスを読もう」 なぜかつての若者達がこぞってマルクスを読み、今は読まれなくなったか。日本人は、ベトナム戦争が終わったあと、「疚しさ」を感じる相手を見失ってしまったから、と教授は言う。 「共同体はそのメンバーのうちで、もっとも弱く、非力な人たちであっても、フルメンバーとして、自尊感情を持って、それぞれの立場で責務を果たすことができるように制度設計されねばならない」 「共同体を作り上げ、運営してゆくためには、どうしてもそれなりの数の『大人』が必要です。(中略)その持てる資源を自己利益のためではなく、かたわらにいる弱く、苦しむ人たちのために用いなければならないと考える『大人』が必要です」 「マルクスを読み、マルクスの教えを実践しようとすることは、近現代の日本に限って言えば、『子どもが大人になる』イニシエーションとして、もっとも成功したモデルの一つでした」 こういう切り口で60年代から70年代の若者をとらえたものは他にないと思う。ノスタルジックな思い入れや、「未熟ゆえの暴走」的なとらえ方ではないところがとても好きだ。 「『世界の最後』に読む物語」 「書物はもともと商品ではない」おお!全くその通りだ。ニーチェの「ツァラトゥストラ」は自費出版で四〇部刷られ、世に出たのはわずか七部。フーコーは「言葉と物」を出版するとき、その内容を理解できる読者をフランス国内で二千人ほどと見込んでいた、などなど。 「彼らの書物は同時代人の『あらかじめ存在していたニーズ』には対応していない。だが、その書物が出現したことによって、世界はその書物が出現するより前とは違うものになった」 思想とイデオロギーの違いについてもたいそう頷かされた。 「逆説的なことだが、思想の公共性を支えているのは『孤立していることの自覚』であり、イデオロギーの閉鎖性を作り出すのは『圧倒的多数が自分と同じ意見であるはずだという無根拠な信憑』なのである」
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12.06.xx読了。内田樹デビューの一冊。いろんなことに対して物申すって感じだけど、口調や理論が決して攻撃的ではなくおだやかで説得力あふれるものばかり。前半の故作家哲学者リスペクトはついていけないが、後半の著作権論のところはなかなか痛快。
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内田先生の読書本です。 棚ごとに本が紹介されていると同時に、 内田先生の引き出しがどばーっと開いてきます。 引用は職業柄です。 司法や医療や教育は広く社会的共通資本の中の「制度資本」にカテゴライズされる。それは、これらの制度はいずれも「わからないはずのことが、なぜかわかる」という人間の能力を当てにして設計されているからである。 というのも、司法官も治療家も教師も、実はいずれも「存在しないもの」とのフロントラインに異にする「歩哨」の一族だからである(P184)。
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読書論、というわりに説教くさくなくて、どういう風に本と付き合ってきたかを当人の感覚で伝えられていて、よかった。 コミュニケーションにおいて重要なのは「宛先」なのだということが、なるほどと感じた。
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ブログを3年分くらい一気読みした気分。後半は特にそんな感じ。読書論から文体論へ。著作権について、学ぶ力、書くことについて。静かながら熱のこもった文章が読めて心地よい疲労感を感じることができました。
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つねづね申し上げているように、「自分の賢さ」をショウオフすることよりも、「自分の愚かさ」の成り立ちを公開することの方が、世界の成り立ちた人間のありようを知る上ではずっと有用だと私は思っている。 つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。 書斎にこもって万巻の書を読んでいるが一言も発しない人と、ろくに本も読まないけれど、なけなしの知識を使いまわしてうるさくしゃべり回っている人では、後者の方が脳のパフォーマンスは高いということである。 パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである。 空気を読めないのは困るが、ちゃんと空気を読みとった上で、あえてその空気に亀裂を入れる事も、時として必要になる。いや、あまりに素朴で純真なために空気が読めないということも多い。が、そういう空気の読めない素朴な視点が、その空気の邪悪さ、あるいはくだらなさを暴露することがある。アンデルセンの「はだかの王様」を思い出してみればいい。「空気が読めない」というレッテルは、いじめの道具としか思えないのである。 未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。
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