ゼロ年代の想像力 の商品レビュー
東浩紀批判ということでしょうか?要するに、ゼロ年代に発表されてた優れたコンテンツのうち、東浩紀が趣味としているものだけが評価されているのは可笑しいと、ドラマや特撮、コードギアスといったアニメなど時代を切り取っている作品など、もっと評価されてもいいのではないか?といった内容だったよ...
東浩紀批判ということでしょうか?要するに、ゼロ年代に発表されてた優れたコンテンツのうち、東浩紀が趣味としているものだけが評価されているのは可笑しいと、ドラマや特撮、コードギアスといったアニメなど時代を切り取っている作品など、もっと評価されてもいいのではないか?といった内容だったような・・・文庫版あとがきでは宇野さん本人が、AKBを取り上げなかったのが唯一の失態だったと仰っています((´∀`*))
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
けっこうなショック(とてもポジティブなもの)を僕に与えてくれた本でした。 寡聞にして、ポストモダンの時代おける「希望」を有効に論じられている書物を読んだ記憶が無かった。ポスト東浩紀の登場すら期待してしまった。 あと、全共闘以降の日本社会の思想的な空気・時代精神というか年代区分を設けて其々の時代のマインドを説明してくれててかなり、理解のヘルプになった(相当程度の捨象はやむない気もする)。 大きな物語の失効が当然の前提となった現代における 全共闘→95年→東→ゼロ年代 この辺の切り分け方でそうとう見通しが良くなった。佐々木敦さんの「ニッポンの思想」とあわせて読むと、さらに分かりやすい☆ シラケ/スキゾ(逃走)→引きこもり/心理学→サバイバル/決断主義→今ココ!! 回答例としての宮藤官九郎、木皿泉、よしながふみ 進化の先の「リトルピープルの時代」も面白かった。ゼロ想は理論者とすれば、「リトピー」はケーススタディ
Posted by
文化系トークラジオLife界隈の賢い人達や、東浩紀、宮台真司の名前を知ったのはすべて本書のおかげなので、どれだけネットでdisられていようとも僕は宇野常寛さんの味方です。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
そもそも東浩紀さんの本を読んだことがなく、「エヴァンゲリオン」を全く見たことがない、という体たらくであったので、この本の前提条件になっているものの理解が薄い状態で読んでしまった。そのためかなりきつかった。 九十年代の終わり頃から2000年代の10年ぐらいのサブカルチャーについて批評を加えたものである(たぶん)。小説のことがもっと書かれているかなと期待してしまったが、どちらかというとアニメ、テレビドラマ、映画、マンガなどが中心で、たまに触れられるくらいだった。(それにしても「サブカルチャー」というのが未だにどこらへんを指すのかがもう一つわかっていない… ライトノベルもサブカルチャーなんか?) それにしても不思議に思ったのは、テレビドラマやマンガは全く見ていないわけではないのに、無意識のうちに自身避けてきたような作品ばかりがここで取り上げられていることだった。クドカンも「野ブタ」も「うる星やつら」にしても(これは古くないか?)仮面ライダー(今のってものすごい種類があるんだな)にしても、なぜか避けてきたものである。自己分析するとなんとなくどれも「批評を誘う」感じがあったからかもしれない。何か言いたくなる、というか。 そういう状態なので、たぶん何を言っても不毛なので、とりあえずの印象を残すことにする。 ・この本を読む前に東浩紀さんの『動物化するポストモダン』を読まねばならない。 ・エヴァンゲリオンはひきこもりの話(?)なのか。周囲に好きな人がいるので機会があれば聞いてみよう。 ・この本、ゼロ年代の文化カタログ的な楽しみ方のできる本であると思う。「幻冬舎小説」として挙げられる現象はそんな雰囲気あったな、となつかしかった。 ・東浩紀さんはそもそもどれくらい影響力があるのか。舞城さんとか佐藤友哉さんの作品とどれくらいリンクしているのだろう。 ・「繰り返して言うが」のような言い回しは柄谷行人さんがよく使っている印象があるけれど、東さんを経由して宇野さんまで引き継がれているのだろうか? ・そして「繰り返して言うが」のような言い回しが引き継がれてしまう、というのは、こういう言い回しの中に宇野さんのような作品を産み出す萌芽がある、ということなのだろうか? ・たぶん宇野さんは「ゼロ年代のものにだってけっこうええもんありまっせ!」と言いたいのだと思うのだがその解釈でいいのか。 ・宇野さんはAKBが大好きっぽい。 ・山岸涼子さんとよしながふみさんを読んでみたい。
Posted by
「かつて村上春樹がそうしたように、私もまずノートの中央に一本の線を引こうと思う。右側には古いものを正しく葬送するために配列し、左側には今を生きるものを、それと併走しやがて追い抜くために刻み付ける。」 宇野常寛さんによる現代批評。90年代の総括から始まり、ゼロ年代で起きたことを...
「かつて村上春樹がそうしたように、私もまずノートの中央に一本の線を引こうと思う。右側には古いものを正しく葬送するために配列し、左側には今を生きるものを、それと併走しやがて追い抜くために刻み付ける。」 宇野常寛さんによる現代批評。90年代の総括から始まり、ゼロ年代で起きたことを分析する。思えば、僕自身は2000年に中学校に入学し、2010年に大学を卒業するという、ゼロ年代がまるっと青春になっている。だからゼロ年代の思想は、僕が「当たり前」のものとして受け取っていたものに他ならないし、大げさに言えば僕とその同級生たちがゼロ年代を体現していると考えることもできよう。そういった立場で本書を読むと、そこには間違いなく僕が楽しく過ごした10年間が凝縮されていた。中学に入ってからハマッたアニメやゲームが、そしてそれを享受した僕たちこそがゼロ年代であったことを改めて目の当たりにすることができた。 中学から高校、そして大学へと、ハマる作品の傾向も変わってきた。それは成長によるものだと思っていた。「大人」になったからこそ、こういった作品の良さもわかるようになったのだ、と。しかしそうではなく、それは社会の変化に応じて摂取したいものが変わったことによるものだったのである。 僕は自己分析を行い、自分の力で自己啓発に取り組み、性格改善に努めてきた。全ては自分の努力によるものであり、主体的な所作であったと思い込んでいた。もちろん、自分のためにもそうした側面を完全に否定することはできないが、しかし、それも多くは社会からの要請に応じた結果に過ぎなかったのだ。 本書は90年代からゼロ年代にかけてという時代を、納得のいく形で、正確に分析してくれたと思う。一部、取り上げる事象のなかには必ずしも流行していないものも含まれているように感じ、そういった意味ではやや恣意的な側面を感じないでもないが、それも本書への納得を取り消すほどの力は持たない。 ところで、本書によれば『新世紀エヴァンゲリオン』は「古い想像力」であり、また天童荒太さんの『永遠の仔』はその一つの完成形であるらしい。たしかに、今現在において『新世紀エヴァンゲリオン』が新登場したとしたら、その「古」さゆえに、それが流行することはないだろうと思われる。たとえば、ゼロ年代に『エヴァ』を作るのであれば、「碇シンジ」には「NERV」を壊滅、あるいは乗っ取るくらいのことをしてもらわなければ困る(笑)。そのために、10年代において、現行の『新劇場版』がどのような新時代を築くのか楽しみでもある。 また、天童さんによるゼロ年代の作品『包帯クラブ』は間違いなく「決断主義」を体現している。かつての「古い想像力」を完成させた人物が、ゼロ年代の想像力に則っているという面白みを感じるとともに、そこに宇野さんの分析のスゴさを感じざるを得ない。 【目次】 第一章 問題設定 ――九〇年代からゼロ年代へ/「失われた十年」の向こう側 第二章 データベースの生む排除型社会 ――「動物化」の時代とコミュニケーションの回復可能性 第三章 「引きこもり/心理主義」の九〇年代 ――喪失と絶望の想像力 第四章 「九五年の思想」をめぐって ――否定神学的モラルのあとさき 第五章 戦わなければ、生き残れない ――サヴァイブ系の系譜 第六章 私たちは今、どこにいるのか ――「決断主義のゼロ年代」の現実認知 第七章 宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか ――(郊外型)中間共同体の再構成 第八章 ふたつの『野ブタ。』のあいだで ――木皿泉と動員ゲームからの離脱可能性 第九章 解体者としてのよしながふみ ――二十四年組から遠く離れて 第十章 肥大する母性のディストピア ――空転するマチズモと高橋留美子の「重力」 第十一章 「成熟」をめぐって ――新教養主義の可能性と限界 第十二章 仮面ライダーにとって「変身」とは何か ――「正義」と「成熟」の問題系 第十三章 昭和ノスタルジアとレイプ・ファンタジー ――物語への態度をめぐって 第十四章 「青春」はどこに存在するか ――「ブルーハーツ」から「パーランマウム」へ 第十五章 脱「キャラクター」論 ――ケータイ小説と「物語」の逆襲 第十六章 時代を祝福/葬送するために ――「決断主義のゼロ年代」を超えて 特別ロング・インタビュー ゼロ年代の想像力、その後 固有名索引
Posted by
サブカルから読み解く社会論。筆者と同世代を生きているから、馴染みのあるメディアに話題が及ぶとゼロ年代の時代認識が深まるように思える。『エヴァンゲリオン』の引きこもり/心理主義、『DEATH NOTE』のサヴァイブ感、『バトルロワイヤル』な時代と決断主義、大きな物語の喪失とSNS的...
サブカルから読み解く社会論。筆者と同世代を生きているから、馴染みのあるメディアに話題が及ぶとゼロ年代の時代認識が深まるように思える。『エヴァンゲリオン』の引きこもり/心理主義、『DEATH NOTE』のサヴァイブ感、『バトルロワイヤル』な時代と決断主義、大きな物語の喪失とSNS的共同体など、作品や背景を知ってると批評が冴えわたるように感じるのが面白い。ただ世代が違う人やメディアを知らない人にはどう読まれるんだろうか?『リトルピープルの時代』も読んでみたい。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
サブ・カルチャーに投影された想像力を検証し、その新たな可能性を展望する一冊。 1990年代後半のインパクトは何だろうか。様々考えられるが、「がんばれば、意味が見つかる」世の中から、「がんばっても、意味がみつからない」世の中に移行したことだけは否定しがたい。起点となる1995年を振り返ってみても、年頭から阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、そしてバブル経済崩壊による平成不況の長期が始まる年である。 著者は、アニメ、マンガ、映画、テレビドラマ、ケータイ小説など、膨大な数のサブカル作品が俎上にのせ、作品に投影された物語の想像力を丹念に検証し、90年代後半と00年代(21世紀)の差違と可能性を展望するサブカル評論集だ。 90年代を代表するのはアニメ『新世紀 エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジであろう。闘う意味を見いだせないシンジは、「引きこもり」の代表である。がんばる「意味」がわからないから、引きこもる。著者によれば、これが「古い想像力」だ。「~しない」という倫理がその特徴であろう。 ではゼロ年代の特徴とは何か。 小泉-竹中構造改革のもたらした格差社会の拡大は、要するに何もしないで引きこもっていることを許さない。特撮テレビ番組『仮面ライダー龍騎』、マンガの『ドラゴン桜』『DEATH NOTE』に表象される「サヴァイブ感」が支持される。成熟した人間とは、他者との関係世界から待避するのではなく、手を取り合う能力だという感覚が「新しい想像力」という特徴だ。 本書は1978年生まれの若い批評家の手による一冊で、作品とその需要・受容をたいへん分かりやすく批評した一冊で、新鮮な感動をもって楽しく読み進むことができた。 ただ出版から4年を経た現在から懐古するにあまりに類型化しすぎたきらいも否めない。退行から接続へという筋書きは否定できないものの、今なお「リア充爆発しろ」だとか「便所メシ」的怨嗟は否定できないからだ。 出版以来、論争の一冊となったと聞くが、ともあれ、新たな可能性を論じた野心作品であること、そしてサブ・カルを安易に退けることのできない現状であることは、認めなければならないだろう。
Posted by
面白かった。動物化するポストモダンが他人(友人)の物語だと感じたのに対し、これは自分の物語だと感じた。 決断主義とバトル・ロワイヤルにまつわる指摘は圧巻だった。 それらがとてもよかったので、日常に目を向けて云々といった一連の解決策(打開策)がつまらなく感じた。というか、むちゃく...
面白かった。動物化するポストモダンが他人(友人)の物語だと感じたのに対し、これは自分の物語だと感じた。 決断主義とバトル・ロワイヤルにまつわる指摘は圧巻だった。 それらがとてもよかったので、日常に目を向けて云々といった一連の解決策(打開策)がつまらなく感じた。というか、むちゃくちゃ仕事して稼いでいる(であろう)筆者が言ったところで、ちょっとリアリティに欠けるな…(強者の理論という批判に対する反論はあとがきにあったけれども) 大きい夢を追いかけさせることと、凡庸な日常に目を向けさせることと、どちらが暴力的なのだろう?
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
物語は喪失したのか? 衝撃を受けた。 振り返れば 私の人生は 物語への希求だったとわかった。 そして、今世紀に入る頃に 大きな物語が消えた。 大きな物語とは何か? ここからこの本をしばらく 読み解いていこうと思う。 「はじめに」を読む。 過不足ない。というのが印象。この本全体を通底する思い。
Posted by
とりあえずは、東浩紀以降、評論界は停滞している(評論の対象となっているコンテンツや、それらが反映しているであろう現実の有り様に追いついていない)ことを指摘し、どうも、その指摘はあたっているっぽいという感じ。 新書で出てたセカイ系の本の類が、文章の出来も悪いが、本の出来はもっと悪か...
とりあえずは、東浩紀以降、評論界は停滞している(評論の対象となっているコンテンツや、それらが反映しているであろう現実の有り様に追いついていない)ことを指摘し、どうも、その指摘はあたっているっぽいという感じ。 新書で出てたセカイ系の本の類が、文章の出来も悪いが、本の出来はもっと悪かった(つまり、編集の仕事が悪い)のに対して、本の出来もしっかりしている。文庫を読んでいる方がフラストレーションは溜まらないよねという、ある意味あたりまえな事を再認識したりとか。
Posted by