「フクシマ」論 の商品レビュー
「震災と原発 国家の過ち 文学で読み解く「3・11」 ((外岡秀俊著)」だったかなぁ…、以前読んだ本で紹介されていた。 本著は著者の修士論文だという、あの上野千鶴子先生の研究室の所属だそうだ。本著はまさに東日本大震災の直前にアクセプトされ、奇跡のような一冊だ。 著者は福島県...
「震災と原発 国家の過ち 文学で読み解く「3・11」 ((外岡秀俊著)」だったかなぁ…、以前読んだ本で紹介されていた。 本著は著者の修士論文だという、あの上野千鶴子先生の研究室の所属だそうだ。本著はまさに東日本大震災の直前にアクセプトされ、奇跡のような一冊だ。 著者は福島県いわき市生まれというから、小さな時から原発に関する「ムラ」という存在を感じながら育ったのかもしれないな、なんとなく地域の内向き感を肌身で感じていたんだろう。 中央の政府や官僚、東電、学者、メディアを〈原子力ムラ〉、原発が立地している住民など地域の共同体を「原子力ムラ」と表し、県議や知事や地域選出の国会議員等をメディエーター(媒介者)としている。原発推進の時期にはメディエーターはコラボレーターの役割を演じてきたが、原発の負の面を認識するようになるとノイズメーカーの役割を演ずるという。しかし、いったん「原子力ムラ」が形成されると、「addictionalなシステム」が形成され、原発を受入れざるを得ない状況(補助金ありきの地域づくり、原発で働く人を当てこむ民宿や飲食店等)に陥ってしまう。 著者はさらに〈原子力ムラ〉に代わって「原子力ムラ」からメディエーターの役割を演じる「東電の高卒社員」や「民宿」にも焦点を当て、植民地支配における被支配エリートによる支配者と被支配者(同胞)の切り離し・排除を例に挙げ、「東電の高卒社員」による〈原子力ムラ〉と「原子力ムラ」の切り離しや「民宿」による〈原子力ムラ〉と「流動労働者」との切り離しと言った、統治のメカニズムについても切り込んでいく。まさに、外向きの植民地化(戦前)が内向きの植民地化が進められたと分析する。 社会学として、本著の論拠の確からしさがどれほどなのか分からないがよくここまで切り込んでいるなぁという印象を持った。もしかして、よく言われる日本人のムラ意識についても考察できる一冊なのかもしれないな。
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著者の方、お若いのにたいしたもんです。これまでのムラの気持ち、よくわかりました。問題はこれからですね。
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昨年末の日経新聞で2011年の10冊の中に入っていた。驚きなのは、本書が修士論文をベースにしていること。タイミングが絶妙だったのを差し引いても修士論文がこれほど注目されるのはすごいことだと思う。 「私たちは原子力を抱えるムラを『国土開発政策のもとで無理やり土地を取り上げられ危険な...
昨年末の日経新聞で2011年の10冊の中に入っていた。驚きなのは、本書が修士論文をベースにしていること。タイミングが絶妙だったのを差し引いても修士論文がこれほど注目されるのはすごいことだと思う。 「私たちは原子力を抱えるムラを『国土開発政策のもとで無理やり土地を取り上げられ危険なものを押し付けられて可哀相』と、あるいは『国の成長のため、地域の発展のために仕方ないんだと』と象徴化するだろう。しかし、実際にその地に行って感じたのは、そのような二項対立的な言説が捉えきれない、ある種の宗教的とも言っていいような『幸福』なあり様だった。」 この、二項対立的な言説が捉えきれない何かについて、それが何かとその出来上がる過程を解説している。原子力の問題は、もちろんエネルギーという論点としてだけでも難しい問題だが、以上のような目を背けてはならない根の深い問題を含んでいる。
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ブラックな話です。眉を顰めて聞いてください。 被災地では、雇用がなくて困っているという。そこで中央の資本と国家の補助で企業のプラントを建設することにする。津波で図らずも更地ができているから、そこに大きなプラントを作る。 まずは建築業で雇用が創出される。そしてプラントが稼働...
ブラックな話です。眉を顰めて聞いてください。 被災地では、雇用がなくて困っているという。そこで中央の資本と国家の補助で企業のプラントを建設することにする。津波で図らずも更地ができているから、そこに大きなプラントを作る。 まずは建築業で雇用が創出される。そしてプラントが稼働したら、住民はそこで働くことになる。反対運動も起こるだろう。そこは金をばらまいて懐柔する。何しろ、プラントができれば出稼ぎしなくとも、家族とともに故郷に住むことができる。4人に1人くらいはプラントで雇われ、労働者を相手にした商売で潤う人も出てくる。プラントでは定期点検があり、数千人単位で季節労働者もはいってくるようになるので、地元はますます栄える。 反対派は反対運動を続けるだろう。住民もプラント建設を手放しで歓迎しているわけでもないので、反対派の運動を見ると、変わり者だと思いつつも「がんばれよ」などと声をかけてみたりする。しかし、もはやプラントなくして生活は成り立たないので、プラントを通して社会貢献している地域や自分に誇りを持つようになる。 本書は気鋭の社会学者の、「原子力ムラ」を通して、戦後日本の成長神話と地方の服従のメカニズムを明らかにしようという研究である。ここでいう「原子力ムラ」とは原発の立地する地域のことである。電力会社や行政の原子力部門をまとめた閉鎖的集団を原子力ムラとも称するが、本書で問題にするのは地方の在り方であり、それは戦前に遡る「ムラ」の在り方を継承しており、それは、3.11以降もなにも変わっていないと述べられる。 福島原発が中心にすえられるのは、著者自身が福島県出身ということもあろうが、もっとも早期の原発のひとつであること、また当該地域が、反対なく建設成功(第一原発)、反対あるも建設成功(第二原発)、反対のため建設断念(浪江小高原発)と三様の様態がみられているということがある。研究は2006年から進められ、2011年1月に修士論文として提出されており、3.11に乗ってやっつけ仕事で書かれた本ではない。 その「なにも変わっていない」という点について評者が敷衍してみたのが上述の「ブラックな話」である。中央から、あるいは「原子力ムラ」の外からみる限り、原発推進−反対というのは明確な対立軸だが、「原子力ムラ」の中からみると、そうではないということが重要な論点のひとつ。原発はいやいや「ムラ」に押しつけられたとはいえず、「ムラ」は原発をすすんで「抱擁」する。そして首都圏の電力生産を担うことに誇りすら覚える。 双葉町の元町長は当選以前は原発反対派だったが、町長に選出されてから推進派に「転向」したという事実が述べられる。彼にとっての軸は愛郷であり、愛郷のもとでは原発推進−反対は対立軸ではなかったのである。歴代の福島県知事は地方の自律を目指そうとする「反中央」の立場から原発を推進したが、佐藤栄佐久知事は同じ「反中央」の立場で東電と対決姿勢を取らざるを得なくなった。しかし、「原子力ムラ」は原子力によって雇用を得、繁栄を続けるにはさらに原発を建設するしかないaddictionに陥っている。栄佐久知事のプルサーマル凍結にムラはむしろ戸惑うのであった。 筆者は前近代的な要素を残しながら都会のように繁栄したいと望む「ムラ」の欲望と、成長を遂げつつ支配を徹底したい中央とのあいだに、県などの地方がメディエーターとして機能して原発が推進されたが、もはや地方の仲介は排除され、ムラが自動的・自発的に服従する支配の構図ができあがったと分析する。「補助金もらって潤っている」「原発を押しつけられて可哀想」といった推進派・反対派の言説は中央からみているという点で、同等だという。そうした硬直化した視点でみているかぎり、「希望に近づこうとすればするほど希望から遠ざかって行ってしまう隘路に、今そうである以上に、ますます填りこむことになるだろう」。 上の「ブラックな話」の「プラント」には何も原発ばかりが挿入されるわけではない。過去には炭鉱だったり、軍需工場だったりしたわけであり、被災地のこれからとも関わってくる問題と思われる。本書の「フクシマ」は放射能によって蹂躙された土地の代名詞ではない。「中央」によって蹂躙された「ムラ」の代名詞なのである。
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☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB06003432
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★地方の両義性と研究のタイミング★中央-地方-ムラの関係の移り変わりを原発を通じて描き出す。ムラのためをと思う「地方」という中間組織の変容の分析が秀逸。P304が核。 1)中央とムラの分離=明治以降。官選知事による中央のエージェントと、地方-ムラの自主的な権力構造の維持。 2)...
★地方の両義性と研究のタイミング★中央-地方-ムラの関係の移り変わりを原発を通じて描き出す。ムラのためをと思う「地方」という中間組織の変容の分析が秀逸。P304が核。 1)中央とムラの分離=明治以降。官選知事による中央のエージェントと、地方-ムラの自主的な権力構造の維持。 2)中央とムラの接合=戦時から戦後改革。中央の「総力戦」、地方-ムラの「民主化」という異なるベクトルのなかで、必ずしも強制ではなく時には自ら望みながら国家総動員が進む。地方は反中央であるがこそ、ムラの発展のために原発を呼び込む。「なんかすごいけど、よくわからない」原子力を進んで受け入れる。 3)中央とムラの再分離=90年代以降、地方という協力者・中間集団が消え、ムラは自動的かつ自発的に服従する存在に変わる。プルサーマル問題などで中央の言うがままになることを恐れる地方が反原子力に舵を切っても、ムラは原子力なしでは成り立たなくなっていた。 それにしても、この修士論文が書籍として世に出たのはまさにタイミングとしか言いようがない。それも上野千鶴子や吉見俊哉など知名度の高い学者の元にあったからだろう。論文としての問題意識の深さや完成度は、一般書籍としては震災がなければ関係ないだろうから。
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○社会学者の開沼博氏の著作。 ○原子力ムラが生まれる背景、地元での原子力についての考え方、政治と企業、中央と地方といった各主体それぞれの思惑などを、現場取材と各種文献を参考にしつつまとめたもの。 ○分量も多く、内容は高度であるが、中立的・客観的な立場から書かれており、「フクシマ」...
○社会学者の開沼博氏の著作。 ○原子力ムラが生まれる背景、地元での原子力についての考え方、政治と企業、中央と地方といった各主体それぞれの思惑などを、現場取材と各種文献を参考にしつつまとめたもの。 ○分量も多く、内容は高度であるが、中立的・客観的な立場から書かれており、「フクシマ」について考える上での貴重な資料となっている。 ○原発問題について、単純な推進・反対の二元論では意味をなさないということを、改めて認識した。
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※このレビューにはネタバレを含みます
いわき常磐炭鉱のことが書いてあって、ビックリした。 浜通りの歴史と共に、原子力ムラのことが出ていて いわき生まれの私としては、とても興味深く読めた。 開沼さんは1984年いわき市生まれ。若い。 対談相手にも同年代の方がチラホラいて、新鮮。 「非日常を煽ろうとする言葉は、与えられた条件の中で 淡々と日常を送ろうとする物には響かない」 →まさに、これ。震災後よく思うこと。 「津波の避難者と違って、原発の避難者はしばしば隠れる。 世間からも。差別や心ない言葉で、ますます隠れる」 →私も、よく隠れる。避難して来たことは、めったに口に出さない。
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130720 中央図書館 著者は、「原子力ムラ」を、学者・企業・関係官僚の集団としての意味ではなく、原子力発電(所)をメディアとして都市と田舎が支配と服従の関係となる、その田舎としての「ムラ」の意味で用いている。 晦渋ではなく、読みやすくて面白いが、著者自身の個人的経験が研究...
130720 中央図書館 著者は、「原子力ムラ」を、学者・企業・関係官僚の集団としての意味ではなく、原子力発電(所)をメディアとして都市と田舎が支配と服従の関係となる、その田舎としての「ムラ」の意味で用いている。 晦渋ではなく、読みやすくて面白いが、著者自身の個人的経験が研究の動機とアプリオリな構造の導入の起点となっており、中立的なアカデミックな論文ではないと感じた。
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この本の特筆すべき所は原発を受け入れる側の意思に焦点を当てている事だ。 とかく国が強引に押し付けた、という風に語られがちだが、立地自治体が積極的に誘致を図って来たという事実を明治維新以降の福島の通史から読み解いている。 その動機はもちろん金であり、より正確に言えば貧困からの脱却、...
この本の特筆すべき所は原発を受け入れる側の意思に焦点を当てている事だ。 とかく国が強引に押し付けた、という風に語られがちだが、立地自治体が積極的に誘致を図って来たという事実を明治維新以降の福島の通史から読み解いている。 その動機はもちろん金であり、より正確に言えば貧困からの脱却、郷土の発展のため。 こうした構図は原発に限らず、全国のダムだとか米軍基地だとかのいわゆる「迷惑施設」にも当てはまる事だと著者は主張する。 そして実際自治体レベルだけじゃなく、住民にも職が生まれ、県内でも所得の低かった浜通り地区は豊かになった。 だから原発立地自治体は原発を簡単には手放せない。 この事実を理解していないと先の選挙の結果を正当に評価できないし、デモをやるにしても外野が騒いでるだけになってしまう。 なのでこれを読んだ今、脱原発というある種の夢から覚めたような気分だ。 念の為付け加えておくが、本書は上記の事から原発は日本に無くてはならない物だ、とかそういう主張はしていないので、悪しからず。 夢から覚めただけで諦めてはいない。
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