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「フクシマ」論 の商品レビュー

4.2

37件のお客様レビュー

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2011/08/28

「フクシマになるな」と出身地のことをかくも語る著者の言葉は重い。 原発本のなかでも一等必読だと思われる。

Posted byブクログ

2011/08/16

二項対立を排した重層的な視座で「地方からみた都市と地方」を描いており、目を開かされた。使う言葉の一つ一つを丁寧に選んでいる姿勢にも好感。地域の歴史を、地域の視点から見つめた記録はとても大切だ。島根でも取り組みたい。

Posted byブクログ

2011/08/14

本書の中では、原発は社会構造を読み取るための一つの象徴あるいはツールでしかない。 クールでとても興味深い本だった。 今回のことがなければ読むこともなかっただろうけど。 それにしても、社会はよりによって原発を選んでしまったのだ。

Posted byブクログ

2011/08/03

中央と地方の問題。原発問題はエネルギーと経済というファクターだけではない、シビアな現実としての「植民地」としての地方の姿が描かれている。これからの日本が進む道を選択しなければならない今一読しておくべき著作。

Posted byブクログ

2011/08/01

これが修論のレベルかと思うと、脱帽する。3.11後にも残り続けるだろう「フクシマ」の実態を、もどかしさを抱きながらも冷静な分析を行っている。

Posted byブクログ

2011/07/06

「長幼の序」という言葉が、一気に流行語である。国と地方の関係には一定の秩序があり、地方は年長者のように国を敬わなければならないという関係性が、はからずも映像を通して明るみになったことによるものだ。 この件に限らず、今回の震災は、東北地方に被災地が多いこともあり、「中央と地方」と...

「長幼の序」という言葉が、一気に流行語である。国と地方の関係には一定の秩序があり、地方は年長者のように国を敬わなければならないという関係性が、はからずも映像を通して明るみになったことによるものだ。 この件に限らず、今回の震災は、東北地方に被災地が多いこともあり、「中央と地方」という点にフォーカスがあたりやすい。原発の問題についても同様だ。「上と下」、「主と従」というような関係性の中、はたしてどのように原発は形成されてきたのか?本書は福島県の原子力をテーマに、「中央と地方」の関係から考察した一冊である。 ◆本書の目次 第Ⅰ部 前提 序章  原子力ムラを考える前提 第一章 原子力ムラに接近する方法 第Ⅱ部 分析 第二章 原子力ムラの現在 第三章 原子力ムラの前史 第四章 原子力ムラの成立 第Ⅲ部 考察 第五章 戦後成長はいかに達成されたのか 第六章 戦後成長が必要としたもの 終章  結論 補章  福島からフクシマへ 本書の著者は、一言で言えば”持っている”。福島県いわき市で生まれ育ち、2006年から福島原発の研究を始め、まだ大学院生だ。結果的に本書は、おそらく3.11以前の福島原発に書かれた最後の学術論文によるものであるだろう。震災後に書き始めたのでは間に合うことのない圧倒的な取材量が、絶対的なリアリティを生み出している。そして、「中央と地方」という視点で本書を書き終えた直後に、今回の復興相によるオフレコ発言である。これを”持っている”と言わずして、何と言うべきか。 一般的には、「中央と地方」という二項対立で片づけられやすい問題である。つまり、中央の事情により、地方が屈服し原発を立てざるを得なかったという構図に落とし込むことが、最もたやすい。しかし、そこに「原子力ムラ」という概念を設定し、中央、地方、原子力ムラの三者間の関係性で分析しているところが、本書のユニークな点である。一口に地方とはいえ、決して一枚岩ではないということだ。 本書で明らかにされている地方の服従の様相は、非常に複雑なものである。それは、ムラもまた、原子力を欲していたという事実なのだ。背景にあるのは、成長の中で露呈してくる農業という産業の衰退、深まる出稼ぎ、若者の流出と過疎、高齢化、そしてムラの文化の崩壊。そのような状況の中、いつの日か原発への推進/反対というコードは、愛郷/非愛郷いうコードへ転換する。愛郷を貫くための物や金という物理的条件の前には、原発への賛否は大きな意味を持たなくなってしまうのである。 このような社会的なテーマへ考察する際のアプローチには、マクロアプローチ、メゾアプローチ、ミクロアプローチといくつかあるそうなのだが、本書の場合は、ミクロアプローチだ。著者は、フィールドワークや地域調査に基づく「虫の目」で、徹底的に地方に密着している。それでいて決して地方と同化することのない、芯の強さを持っているのが印象的だ。 また、もう一点興味深いのが、メディアとしての原子力という視点である。国とムラの双方が互いに原子力を通じて共鳴していたもの、それはともに原子力に大きな夢を見ていたということである。国の夢は世界有数の原子力技術の確立、自国内での資源確保、ムラの夢は子や孫のための愛郷の実現。つまり、原子力は、国とムラの双方にとって、近代の先端を描きだすコミュニケーションのメディアとして機能してきたということなのだ。 国とムラとの幻想は消え、もはや勝者はいない。そして、この問題はフクシマに限らないのだ。八ッ場ダム、沖縄、六ヶ所村や巻町の問題・・・  我々が見つめなければならないのは、新たな幻想ではない。リアリティなのだ。

Posted byブクログ

2011/06/25

本書は、3:11以前のフクシマをフィールド調査した新進の社会学者のフクシマ論(修論)である。本書は今世間で言われる、悪名高き原子力ムラは<>でくくり、本当の意味での原子力にかかわってきた村を「原子力ムラ」と呼んで区別する。筆者の観点はこの「原子力ムラ」が戦後如何にして形成されてき...

本書は、3:11以前のフクシマをフィールド調査した新進の社会学者のフクシマ論(修論)である。本書は今世間で言われる、悪名高き原子力ムラは<>でくくり、本当の意味での原子力にかかわってきた村を「原子力ムラ」と呼んで区別する。筆者の観点はこの「原子力ムラ」が戦後如何にして形成されてきたかを中央と地方の視点からとらえようとしたもので、元の福島県知事佐藤栄作久氏をはじめ原子力ムラの人々の声をフィールド調査で浮き彫りにしようとする。社会学者は現状の声を反映しようとするものかもしれないが、筆者の以下の態度に、ぼくはちょっといらだちを感じる。つまり、筆者は、今<原子力ムラ>の不合理や不条理を暴露したり、放射線や自然エネルギーに関する知識・情報を収集しては周りに披露しようとする者、また、そこかしこに救国のヒーローをでっち上げて感傷にひたろうとする者、あるいは地元住民を哀れんだり、自業自得だとうそぶくものたちに冷たい視線を向ける点である。これではまるで、脱原発をまるで集団ヒステリーだというのと変わらないではないか。もちろん、筆者が、原子力ムラの人たちがなにを考えているかに耳を傾けろというのは正しい。しかし、それはかれらの立場をそのまま支持することにはならない。おそらく、3:11が起こらなければ、本書は一定の価値をもっただろう。しかし、3:11が起きた以上、筆者の言うように本書が「3:11を経ても意義を失うことがない議論がそこにある」と言えるかどうかはあやしい。3:11が起きても原子力ムラの人たちは、それでも原発は必要だというだろうか。恐ろしいけれど、いっしょにやっていきたいと言うだろうか。すでに故郷を追われた人たちにもう一度聞いてもらいたい。

Posted byブクログ