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おせっかい教育論 の商品レビュー

3.9

33件のお客様レビュー

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2023/09/02

内田本を読んだことのない方、教養の深い人たちのライトタッチな深い話を聞きたい方にオススメ。 新進気鋭の若手の論客ではなく、けっこうな立場のあるオジサンたち(ご本人はオバさんだと自認してらっしゃる)が、こんなに自由な発想で楽しく教育を論じられる土地なら、悪くないじゃん、大阪。と思え...

内田本を読んだことのない方、教養の深い人たちのライトタッチな深い話を聞きたい方にオススメ。 新進気鋭の若手の論客ではなく、けっこうな立場のあるオジサンたち(ご本人はオバさんだと自認してらっしゃる)が、こんなに自由な発想で楽しく教育を論じられる土地なら、悪くないじゃん、大阪。と思える本。 ただし、現実にはこの後、平松さんは市長の職を追われ、橋下徹色の強い市政の元、教員の離職が進み、教員を目指す若者が減ることになる。この本に見られるような、オープンエンドで知性の活性化する議論を捨て、経済の論理一本の「筋の通った」論理を採択したことの「成果」だろう。残念でならない。

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2014/07/10

個人の目標と社会への貢献の合一 多様な評価軸の認識 「恫喝ではなく敬意を,査定ではなく支援を」 教育の危機に対しては教師のパフォーマンスを向上させる→自分の仕事に誇りを持ち,機嫌良く仕事をしているときに,仕事の質はもっとも高くなる。怒っている人間や怯えている人間や恐怖にすくんでい...

個人の目標と社会への貢献の合一 多様な評価軸の認識 「恫喝ではなく敬意を,査定ではなく支援を」 教育の危機に対しては教師のパフォーマンスを向上させる→自分の仕事に誇りを持ち,機嫌良く仕事をしているときに,仕事の質はもっとも高くなる。怒っている人間や怯えている人間や恐怖にすくんでいる人間が質の高い仕事をすると言うことは,ふつうない。まして,手詰まりの状況を切り拓く起死回生の知恵を思いつくというようなことは絶対にない。

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2013/11/09

阪大総長の鷲田氏・内田樹氏・釈徹宗氏・元大阪市長の平松氏の 対談本。チーム内田的な人々の集まり。(帯に中沢新一氏の『僕も仲間にいれてくれたらよかったのに』というコメントが面白かった) 教育について同意することが多いと思います。 大阪論・教育論・橋下氏の教育論に対しての警告もちょっ...

阪大総長の鷲田氏・内田樹氏・釈徹宗氏・元大阪市長の平松氏の 対談本。チーム内田的な人々の集まり。(帯に中沢新一氏の『僕も仲間にいれてくれたらよかったのに』というコメントが面白かった) 教育について同意することが多いと思います。 大阪論・教育論・橋下氏の教育論に対しての警告もちょっとあり。

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2013/08/22

豪華メンバーによる、教育談義。 やはりこのひとたちの話がいちばん共感できる。人間観が、深い。 家庭教師を去年から始めたこともあってか、「基本的な生活習慣ができていない子の成績を上げることは難しい」というところに、すごく、複雑な気持ちで共感できてしまった。 子どもを大らかに、無条件...

豪華メンバーによる、教育談義。 やはりこのひとたちの話がいちばん共感できる。人間観が、深い。 家庭教師を去年から始めたこともあってか、「基本的な生活習慣ができていない子の成績を上げることは難しい」というところに、すごく、複雑な気持ちで共感できてしまった。 子どもを大らかに、無条件に包み込むことはできへんのかなあ…。

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2013/07/01

教育とはおせっかいであり、場が作れれば、教師が何を教えたか、なんて細かいことを教師自体が覚えていなくても、生徒は学んでいく。文科省はシラバス主義で、シラバスをきちんと書かないでいたら助成金を削られた、なんていう話がある。なんたることか。おせっかいと勘違いの線引はむずかしいというか...

教育とはおせっかいであり、場が作れれば、教師が何を教えたか、なんて細かいことを教師自体が覚えていなくても、生徒は学んでいく。文科省はシラバス主義で、シラバスをきちんと書かないでいたら助成金を削られた、なんていう話がある。なんたることか。おせっかいと勘違いの線引はむずかしいというか、多分できないだろうけど、それをワイワイガヤガヤやりゃあいいんじゃないの、と。確かにシラバス主義ではそれはできまい。共著の平松氏が大阪市長であるころの話で、その後の大阪市の教育へのおかしなコミットはまだないころの話。大阪は本来、非イデオロギー都市だったので、町で学問がそだった、という。東京にいると、そういうこともわかんなくなるのだ、とか。

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2013/06/22

大学受験が終わり、予備校の先生に勧められ読んだ。読みやすくアイデアも面白い。教育に興味がない人もおすすめ。

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2013/09/22
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

こんな教育の危機に対処できるのは教壇に立っている人間だけだ。 「教師のパフォーマンス向上」が急務。 しかし、教育行政は現場の教員を査定し格付けすることで 「恐怖し、萎縮し、怯える」人間を作ることに努力を傾注してきた。 その結果、イエスマンタイプの教員と勤務考査に嫌気がさしたふて腐れタイプの教員が増えた。 「人間は処罰の恐怖にさらされたときにパフォーマンスが高まる」という 偏った人間観によってこれは行われている。 現場の人間としてできること。 ふて腐れず(って、よくため息ついてます) 何でもかんでもヘイヘイ上に従わず(これはトップクラスに実現できてます!) 敬意・支援を同僚に送ることで、全ての教員が誇りと自信を持ち、笑顔で仕事ができるようにね。

Posted byブクログ

2012/12/16

 鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫(当時は大阪市長)4名による2回の座談会の記録。教育について自由闊達なおしゃべりが記録されていて面白い。  内田氏は、「教育を語る時に僕たちは、ひとりひとりが実はすごい<教えたがり屋>なんだということを忘れているんじゃないか」と言っている。だか...

 鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫(当時は大阪市長)4名による2回の座談会の記録。教育について自由闊達なおしゃべりが記録されていて面白い。  内田氏は、「教育を語る時に僕たちは、ひとりひとりが実はすごい<教えたがり屋>なんだということを忘れているんじゃないか」と言っている。だから、教えられる姿勢(=学ぶ姿勢)を持ちさえすれば、我々は誰からも学ぶことができるはずだ。「我以外は、すべて師」と誰かが言っていたような・・・。  鷲田氏は「出会いをきっかけに<もっと見晴らしのよい場所に出る>ということが、<学び>の意味だ。<学び>は他者をとおして起こるものであり、あのときはわからなかったが今だったらわかるというふうに、長い時間の中でじっくり醸成されてゆくものなのだ」と記している。教育は商品提供とはわけが違うということは肝に銘じておきたい。  あとがきで内田氏は、当時まだ大阪市長の職にあった平松氏に対して、「地方自治体の首長は教育行政にできるだけ介入しないでいただきたい」と述べ、「教育現場に今必要なのは、<敬意>であって<恫喝>ではない。<支援>であって<査定>ではない。<フリーハンド>であって<管理>ではない」と具体的な提言をしている。  しかし、その後、大阪市民が市長に橋本徹氏を選び、教育現場に<恫喝>と<査定>と<管理>が持ち込まれてしまったという現実を知っているだけに、暗澹たる気分になってしまう。この座談会の1回目は、2009年12月、大阪市民500人の前での<公開トーク>だったというが、それが今では、<後悔トーク>になってしまうとは・・・。

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2012/08/09

主題とはちょっと離れたところですが、もっとも印象深かったのはこのような内容でした。 「学力」とは成績や点数ではなくて「学ぶ力」のことである。 それは「消化力」や「睡眠力」とかと同じで、生きるための基本的な力。ご飯をちゃんと食べられて、どこでもぐっすり眠れる力というのは人間が生き...

主題とはちょっと離れたところですが、もっとも印象深かったのはこのような内容でした。 「学力」とは成績や点数ではなくて「学ぶ力」のことである。 それは「消化力」や「睡眠力」とかと同じで、生きるための基本的な力。ご飯をちゃんと食べられて、どこでもぐっすり眠れる力というのは人間が生きてゆく上で必須の能力である。しかし、それを他人と比較して格付けする人はいない。 それを使って「何をするか」が問題なのであって、その力自体は考量したり数値化するものではない。 教師として生徒に何を教えられるか、もっと深く考えないといけない。

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2012/05/08

(以下引用) 内田:学校教育が今歪んでしまったのは、教育活動を行うのは共同体の利益のためでなく、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだという勘違いが広まったからだと思います、個人が学校に通って、しかじかの知識を得たり、技術を身につけたり、資格を取ったりして、それで高い年収...

(以下引用) 内田:学校教育が今歪んでしまったのは、教育活動を行うのは共同体の利益のためでなく、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだという勘違いが広まったからだと思います、個人が学校に通って、しかじかの知識を得たり、技術を身につけたり、資格を取ったりして、それで高い年収を得たり、社会的地位や権威を獲得したり、そういう事故利益を達成するために人は教育を受けるのだという思想が広まってしまった。(中略)学校教育を授けることによって、最大の利益を受けるのは共同体そのものなんです。共同体を支える公民的な意識を持った人間、公共の福利と私的利益の追求のバランスを考えて、必ずしも私的利益の追求を優先しないようなタイプの大人を、社会のフルメンバーとして作っていくということは、共同体の存続にとって死活的に重要なわけです。(P.27) 内田:「21世紀の懐徳堂プロジェクト」をやるとしたら、どんなことがあっても絶対そこに経済的合理性を入れちゃいけない。教える側の「持ち出し」でやる。やりたいからやるんだよ、と。長い目で見れば、結果的にはわれわれ社会全体が利益を受けるわけだから、「まず先に俺が金を出すよ」と言うべきなんです。ニーズがどうたらとかマーケットがどうたらというようなことばかり言ってたら日本の教育は今こんなふうになっちゃったわけです。やっぱり教育する側の正しい姿勢というのは「時間も金も俺の持ち出しをするから、いいから黙って俺の話を聞け」というものではないかと(笑)。(P.29) 内田:どんな共同体でも、どんなきちんとした集団でも、そこからこぼれ落ちていく人たちが必ず発生する。でもその「落ちこぼれていく子たち」のうちから次代を担う「イノベーター」が生まれてくる。これは必ずそうなんです。どんなによくできた共同体でも、いつかどこかで制度疲労を起こして壊れてゆく。だから、その壊れていきそうなものにいちはやく気づいて、そこを補正して制度を再構築できる人が絶対必要なんです。でも、そういう仕事をする人間は既存の制度の中の「秀才」からは出てこない。絶対出てこない。イノベーターは常に「落ちこぼれ」の中から出現する。ですから、制度の中長期的な安全保障を配慮したら「落ちこぼれたち」を切り捨てなきゃいけない。彼らを支え、彼らが自尊感情を持て、生き延びてゆける場所を提供することが必要なんです。(P.37) 鷲田:内田樹さんがどこかで書いておられたと記憶するが、実在の、あるいは書物のなかとのひととの出会いをきっかけに、それまでより「もっと見晴らしのよい場所」に出るということが「まなび」の意味だと、わたしは思う。 内田:先生という存在にはいろんな意味があって、教育するというのもあるけれど、乗り越える対象でもあるわけじゃないですか。だからある程度乗り越えやすいハードルとして自分を提示していくというのも大事な仕事だと思うんですよ。乗り越えやすいようにはしごを架けておいてあげる、という。(P.143) 内田:「土壌を耕す」というのは実は日本の中学生や高校生相手に「フランス文学は面白いよ。ぜひおやりよ」ということを忍耐強く知らしめるということなんですよ。自分の自己利益を優先させて、その作業を怠っていれば、自分の仕事そのものがなくなる。(P.170) 鷲田:教育とか学術とか芸術とか、そんなクリエイティブな仕事には、達成度評価というのはなじみません。だって達成度は計画に対して測られるもの。けれども創造的な仕事とは、想像だにしていなかったものが生まれることだからです。(P.186)

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