滝山コミューン一九七四 の商品レビュー
1974 年私は高校生で、滝山団地のある東久留米の隣の小平市に住んでいた。クラスメートに滝山団地の住民もいた。コミューン教育の存在は知らなかったが、世の中の権力に対抗する姿勢(ストライキなど)は確かに今とはかなり違っていた。 多摩地区では革新勢力は強く、一方で受験戦争も激化して...
1974 年私は高校生で、滝山団地のある東久留米の隣の小平市に住んでいた。クラスメートに滝山団地の住民もいた。コミューン教育の存在は知らなかったが、世の中の権力に対抗する姿勢(ストライキなど)は確かに今とはかなり違っていた。 多摩地区では革新勢力は強く、一方で受験戦争も激化していた。ここに書かれている西武線沿線の雰囲気も(今も変わらない所も多いが)そのとおりだと思えて、一気に読んでしまった。 そしていま(2024年10月)NHKでは団地をテーマにしたドラマをBSでやっている。50代が「若手」扱いされる団地。ロケ地は滝山団地らしい。
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大人の日記。他人の小学校時代の班の活動をフルネームで語られているような印象。記録としては意義深いのかもしれないが、小説を期待してはいけなかった。
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筆者個人の体験に根ざした半自伝的な一冊。 1970年代、都内の小学校で試みられた「自由で民主的」な教育。 それは個人の自由よりも集団行動を優先させた極端な民主化の姿でもあった。 集団行動に馴染まない筆者を追い詰めていく場の空気感が怖しい。 原センセよりは少しあとの世代です...
筆者個人の体験に根ざした半自伝的な一冊。 1970年代、都内の小学校で試みられた「自由で民主的」な教育。 それは個人の自由よりも集団行動を優先させた極端な民主化の姿でもあった。 集団行動に馴染まない筆者を追い詰めていく場の空気感が怖しい。 原センセよりは少しあとの世代ですが、やはり同じような雰囲気が、当時の公立小中学校にはあって、異常なまでに児童、生徒による「自治」が推奨されてたんですよ。生徒総会とか、生徒会選挙の熱狂が凄かった。 ただそれも、一部の先生方による強いられた「自治」だったのだなと、いまとなっては思う。 係を選ぶときに立候補させ「ダメな方」を落選させる消去法選挙。ベルが鳴ったら席に着く「ベル席」の仕組み(座ってないと減点)。非協力的な児童を責め立てて「自己批判」させる謎の空気。 当時はなんだかよくわからなかった「熱狂」の、思想的背景を知る意味で、ものすごく腑に落ちた一冊でした。 集団行動に馴染めなくて疎外されていく、原センセなのですが、鉄道趣味や、中学受験による塾通いで「外の世界」を持っていることが救いとなっていく。 学校や家庭以外に、第三の場所があることの大切さも教えてくれる一冊でした。
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東久留米市の団地、小学校を舞台に展開された 組織運営の中で生活を送った著者による ドキュメント。 とても興味深い内容だが、ちょっと読み辛かった。 一部ではあれ、こんな事があったとは全然知らなかった。
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【由来】 ・図書館の新書アラートで、この著者の最新刊。「知の訓練」がイマイチだったので、どうかな〜と思ってamazonで検索したところ、ちょっと面白そうかなと。 【期待したもの】 ・この著者の見極め第一弾。 【要約】 ・ 【ノート】 ・ 【目次】
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p.23 最後 滝山コミューンの定義 p.179 最後 筆者の違和感 どこまでが事実で、どこからが自分の意見なのかということを明確に分けて書いているため、わかりやすい 民主主義という名のもと、教師主体の権威主義が横行していた1974年の滝山団地を切り取り、筆者の問題意識を検証...
p.23 最後 滝山コミューンの定義 p.179 最後 筆者の違和感 どこまでが事実で、どこからが自分の意見なのかということを明確に分けて書いているため、わかりやすい 民主主義という名のもと、教師主体の権威主義が横行していた1974年の滝山団地を切り取り、筆者の問題意識を検証する形で進むノンフィクション。圧倒的な資料をもとに一つ一つ丁寧にその時代を形作っていくプロセスは、研究として素晴らしいと言わざるを得ない。また、過去の事実の中でも特に自己の関心がある部分に焦点を当て、議論を進めることに客観性の欠如があることは認めながらも、まさに当時を生きた自分こそ社会であるとしたスタンスにも共感する。 自分が小学生の頃、このような民主主義という名のもと権威主義は横行していなかったか、もしそうだとしたら自分はそれに違和感を感じていたのか、改めて問いたくなる著書であった。 また、改めて教育とは、生徒と教師だけでない、多くの人々の影響、時代背景を現実へ映すものであると実感した。
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個人的にも暴力機構に関しては敬してこれを遠ざけたいが、「ひのきみwて馬鹿だし」 とか言ひかねない先生方が、ナチス・ドイツもやったやうな暴力機構補完の儀礼を行ふといふ、すごいものが展開してゐた学校での地獄の生活を振り返る。 かの鬼のパンツ販売促進歌、も暴力機構補完のために使はれ...
個人的にも暴力機構に関しては敬してこれを遠ざけたいが、「ひのきみwて馬鹿だし」 とか言ひかねない先生方が、ナチス・ドイツもやったやうな暴力機構補完の儀礼を行ふといふ、すごいものが展開してゐた学校での地獄の生活を振り返る。 かの鬼のパンツ販売促進歌、も暴力機構補完のために使はれた、と言ふのは、なんつうか。 最近遠山啓先生の本が本屋さんで売ってたようわぁといふか、当時の教育界で問題があるつうたら遠山先生くらゐなんだよなぁと言ふか。
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どうして日本人は保守もリベラルもいつのまにか権威主義、異質なものの排除という方向に向かいやすいのか… 戦後史における政治の時代と団地文化を関係付けた論考はとても面白かった。 その一方で筆者も自分で書いてはいるが、「学者が自らの体験をもって語った」という構造上、そこには小さくない...
どうして日本人は保守もリベラルもいつのまにか権威主義、異質なものの排除という方向に向かいやすいのか… 戦後史における政治の時代と団地文化を関係付けた論考はとても面白かった。 その一方で筆者も自分で書いてはいるが、「学者が自らの体験をもって語った」という構造上、そこには小さくない歪み、思い込みが織り込まれている。言ってしまえば、「あなたの小学生の記憶、それも学校やクラスメイトに少なくない疎外感、反発を抱いていた状態での主観的な記憶がどれだけ真実性を含むか」という批判である。その点からも、筆者の記憶や日記だけでなく、級友や保護者たちの証言ももう少し欲しいところだった。
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私は著者よりもいくつか年下になるのだが、1970年代が小学生時代 だったのは一緒だ。クラスに班分けもあったし、卒業式では卒業生に よる「呼びかけ」もあった。しかし、著者が経験したような集団主義 教育ではなかったと思う。 それは居住環境の違いなのかもしれない。住宅不足解消...
私は著者よりもいくつか年下になるのだが、1970年代が小学生時代 だったのは一緒だ。クラスに班分けもあったし、卒業式では卒業生に よる「呼びかけ」もあった。しかし、著者が経験したような集団主義 教育ではなかったと思う。 それは居住環境の違いなのかもしれない。住宅不足解消の為にと 東京郊外に作られた団地住民の子供が多い小学校と、東京への通勤 圏として発展しながら、昔ながらの地主さんなどもいたベッドタウンの 小学校。確かに地元にはいわゆるマンモス団地はあったが、学区が 違った。 ひとりの若い教師が担任したクラスで始まったのが、日教組の教師が 多く所属する全国生活指導研究協議会が提唱した集団教育主義で ある。 そこでは個人は否定され、なによりも班だとか、クラスだとかの集団での 成果の引き上げが大きな目標となる。ソ連式集団教育を日本に根付か せようとした試みだ。 確かに学校生活は集団生活である。だが、ある集団を競わせることは 当事者には相当なストレスをかけるものではないのか。事実、後年の 著者のインタビューに問題のクラスに所属した女性は小学生であり ながら、体に変調をきたしていたと告白している。 政治的には保革伯仲の時代だった。だからこそ、ソ連式の集団教育の 実践も可能だったのだろうし、団地という画一化された空間に住んでいた 子供たちが多かったからこそ、受け入れられたのかもしれない。 児童の自主性を尊重するのも結構だが、林間学校も運動会も児童の 代表が組織する実行委員会が取り仕切るってのは、民主的でもなんで もないんじゃないかと思ってしまったわ。 そして一番怖いと思ったのが、小学生にして他の児童から著者が自己 批判を求められたこと。読みながら「連合赤軍小学生版かよ」と呟いて しまった。 息が詰まると思う。なんでも競争、なんでも連帯責任、なんでも減点制。 挙句、減点が多いと「ボロ班」とか「ビリ班」と呼ばれるなんて。そりゃ、 嫌だから懸命になるわなぁ。今考えれば集団によるいじめにしか思え ないけれど。 この集団教育だけではない。子供は教育方法に振り回され続けている のじゃないかな。詰め込み教育がいけないと言われ、ゆとりをもった カリキュラムになったら「これだからゆとりは」なんて言われちゃう。 どの世代も、その時々の教育を受けた子供に罪はないと思うのだ けれどね。
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東京都東久留米市に存在する滝山団地。高度経済成長のさなかの典型的なベッドタウンとして開発された郊外団地の一つであるこの地において、1974年にある教育改革が行われようとしていた。 社会学者の原武史が自らが体験したその教育改革を「滝山コミューン」と名付け、いったいそこで何が行われ...
東京都東久留米市に存在する滝山団地。高度経済成長のさなかの典型的なベッドタウンとして開発された郊外団地の一つであるこの地において、1974年にある教育改革が行われようとしていた。 社会学者の原武史が自らが体験したその教育改革を「滝山コミューン」と名付け、いったいそこで何が行われようとしていたのかを自伝的に語るドキュメンタリー。 大きくこの改革は既存の算数についていけない小学生を対象とする「水道方式」という指導法と、自由で民主的なクラス作りを目的とする「学級集団づくり」という2つで構成される。一見まともなように見えるこの方式が、小学校という極めて閉鎖的な集団の中で変質していき、次第に生徒を追い詰めていく様子が克明に描かれる。この変質は程度の違いこそあれ、中国共産党による「文化大革命」を部分的に想起させるようなグロテスクさを有し、そのグロテスクさを甘美なものとして指導する一部の教師には吐き気すら覚える。 この本が面白いのは、「政治の季節」と呼ばれた1960年代の社会主義的ムーブメントが一見終わったかのように見える1970年代においても、都会から距離のある郊外においては、ごく一部まだ生き残っていたという事実を描きだす点である。その点で、別の観点からの日本戦後史を描きだすことに本書は成功している。
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