街場の教育論 の商品レビュー
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子供に本当に教えたいことはなんだろうか。今、自分に足りないものを教えてあげたいと思う。でも、それだけじゃ全然ダメで、自分に足りないかどうかもわからないようなこと(まったく知らないこと)も教えてあげたい。そのためには、そういうことを手に入れることができる場所を教えてあげなくちゃならない。自分と25年、29年違う世界を生きる彼らに教えてあげられることはなんだろう。向き合っていかなければならない。。 「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というものの一番重要な機能。 「どうしていいかわからないとき」に適切にふるまうことができるかどうか、それがその人の本源的な力がいちばんはっきり現れる瞬間。 学ぶものに「ブレークスルー」をもたらすのがメンターの役割。「ブレークスルー」というのは、教育的な意味においては、「自分の限界を超えること」。ただし、「改善前」に頭の中で考想しうるようなものは「限界」とは言わない。
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教育は工場のような品質管理システムになじまない長期的な営みである。 多くの学生が大学に行く理由として社会への入り口となる就職のためと答えるだろう。就職のために専門性を高めるとともに社会人として(日本社会,国際社会の構成員)の付加価値を見つけ身につける必要性を論じる。分からない対象...
教育は工場のような品質管理システムになじまない長期的な営みである。 多くの学生が大学に行く理由として社会への入り口となる就職のためと答えるだろう。就職のために専門性を高めるとともに社会人として(日本社会,国際社会の構成員)の付加価値を見つけ身につける必要性を論じる。分からない対象との対話(やりとり)は教育に必要な要素のようだ。世の中,分かっていることは少ない。その世の中を渡っていく基本姿勢を身につける社会装置が教育制度なんだろうな。 要再読。
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内田先生の本は最近とっても人気があるようで、少し大きな書店ならたくさん平積みにされている。私は熱心な読者ではないのだけれど、この本は新聞広告でタイトルを見てすぐ購入しようと思った。帯には「間違いなく今年、一番面白かった本です。」とある。「全国の先生方必読です。」ともある。しかし、...
内田先生の本は最近とっても人気があるようで、少し大きな書店ならたくさん平積みにされている。私は熱心な読者ではないのだけれど、この本は新聞広告でタイトルを見てすぐ購入しようと思った。帯には「間違いなく今年、一番面白かった本です。」とある。「全国の先生方必読です。」ともある。しかし、残念ながら私には、それほど面白いとは思えなかったし、先生たちにもぜひ読んでほしいとは思えなかった。本書を読んで先生たちが元気になれるとはとても思えない。それでも、内容はずしりと重いのです。その重さを抱えて、日々の仕事に取り組まなければいけない。教育にあたらなければいけない。じっくりと時間をかけて考えなければならない問題が山積しています。教育問題には一朝一夕に解決できるようなものはないのです。「家族の解体」から「バブルの崩壊」へ至る話とか、「相互模倣を忌避する仕方を相互模倣している」とか、村上春樹に登場する羊男とメンターの話とか。その中で、私が今まで漠然と考えてきたことが、見事に文章で言い表されている個所に出合いました。宗教性について書かれたくだり。「自分を無限に拡がる時間と空間の中のわずか一点に過ぎないという、自分自身の「小ささ」の自覚、そして、それにもかかわらず宇宙開闢以来営々と続いてきたある連鎖の中の一つの環として自分がここにいるという「宿命性」の自覚。」読み方が浅いかもしれませんが、少し考えただけでも、自分の前には父母と、父の父母、母の父母、さらにそれぞれの父母という具合に次々に鼠算的に拡がっていく祖先がいます。逆に自分の後には、2人の子どものそれぞれの子ども、またその子どもと拡がっていく子孫たちがいる。自分は宇宙の中のほんのちっぽけな存在に過ぎないのだけれど、同時にたくさんの人々を過去から未来へつなぐ架け橋にもなっている。その偶然性と必然性。なんとも不思議な感じがするのです。この一文を読んだだけでも本書を読んだ値打ちはありました。
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後半の、キャリア教育、国語教育、宗教教育以外は、「メンターを見つけろ」という話でした。 「どういう教育制度を作ればいいか」「教員に、どういう教育を行わせればいいか」ということでなく、 「どうやって、現場の先生達を励ますか」を論じています。
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[ 内容 ] 「他者とコラボレーションする能力」の涵養こそ喫緊の課題。 学校、教師、親、仕事、宗教…あらゆる教育のとらえ方がまるで変わる、驚愕・感動の11講義。 [ 目次 ] 第1講 教育論の落とし穴 第2講 教育はビジネスではない 第3講 キャンパスとメンター 第4章 「学位工場」とアクレディテーション 第5講 コミュニケーションの教育 第6講 葛藤させる人 第7講 踊れ、踊り続けよ 第8講 「いじめ」の構造 第9講 反キャリア教育論 第10講 国語教育はどうあるべきか 第11講 宗教教育は可能か [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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新聞の書評で「おもしろい」と紹介されていたので読んでみたが、これは「おもしろい」ではなく「すばらしい」ものである。 職業柄、本はたくさん読むが、今までに出会った本の中でもしかしたら一番かも知れない。(読んだものをすべて記憶している訳ではないので確信は持てないが) 星は5つまで...
新聞の書評で「おもしろい」と紹介されていたので読んでみたが、これは「おもしろい」ではなく「すばらしい」ものである。 職業柄、本はたくさん読むが、今までに出会った本の中でもしかしたら一番かも知れない。(読んだものをすべて記憶している訳ではないので確信は持てないが) 星は5つまでしかないが、10個はつけたい。 内田先生は「学校の先生たちが元気になるような本」として書いたそうである。ここで言う先生はおそらく小中高教員を想定していると思われるので、厳密には私は対象に当たらないとは思うが、間違い無く元気はもらえた。 そして、これからも教育を自分の仕事として続けようという思いを新たにした。 大学教員には真の教育者が居ない(少なくとも今まで出会ったことがない)と思っていたが、それが間違いだと分かった。 内田先生の授業を受けられる神戸女学院の学生たちは幸せだと思う。
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とても人気のあるシリーズのようで驚いたが、確かにおもしろい指摘が説得力のある形で語られている。 個人的には、4点印象に残った。 一点目は、競争は学力を上げるのではなく、周りを下げて、自分を一人を浮き立たせることに力を注ぐことに繋がるという指摘や、その個人競争に浸り、慣れきった学生が、それとは根本的に異なる仕組みの採用試験や仕事に直面して、適応できなくなっているということである。 自分も確かに学年での順位というものに動かされた。しかし、どう動くかまでは、コントロールできない。著者のいう動き方だけではないと思うが、自分の肯定感を高める方法は教員側の狙うものとは異なる可能性はいくらでもある。競争さえすれば、「学力」は上がるという素朴な論調に、一矢報いることのできる指摘だと感じた。 二点目は、教育は商品を速く、安く提供して消費してもらうビジネスモデルには当てはまらず、オンライン大学という通販形式の大学はうまく行かないという指摘だ。 著者は、耐えざる変化が求められる商品の消費行動とは異なり、自分が受けたものが同じまま残ることを求めるという点で教育は大きく異なると言う。 始めはピンと来なかったが、参加した自分の職場の中高大の一貫教育を受けた卒業生の話を聞く会に参加したところ、その一人がやはり、教員が変わって行く中で、どうやってーらしさを保てるのか考えてほしいという問題提起をしていた。ずばり、著者の指摘通りの事例に出会って考えると、自分が高校の同窓会に行って母校の話しを聞くとうれしいのは、同じことなのかもしれないと思った。 3点目に、教師をそうたらしめているのは、その人の知識でも話しの内容でもなく、教壇を挟んで対峙している立場だという指摘を挙げたい。 確かに、こんな話聞きたくもないと感ずるものでも、教室なら授業、礼拝なら説教になるだろう。逆に、素晴らしい話しでも飲み屋ですれば、飲んだくれがくだをまいていると思われる。私は状況に重きを置いて理解している。 最後に、人間は生者と遺体の間に死者を見出し、聞けない声を聴こうとする努力こそに、「礼」の意義があるという指摘は胸を打った。 当然、死者の声をわかったふりをして、とうとうとかたることは礼を失していること、また、靖国参拝に対する怒りが、それらの国の死者が冒涜されたと感ずる遺族のものとつながっているという指摘は、アメリカの博物館に展示されるエノラゲイに対して感ずる日本人の違和感をアメリカの人は理解できないことにも重なる。 上記に挙げた著者の論点は、全て思考の産物であり、普遍性のあるものとは思えないが、自分が取ることはできなかった視点であり、興味深かった。
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第4講「学位工場」とアクレディテーション、アクレディテーションつまり評価においては、まともなものを選び出すことは、まともでないものを示すよりもずっと難しい。これによって評価活動がエンドレスになっちゃってるんだよ。と書かれている。かつ、それをいいものだと思って自分の大学に導入する旗...
第4講「学位工場」とアクレディテーション、アクレディテーションつまり評価においては、まともなものを選び出すことは、まともでないものを示すよりもずっと難しい。これによって評価活動がエンドレスになっちゃってるんだよ。と書かれている。かつ、それをいいものだと思って自分の大学に導入する旗振りをしたことの非をセンセイは認めておられる。 ここ数年業務の評価作業を繰り返しているわたしは深く深く共感するものである。 教育について授業で話された内容だが、私にとっては所属の組織についての教えを得た感がある。
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講義録をもとにしているということと、2007年の教育改革に言及しつつ本論に入っていくので、少し蛇足がある。斜め読みしたけれど、部分的に参考になるところがいくつかあった。 例。 「使える専門家」というのは、誤解している人が多いように思いますけれど、自分が何をできるのかを言い立てる...
講義録をもとにしているということと、2007年の教育改革に言及しつつ本論に入っていくので、少し蛇足がある。斜め読みしたけれど、部分的に参考になるところがいくつかあった。 例。 「使える専門家」というのは、誤解している人が多いように思いますけれど、自分が何をできるのかを言い立てる人のことではありません。そうではなくて、自分は何ができないのかをきちんと理解していて、「自分ができない仕事」、それに支援されなくては自分の専門的知見が生かされない仕事について、きちんとしたジョブ・ディスクリプションが書ける人のことです。そうしないと必要な専門家の「リクルート」ができませんからね。 (104ページ) 初登録13.12.10 読了14.03.05
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教育の本質は、「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。 「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです。(p.40) 自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増えるかもしれないし、技術も身につくかもしれない、資格も取れるかもしれない。けれども、自分のいじましい「枠組み」の中にそういうものをいくら詰め込んでも、鳥瞰的視座に「テイクオフ」(take-off、離陸)することはできません。それは「領地」を水平方向に拡大しているだけです。 「学び」とは「離陸」することです。(p.59) 「古典に還れ。必要なことはすべてそこに書かれている」自分が現に経験的に熟知している世界。リアルな世界。人々があくせくと働いて、愛したり、憎んだり、生まれたり、死んだりしている世界がここにある。それとは違う境位に、「外部」が存在する。そこに永遠の叡智がある。自分のいる世界とは違うところに叡智の境位がある。それを実感しさえすれば「学び」は起動する。あとは、自分で学ぶ。(p.158)
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