日本語が亡びるとき の商品レビュー
ざっと読んでそのままにしたままでした。ここで何故ママが二度出てきて、パパが一度も出て来ないのか、きわめて問題であるとは、多少なりとも思うところでありますが、今は不問に付します。 明確に認識しないで読み流すなどということを世人はせず、しかして私はする。そのツケ常に多いに自身を悩ま...
ざっと読んでそのままにしたままでした。ここで何故ママが二度出てきて、パパが一度も出て来ないのか、きわめて問題であるとは、多少なりとも思うところでありますが、今は不問に付します。 明確に認識しないで読み流すなどということを世人はせず、しかして私はする。そのツケ常に多いに自身を悩まし、そら見たことかという事体訪れるは先月4月のこと、2作目3作目の『日本語で読むということ』と『日本語で書くと言うこと』が刊行されるに及んで、この先行する問題の書を読み説かざるを得ない窮地に突入せし。 読み流した中で、内容的なものとほとんど外れた言葉が、記憶に残っています。 叡知を求める人というのは、その時代に人類が知り得ることを全て知りたく思う人のこと・・・。 ・・・まるで私のことを指差さされているようで、顔を赤らめたものです・・・。 ・・・・・
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正直に言って興味があるタイプの本ではなかったのだが、流行っているようなので読んでみた。 予想通り興味を惹かれるような話ではなかったので低評価、こればっかりはどうしようもない。 そもそも「日本語が亡びる」ってタイトルが気に食わない。 本の内容からは「日本文学が亡びる」とでもした方が...
正直に言って興味があるタイプの本ではなかったのだが、流行っているようなので読んでみた。 予想通り興味を惹かれるような話ではなかったので低評価、こればっかりはどうしようもない。 そもそも「日本語が亡びる」ってタイトルが気に食わない。 本の内容からは「日本文学が亡びる」とでもした方が良いような気がする。 英語が世界的公用語になるとか、日本語の表意文字としての特性とかのくだりには同意できるけど、 それとこれ(文学の話)は別物だと思う。 そしてソレ(英語とかの話)については今更掘り起こすような話でも無いように思う。 純粋に純日本語が使われた文学礼賛の本にでもしとけば良かったんじゃないかな。
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なかなか読み進められなかったが、いろいろなことを考えさせられた本。 近代日本文学の名作は、時代や言葉のさまざまな要素が絡んで生まれるべくして生まれた、稀有の、貴重なものだった。今の作品群と比べると彼らの存在が段違いに骨格のしっかりした大樹の印象が残るのはそのせいだ。 『三...
なかなか読み進められなかったが、いろいろなことを考えさせられた本。 近代日本文学の名作は、時代や言葉のさまざまな要素が絡んで生まれるべくして生まれた、稀有の、貴重なものだった。今の作品群と比べると彼らの存在が段違いに骨格のしっかりした大樹の印象が残るのはそのせいだ。 『三四郎』を「翻訳」というキーワードで読み解く試みはとても興味深かった。 ネットの普及でますます英語がひとり勝ちしていく世紀のなかで日本語を滅ぼさないための提案として、近代文学を徹底的に相当量読み継がせることを熱く提唱している。 刺激を受けた意味で★は4以上。
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『本格小説』の作者が書いた、日本語の将来についての書。 1章では様々な国における作家の言語面でのあり方が描かれ、その後日本語が亡びゆくとはどういうことか論じられて、最後にそれに向けた対策としての国語教育が論じられている。 この本での筆者のほとんどの意見において私は賛成せざるを得な...
『本格小説』の作者が書いた、日本語の将来についての書。 1章では様々な国における作家の言語面でのあり方が描かれ、その後日本語が亡びゆくとはどういうことか論じられて、最後にそれに向けた対策としての国語教育が論じられている。 この本での筆者のほとんどの意見において私は賛成せざるを得ない。 文学は、どんなに科学が隆盛し、片隅に押しのけられようと、決して消滅するものではないし、日本語もほかの言語と比べても特殊な言語であり、文学における表現手段としての意味が見いだせる以上、消滅し得ない。 ゆえに日本語による文学は決して消滅することはないはずである。 日本人自体が日本語を放棄するのでない限りは。 しかし、現実として、日本がその方向へと向かっていることは否定できないのではないか。 筆者も挙げている小学校における英語教育などが良い例である。 英語を重視し、日本語を学ぶことを軽視することは、日本語の放棄を半ば容認するものだといえないだろうか。 教育を学び研究するものとしても深く考えさせられた。
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学校教育でますます英語が重視される中、 日本語(国語)の教育がおろそかになるという 危機意識で書かれた、 「国語」としての日本語についてまとめたエッセー。 洋の東西を問わない数々の文献を踏まえながらも、 作家らしい、軽快かつ深みのあるタッチから、 「日本語を大切に...
学校教育でますます英語が重視される中、 日本語(国語)の教育がおろそかになるという 危機意識で書かれた、 「国語」としての日本語についてまとめたエッセー。 洋の東西を問わない数々の文献を踏まえながらも、 作家らしい、軽快かつ深みのあるタッチから、 「日本語を大切にしよう」という筆者のメッセージが ひしひしと伝わってくる。 論文のようなすっきりとした構成ではないため、 少々助長な感じはぬぐえないが、 筆者の主張には洗練されたものを感じた。 というのも、 筆者が「日本語を大切に」とする根拠は、 国語愛好家にありがちな「日本語の美しさ」でも、 「アメリカ人の怠慢」でもない。 そうではなく、 英語は多くの人に読まれるが、 日本語を含むその他の言語でかかれたものは 多くの人に読まれることはない、 そうした現実に基づいたものだ。 そして、文学独特の語り口は 翻訳によって100%はカバーできず、 日本文学という財産を後世に残すべく 国語としての日本語を大切に、としているのである。 (実際、本文で日本の近代文学を美化する一方、 英語そのものには一定の敬意を払っている) 最近になり、国語教育の大切さを説く本が 多く目に付くようになってきた(気がする)が、 本気で国語を大切にしたいのであれば、 この本くらいの踏み込みがほしいな、と この本を読んで思った次第である。 それでも、文学だけのために 国語教育を重視せよ、という気にはなれないが…。
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著者の考える「文学の終わり」を憂える背景には歴史的根拠がある。 1 科学の急速な進歩 2 <文化商品>の多様化 3 大衆社会の出現 主にこの3つによって文学のありがたさが失われている。 1について 「人間とは何か」という人間にとって大切な問いに答えるのに、小説何ぞを読...
著者の考える「文学の終わり」を憂える背景には歴史的根拠がある。 1 科学の急速な進歩 2 <文化商品>の多様化 3 大衆社会の出現 主にこの3つによって文学のありがたさが失われている。 1について 「人間とは何か」という人間にとって大切な問いに答えるのに、小説何ぞを読むよりは最新の科学の発見を知ることの方がずっと意味を持ってきている。 2について 小説はテレビ、ビデオ、CD、DVD、ビデオゲーム、iTunes、YouTubeなどの出現により、<文化商品>の王座から転落し、廉価な<文化商品>のうちの一つになった。 3について 本は常に<文学的価値><流通性>の2つを持つが、大衆社会の出現は両者の二つの価値の間にある恣意性を大きく広げた。 しかし、ほんとうの問題は英語の世紀に入ったことである。 すべての本の情報が検索される時代がすぐそこまでやってきていて、これからの時代は<読まれるべき言葉>の序列付けの質そのものがもっとも問われるようになるのである。
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ゾクゾクしました 下手な解説はできません 英語で論文を書いている科学者として、 色々と感じるところがあった とにかく読むべき
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途中で姿勢を正して読みたくなる本でした。綺麗な日本語で書かれ、英語、仏語、日本語が堪能な作者に警告させると、確かにこの作者の書くような日本語は、確実に亡びると思われます。では、これからの日本語が駄目になるかというと、私はあまり悲観していません。それは多分、私が日本と日本語しか知ら...
途中で姿勢を正して読みたくなる本でした。綺麗な日本語で書かれ、英語、仏語、日本語が堪能な作者に警告させると、確かにこの作者の書くような日本語は、確実に亡びると思われます。では、これからの日本語が駄目になるかというと、私はあまり悲観していません。それは多分、私が日本と日本語しか知らないせいだと思います。後日本語は、外来語を柔軟に取り入れてきた言葉だったとの認識があります。私の常識には合わない日本語になるかも知れませんが、それで駄目とは思いません。
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目から鱗本。そんなこと考えたこともなかったな。<現地語>、<普遍語>、<書き言葉>、<普遍語の図書館>、、、日本語を国語として至極当然のごとく思いまた軽んじてきた。とりあえず、近々「三四郎」読み返してみようかな。
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日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。交渉の場で堂々と意見を英語で述べ、意地悪な質問には諧謔を交えて切り返したりもしなくてはならない。そのような人材を育てるにはたいへんなお金がかかる。国策として少数の”選ばれた人”を...
日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。交渉の場で堂々と意見を英語で述べ、意地悪な質問には諧謔を交えて切り返したりもしなくてはならない。そのような人材を育てるにはたいへんなお金がかかる。国策として少数の”選ばれた人”を育てるほかはない。 すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらない。日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべき。”新学習指導要領案”で、中学校3年間の授業配分を見ると、英語週4時間に対し、国語は3時間しかない。 国語教育の理想をすべての国民が書けるところに設定し、”読まれるべき言葉”に設定しなかった。”読まれるべき言葉”がどのような言葉であるかは時代によって異なるであろうが、それにもかかわらず、どの時代にも、引きつがれて”読まれるべき言葉”がある。そしてそれを読みつぐのが文化なのである。日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。
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