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日本語が亡びるとき の商品レビュー

4

106件のお客様レビュー

  1. 5つ

    33

  2. 4つ

    44

  3. 3つ

    15

  4. 2つ

    4

  5. 1つ

    2

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2012/12/20

ひたすらに面白い。日本のエリートが高度な英語の使い手にならなければ、日本語が亡びるという。一見矛盾したような内容が、むつかしい言葉も使わずにしっかりと説明されている。

Posted byブクログ

2012/10/11

小説家としての視点から、国語としての日本語、普遍語としての英語の将来について考察している。筆者は、グローバル化の進展にも関わらず、日本人の英語は未だ道案内のレベルを目指すにとどまるとし、国レベルでの危機感の薄さを嘆いている。中でも、学校教育について言及した最終章は興味深い。グロー...

小説家としての視点から、国語としての日本語、普遍語としての英語の将来について考察している。筆者は、グローバル化の進展にも関わらず、日本人の英語は未だ道案内のレベルを目指すにとどまるとし、国レベルでの危機感の薄さを嘆いている。中でも、学校教育について言及した最終章は興味深い。グローバル化の流れにあっても、日本において英語が国語になることはないという視点に立ち、今後は国語としての日本語教育の見直しと、英語教育における差別化が必要であると述べている。差別化とはすなわち、国策としてバイリンガルを育成するというもの。議論の分かれるところだが、平等主義を廃し、世界と渡り合う人材の育成が必要であるという点には同意できる。近い将来、海外メディアの前に立ち、巧みに英語を操る日本のトップを見る日が来るだろうか。

Posted byブクログ

2012/09/29

最近、よりはっきりとしてきた、わたしの脳裏に逆巻き続ける理がある。ある種の暴力性、または宗教性を放棄した時、「自壊の選択」者を止める試みは、その現実的なコストの壁の前に敗北するというシナリオのことである。勿論、史上それを超克した現象はいくつもある。だけれども、とにかく今この扉は重...

最近、よりはっきりとしてきた、わたしの脳裏に逆巻き続ける理がある。ある種の暴力性、または宗教性を放棄した時、「自壊の選択」者を止める試みは、その現実的なコストの壁の前に敗北するというシナリオのことである。勿論、史上それを超克した現象はいくつもある。だけれども、とにかく今この扉は重い。   日本人という概念はフィクションであり、悲劇は悲劇ゆえに観衆を湧かせるのである。   それが本意か不本意なのかもわからないが、「時代は変わる」という言葉しか今は持っていない。人間が言葉を手にして以来、この地球上に、何億人の「水村美苗」が生まれてきたのだろうな。

Posted byブクログ

2012/05/13
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

少数言語は滅び、英語が増える時代へ。しかし、日本語が亡びるのは読まれるべきものが読まれなくなるから。 学校教育での日本語軽視。国語では書き言葉を読む訓練をすべき。 伝統的仮名遣いの文語から表音文字での書き言葉に。 読める日本語量を増やすことが大切。 優秀な文学も読む人がいなければ意味がない。 日本文学が知られたのは太平洋戦争でアメリカが日本を知るため利用したから。 明治までは漢文が書き言葉の主流。 参考文献 想像の共同体、浮雲、翻訳と日本の近代

Posted byブクログ

2012/03/09

 いま、この本を読んでおいて本当によかった。日本語話者は必読の書である。「日本語が亡びる」なんていっても、何をいっているのだそんなことあるわけないだろうと歯牙にもかけないのが普通の人の反応だろう。しかし、このままでは間違いなく亡びるだろうということがわかる。  現代は、英語の世...

 いま、この本を読んでおいて本当によかった。日本語話者は必読の書である。「日本語が亡びる」なんていっても、何をいっているのだそんなことあるわけないだろうと歯牙にもかけないのが普通の人の反応だろう。しかし、このままでは間違いなく亡びるだろうということがわかる。  現代は、英語の世紀である。それは数十年単位の話ではなく、これから先、100年、200年と続いていくであろうことは厳然たる事実なのである。英語は世界で<普遍語>となったのだ。普遍語になるとはどういうことか。それは、「英語圏をのぞいたすべての言語圏において、<母語>と英語という、二つの言葉を必要とする人が増えていくこと」を意味するのである。英語の重要性が増すほどに、自国の言葉は影響を受ける。そのとき、自分たちの言葉が「亡びる」ということが起こる。ここで著者のいう、「亡びる」というのは、当然その言葉の最後の話者が消えてしまうという意味ではない。そうではなくて、かつて高みにあったようなひとつの豊かな<書き言葉>が忘却され低いレベルへ下降してしまうことである。そして、そのような<自分たちの言葉>が亡びるとき、<国民文学>も亡びることになる。  <国民文学>は無論<国民国家>の存在を前提とする。そして、国民国家は<国語>を必要とする。<国語>というのは決して、自然発生的なものではない。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』にあるように、「出版語」が<国民国家>の言葉として固定されていくうちに、国語というものが成立することになるのだ。「出版語」とは、より高い叡智にアクセスできる上位の普遍語を<現地語>の書き言葉に翻訳することで、生まれたものなのだ。日本近代文学の礎を築いた文豪たちのほとんどが、同時に優れた二重言語者であるという事実を思い出してほしい。 「くり返すが、<国語>とは、もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>からの翻訳を通じて、<普遍語>と同じレベルで、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負うようになった言葉である」(頁148) のみならず、国語は普遍語と同じように機能しながら、母語の持つ特性を最大限活かした固有のものなのだ。社会で国語が流通すればするほど、話し言葉そのものも書き言葉としての規範に変化させていく。このようにして、国語はその起源が忘却され、あたかも自分のうちから自然と出てくるような言葉として認識されるようになる。結果、国語は必然的に自己表出の言葉になる。その国語こそが、近代文学を生んだのだ。  「日本に近代文学があるのを可能にした条件は日本に<国語>があったことであり、日本に国語があるのを可能にした条件は日本に大学があったことであり、日本に大学があるのを可能にした条件は、まさに日本が西洋列強の植民地になる運命を免れたことにあった。」(頁201)のだ。  翻訳という行為から生まれた国語。そして国語から生まれた文学がいま、終わりを迎えようとしている。その主たる原因はなにか 1)科学の進歩 2)文化商品の多様化 3)大衆消費社会の実現 である。  現在、日本の文学の相対的な地位は、かつてあった高みから限りなく落ちぶれてしまっていることは、書店にいけば多少本を読む人間なら誰でもわかることである。<読まれるべき書物>は読まれず、みんなが読むような本を読む人が増えると資本の論理によって、必然的に低いレベルのものが市場に溢れることになる。自然状態では水は低きに流れるのが世の必定だからだ。そして、インターネットの登場というダメ押しによって英語の世紀は決定的になっている。英語の世紀になるとどういうことになるか、叡智を求める人、つまりエリートや、創作者は日本語を読まなくなり、しかも、英語で発表するようになるということである。そうした人たちが、国語を読まず、国語で発表することがなくなるということは、国語が現地語に成り果てる可能性がでてきたということだ。国民文学が現地語文学に成り果てる可能性がでてきたということだ。そうした日本語を守るためにはどうすればよいか?、著者は学校教育の改革を提言する。日本の国語教育はなによりももず、日本近代文学を読み継がせることに主眼を置くべきだという。規範となった国語を生み出した近代文学を多くの人に読まれることこそ、話し言葉としての日本語も外部の変化に耐えることができるからだ。英語は少数の選ばれた人が優れたバイリンガルになればいいのである。エリートでなくとも、特別な思い入れがあれば、英語を学ぶことは学校以外でいくらでもできる。だからこそ、いまこそ日本語教育こそを徹底させる必要があるのだ。

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2012/01/18

(「BOOK」データベースより) 「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか?日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおそうとする書き下ろし問題作が出現した。

Posted byブクログ

2012/08/04

日本語と文化の行く末に警鐘を鳴らす一冊。「国語」としての日本語を守る、先ずは徹底的に日本語を学ぶべき、という筆者の意見に異論の余地はありません。筆者の意識を醸成した幼少期から、仮名の生い立ち、言語学、日本の教育への批判まで、テンポ良く広範囲に展開されます。日本語を通して日本の文化...

日本語と文化の行く末に警鐘を鳴らす一冊。「国語」としての日本語を守る、先ずは徹底的に日本語を学ぶべき、という筆者の意見に異論の余地はありません。筆者の意識を醸成した幼少期から、仮名の生い立ち、言語学、日本の教育への批判まで、テンポ良く広範囲に展開されます。日本語を通して日本の文化を守るためにも英語もまた学ぶ必要があります。その必要性を「誰もが片言でも通じる喜びを得るため」と理解するのであれば、学ぶのは英語である必要は全くありません。ジェスチャーだけで十分です。「読まれるべき言葉」が文化をかたち作るということにはっとさせられます。

Posted byブクログ

2011/12/31
  • ネタバレ

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本書は、英語が氾濫している国際社会、日本社会に対する警告になっている。 言葉がつうじなくなったという逸話の「バベルの塔」以来、言語の統一を図った人たちは大勢いる。 これまで、なくなった言語はあるが、世界統一した言語はない。 日本語の文章の単語の中で、英米由来のものが、日本古来のものを越えようとしている場合がある。 文化的な背景を理解せずに使っている言葉が、それほど行き続けないかもしれない。 「母語」(ぼご)という、母親の胎内または母親に抱かれて伝わった言語が、 その人の一生の間で、薄れることはあっても、消えることはないという仮設がある。 また、日本のよな辺境の地の文化の強さである、ありとあらゆるものを受け入れるという言語。 日本語は、中国から漢字を取り入れた。 自己流に「改善」して、ひらがなとカタカナをあみだした。 英語がどのように日本語に混入してきても、英語を消化して、新しいものを作っていけるのではないか。 日本語は、滅びない構造と機能を持っているのではないだろうか。 これが、本書を読んで考えてみたことです。 母語について考えるよいきっかけになりました。

Posted byブクログ

2011/12/22
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

著者のアイオワ滞在記。それぞれに国からやってきた作家たち。現地では彼らは英語やロシア語などでコミュニケーションを図るが、<自分たちの言葉>があり、それで書いている作家なのだ。 メモ 普遍語 [ universal language ]    …古くからある偉大な文明のことば、コトバ 現地語 [ local language ]    …Ex. 日本語など     B・アンダーソンは「口語俗語」と定義 国語 [ national language ]    …国民国家の国民が自分たちのコトバだと思っている言葉     国を持たない自治区未満の地域の人が自分たちの語だとおもっている語を含める ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』 国家は、自然なものではない 時間と文学、言語(P.78) 言語の優位性が、世界の人々に≪翻訳≫という形を通して影響を与える。 →Ex.英語と日本語をちゃんぽんにした小説は英語では書けない =非対称な関係 普遍的な時間にすむ人間…かつてのフランス語、現在の英語 特殊な時間に住む人間……日本語、翻訳されない理解されない言語 普→特 伝えられる、翻訳という形で 普←特 その声は聞き取れない      ノーベル文学賞も主要言語で書かれなければ(あるいは翻訳され読まれる形にならなければ)価値を見出せない 今まで <普遍語>で読むからこそ、そこに<真理>がある。 →しかし、英語という<国語>あるいは叡智を求める人でなくても読めてしまう言語で書かれるとするなら? →<普遍語>はなくなり(というか、<国語>と<普遍語>が重なり合うことで)真理は求めるものではなく、ただそこにある、と思うようになるかもしれない。 歴史的仮名遣いにすることが、現代の日本語の再建になる、という著者の意見は性急過ぎるし非現実的な話だろう。しかし、私たちは古来から築きあげてきた日本語によって文章を書く。日本語、という語で書いているという現実を読者ひとりひとりが認識する必要はあるはずだ。 著者は読者に疑問を投げかける、このままで良いのかと。それに対する答えは浮かばないままだ。

Posted byブクログ

2011/12/12

日本語という言語に関する考察書(言語淘汰とか)だと思って買ったんだけど的外れだった。それはいいとして、最初は著者が言語について話を始めるときにあるエピソードから話始めるのだけど、それが退屈で退屈で…。 いま思えば文庫で出ても買うかどうかわからない。

Posted byブクログ