日本語が亡びるとき の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
本書は、英語が共通言語としての価値を高ていく一方の中、日本語が国語としてのポジションを失いつつあり、国語としてありえている「書き言葉」としての日本語を読むこともできなくなっている現状をまず変えることが大切であると、訴えたものである。 これを理解するために、国語とは何かを、「普遍語」、「現地語」との対比で明らかにした上で、人類の叡智を理解し、それらと対話し、表現するために必要な「書き言葉」としての第一言語が、日本語となった過程を明らかにしている。 本書では、日本語の運命に対する悲哀すら感じられ、それは、すでに廃れた漢文との対比により、一層、深く、突き刺さる。 良書である。 なお、1章、2章(の中盤まで)は、作者がなぜ本書を書くに至ったかを理解するためには重要であるが、退屈である。読者は、何とか2章終盤まで読み進めてもらえれば、良書であるとわかってもらえると思う。 なお、最終章は、いささか想いが強すぎて、読みづらい。
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世界中の作家たちが集められたアイオワの国際創作プログラムに参加した著者の述懐からこの本は始まる。色々な言語で書くこと、色々な環境で書くこと、色々な背景を背負って書くことを考え、そこから現在普遍語となっている英語と日本語についての考察が仔細に語られてゆく。 日本語はかつて二度、亡び...
世界中の作家たちが集められたアイオワの国際創作プログラムに参加した著者の述懐からこの本は始まる。色々な言語で書くこと、色々な環境で書くこと、色々な背景を背負って書くことを考え、そこから現在普遍語となっている英語と日本語についての考察が仔細に語られてゆく。 日本語はかつて二度、亡びの危機に瀕した。一度目は明治維新において欧米諸国と対等にやっていけるようするため国語は英語にすべきと初代文部大臣森有礼が提案した時、二度目は太平洋戦争の反省のため国語をフランス語にしようと志賀直哉が発言した時。 それらの危機の時代を乗り越え、今日本語は普遍語としての地位を獲得した英語のため三度亡びの危機にあるという。 叡智を求める人は、その時代において最も叡智が多く集まる言語に接近する。その証拠に、特に自然科学分野では自分の論文に価値があると思えば思うほど、極東の一地方で話されている日本語ではなく、世界の普遍語である英語で発表を試みようとする。 そこには1933年、ケインズの『一般理論』にある原理と同様のものを発見しながら、当時力を持っていたフランス語、ドイツ語、英語のどれでもなく、母国のポーランド語で発表してしまったために誰の目にも止まらず、知的所有権を主張する論文すらも無視されたカレツキの悲劇の二の舞になってはいけないとの教訓もある。 では、日本語が亡びないようにするためには何ができるのかを考えた時、まず必要なのは世界に向けて英語で意味のある発言ができる人材を十分な数揃えることだと提言する。日本語以前に日本国家を守れる人材が必要だとの考えからだ。 今の「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」程度の教育を学生全員に施すのではなく、少数の選ばれた、かつ優れたバイリンガル人材を能力の格差の広まりなど恐れずに養成することが必要だとする。 そうすることで、「日本の置かれた立場や日本がなした選択を、世界が納得できる形で説明」できるようになり、憂国の念は多少なりとも晴れることになる。 その上で日本語を亡びの運命から逃れさせるには、バイリンガル人材に許された能力の格差を認めず、「学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべき」だとする。 そのためには読まれるべき言葉をこれからも読みついでいくことが必須だという。 文中には福沢諭吉が病気になるまで枕がないことに気付かなかったとのエピソードが紹介される。 というのも、西洋語とその叡智が日本に入ってきた時、彼はその魅力に取りつかれ、文字通り寝る間も惜しんで書物に向かったため、普段の睡眠は机に突っ伏してか床に直に寝るかで、枕の乗った布団の上で寝ることがなかったからだという。 それほどに未知の知識は魅力があり、だからこそ今現在、そして未来において未知なる叡智が発表され続けるであろう普遍語の英語は人々の間で比重を増していき、相対的に非英語圏の国語の地位は後退せざるを得ない。 そこまでを考えていた著者が自身の作品として英語を織り交ぜた『私小説』を書いたのは、バイリンガル形式をとることで英語にだけは絶対に翻訳できなくするためもあったという。 その目論見により、「日本語が英語と違うこと」どころか、「日本語がほかのすべての世界の言葉とちがうことを、読者に直接訴えたかった」のだとする。 そう聞いて、漫然と読んでしまったその作品をもう一度読みたくなったし、同時に著者が「読まれるべき言葉」の作品である『三四郎』、本作の大部分でテキストとして使われた『想像の共同体』は読まなければいけないと思わされた。
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米国在住の長い仏文学を専門とする著者が、使用者の増える英語と比較し日本語の将来性について述べたもの。世界の様々な言語、歴史、書く言葉、話す言葉の違いなど、多角的にかつ客観的、綿密な分析に基づいて、意見が述べられている。作家らしい読みやすい文章で、興味深い内容であった。印象的な記述...
米国在住の長い仏文学を専門とする著者が、使用者の増える英語と比較し日本語の将来性について述べたもの。世界の様々な言語、歴史、書く言葉、話す言葉の違いなど、多角的にかつ客観的、綿密な分析に基づいて、意見が述べられている。作家らしい読みやすい文章で、興味深い内容であった。印象的な記述を記す。 「ここまで体調を崩して初めて知ったのは、体力がないというのは、なによりもまず、健康だったときには想像もつかないほど、人づきあいが負担になるということである」 「外国に1週間旅をするだけでも、自分の国の経済力というものは、露骨すぎるほどに見えてくるものである。いくら日本の景気が悪いといわれても、世界の中で日本の経済力の強さは、まるで金の塊がうしろにずしりと控えているがごとく頼もしく感じられるものであった」 「下の方の、名も知れぬ言葉が、たいへんな勢いで絶滅しつつあるということである。今地球に六千ぐらいの言葉があるといわれているが、そのうちの八割以上が今世紀末までには絶滅するであろうと予測されている」 「英語という言葉は、ほかの言葉を母国語とする人間にとって、決して学びやすい言葉ではない。もとはゲルマン系の言葉にフランス語がまざり、ごちゃごちゃにしている上に、文法も単純ではないし、そもそも単語の数が実に多い。おまけにスペリングと発音との関係がしばしば不規則である」 「国語で学問をしてあたりまえだったのは、地球のほんの限られた地域で、ほんのわずかなあいだのことでしかなかった」 「言葉というものは、いかに翻訳可能性をめざそうとしても、翻訳不可能性を必然的に内在するものである」 「周知のように、15世紀に西洋の大航海時代がはじまるまで地球の多くの部分は無文字文化であった。それが、朝鮮半島との近さが幸いして、日本列島は、4世紀に漢文が伝来し、無文字文化から文字文化へと転じたのである」 「漢文より国語に重点を置こうという試みがはじまったのは、日清戦争が開戦したあと、明治半ば過ぎになってからのことでしかないのである」 「ある時、諭吉が病気になって気づけば、枕がない。そういえば、過去一年、まともに布団の上で寝たことがなかったのである。これは別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、凡そ勉強と云ふことについては実にこれ以上にしようはないと云ふ程に勉強しておりました。「福翁自伝」」 「インターネットによって、人類は、今、英語の世紀に入ったというだけではなく、これからもずっと英語の世紀の中に生き続ける。英語の世紀は、来世紀も、来々世紀も続く」 「シュメール語が記された粘土板から今まで、人類は最低3200万冊の本、7億5000万の記事、2500万の歌、5億枚の画像、50万本の映画、300万本のビデオやテレビ番組、そして1000億のホームページを出版した」 「今、目に付くのは、アメリカの大学の他を圧する突出ぶりである。世界でもっとも優秀だとされる20の大学のうち17がアメリカにある。また、ノーベル賞受賞者の7割がアメリカの大学で教えている」 「(日本が必要としている人材は)英語を苦もなく読めるのは当然として、苦もなく話せなくてはならない。発音などは悪くてもいいが、交渉の場で堂々と意見を英語で述べ、意地悪な質問には諧謔を交えて切り返したりもしなくてはならない」 「20世紀というのは、日本という国が初めて世界の表舞台に引っ張り出され右往左往するうちに終わってしまった百年間であった。この先、日本が、20世紀においてもったほどの世界的な意味をもつことは、良きにせよ悪しきにせよ、もう二度とありえないであろう」
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日本語を大切にしよう、夏目漱石の「三四郎」と読もう。 ・日本近代文学が存在したという事実そのものが、今、しだいしだいに、無に帰そうとしているのかもしれない・・・。(p.56) ・「英語と英語ではない言語の非対称性」 ・<普遍語><現地語><国語> ・カレツキというポーランド人...
日本語を大切にしよう、夏目漱石の「三四郎」と読もう。 ・日本近代文学が存在したという事実そのものが、今、しだいしだいに、無に帰そうとしているのかもしれない・・・。(p.56) ・「英語と英語ではない言語の非対称性」 ・<普遍語><現地語><国語> ・カレツキというポーランド人の悲劇 英語が普遍語としての地位を確立した現在、英語以外の言語はどうなっていくのだろうか。 明治時代のインテリたちは、皆、日本語以外の言語を読み、勉強していた。 それによって、日本語が「学問ができる言語」となり、日本にも「日本近代文学」という「主要な文学」が誕生した。 しかし、英語が普遍語となってしまった現在、そして、将来、英語以外の言語で「書こう」とする人は残るのだろうか、そして、それを「書く」意味はあるのだろうか。 そう考えると、過去に、日本近代文学という高みを極めた日本語は、今後、単に現地語として残っていくのみではないのか、という主張だと思う。 まずは、「三四郎」を読むところから始めたい。 自分も、昨今の英語教育の過熱には、違和感を持っていたが、これを読むと、逆に、英語「も」非常に重要になってきているのだなと実感させられた。
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「二重言語者」の筆者だから気づけた日本文学と日本語の意義。留学時英語のデータベースを見て受けた衝撃は自分だけではなかった。
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日本人として生まれ、学校で何年もかけて国語という教科を学んできても、日本語という言語そのものに関して深く考えるという機会を今まで持てていなかったという事に、この本を読んで気づいた。人間が物事を理解したり、自分の気持ちを伝えるという事に、日本語がどの様な役割を持っているのか。世界共...
日本人として生まれ、学校で何年もかけて国語という教科を学んできても、日本語という言語そのものに関して深く考えるという機会を今まで持てていなかったという事に、この本を読んで気づいた。人間が物事を理解したり、自分の気持ちを伝えるという事に、日本語がどの様な役割を持っているのか。世界共通言語に近い英語と対比し、これから日本語はどの様な道を辿っていくのか。明治や大正文学の美しい日本語に触れ、その巧みな表現に、会話と表現における言葉の選択の違いはどこにあるのかに興味があったので、読んでいて凄く勉強になった。これは定期的に読み返すと思う。
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最近、「12世紀ルネサンス」を読んで、中世ヨーロッパでの共通言語としてのラテン語の役割の重要性を改めて認識するとともに、現在の共通言語である英語との日本における距離感に危機感を持ったのだが、ほとんど同じ問題意識の本がでていた。しかも、私がほとんど唯一読む日本の現代の作家水村美苗さ...
最近、「12世紀ルネサンス」を読んで、中世ヨーロッパでの共通言語としてのラテン語の役割の重要性を改めて認識するとともに、現在の共通言語である英語との日本における距離感に危機感を持ったのだが、ほとんど同じ問題意識の本がでていた。しかも、私がほとんど唯一読む日本の現代の作家水村美苗さんによるものである。面白くないはずがない。 内容的には、個人的な体験を語った1~2章が、著者の「私小説」や「本格小説」の続きみたいな風情で、引き込まれてしまう。あと、漱石の「三四郎」を中心に日本近代文学の奇跡を論じた5章も素晴らしい。 が、ベネディクト・アンダーソンなどを踏まえながら、国民国家と国語の関係を論じていくところは、内容的には共感するのだが、今ひとつ、他の部分とのバランスが良くない気がする。最終章も、政策提言的になって、やや??? 実に憂国の書なのである、「どうしちゃったのー」と思うのだが、それだけ危機感が尋常ではないということ。日本語のプロが肌感覚で感じる日本語の終わりがそれだけ強いと言う事だろう。 同じ論旨の繰り返しが多いので、もう少しコンパクトにまとめつつ、著者の得意とする文学の話を中心にして論じれば、もっと説得力のある本になったのではないだろか?と思うのだが、著者の日本語への思いは熱いので、本の完成度とか、関係ない!ということであろう。 「流通するがゆえに流通する」という岩井先生の貨幣論の影響やシステムシンキングでいう自己強化的なループ的な記述が、いろいろなところに散らばっていて、なんだか微笑ましい。 個人的な結論としては、「英語が読めなきゃ、話にならない」
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演説、賛成、討論・・・等々の言葉は、実はあの福沢諭吉さんが創った言葉だそうだ。 江戸時代から明治にかけて、福沢さんは日本が植民地になっては大変だと思ってめちゃくちゃに勉強して英語をマスターしていった。当時は辞書など当然無いので、外人が居ると聞けば横浜まで何日もかけて歩いて見に行...
演説、賛成、討論・・・等々の言葉は、実はあの福沢諭吉さんが創った言葉だそうだ。 江戸時代から明治にかけて、福沢さんは日本が植民地になっては大変だと思ってめちゃくちゃに勉強して英語をマスターしていった。当時は辞書など当然無いので、外人が居ると聞けば横浜まで何日もかけて歩いて見に行ったり、偉い人が外国の本を手に入れたと聞いたら借してもらって徹夜で仲間と書き写したり。そこで出てくる問題が「この英語は日本語で何て表現するのか」ということ。そこで新たな言葉の創造が成されてきた。 危機感も背景にあるが福沢さんの様な人は知識欲がすごく高い「叡智を求める人」であると著者。 近代文学の代表格として度々紹介される夏目漱石さん。この方も叡智を求める人だったらしい。 日本という島国地形と江戸時代からのある寺子屋などの教育の仕組み、印刷技術などの背景があって、結構多くの国民が言葉を読めていた。更に先輩に福沢さんなどの叡智を求める人が居ることで言葉が多く創られ、世界が考えていることと同時進行で日本語で考え日本語で書くことが出来てきた時期が明治あたりだそうだ。この頃に近代の「日本文学」が国語と共に成熟していったとか。 今は昔。現在では英語が人類最初で最後かもしれない世界語となりつつある。そして日本人はややもすると皆英語で話さないとまずいとさえ考えはじめている。深層心理には日本文化と日本語は大丈夫と高をくくっているから。 ここに著者は警笛を鳴らす。 いまこそ、読まれるべき言葉としての日本語を大事にすべきだ。つまり、夏目漱石さんなどの日本近代文学と呼ばれるものを大いに読むべきであり教育の場で大いに読ませる機会を持つべきだと。 英語を否定しているのではない。かつて国語として成長した日本語を滅亡させない為にも、これからの叡智を求める人に一流の日本語を学んでもらい、これからの世界語との橋渡しを期待している。 既に日本語が崩れてきている。フランス語もかつての世界語の位置から陥落したらしい。 言葉について執拗なまでに拘ってきた著者の熱意が感じられる本でした。 そんな視点を持つ著者は日本の街並みについても嘆いています。 安全基準以外の法律がなく、容積率と建蔽率の最大化を求める市場の流れに身を任せ、てんでばらばらな高さ・形・色の建物郡や空を覆う電線・・・こんな日本文化が大丈夫なはずは無いでしょ、と。 何れにせよ、言葉に関して「思考を強いられた人」が新たなものを生み出してきた。 この、空間や街並みに関して如何に思考をめぐらせるべきなのか。 期限等のプレッシャーの中で、自分の内側からの叡智を求める声を力にする、それこそクリエイティブな所作。そんな視点で建築家の伊東豊雄さんは本書を読まれているのかもしれない、ともう一つの気づきがありました。。
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図書館で借りて1カ月使って読み終わらなかった。今度リトライ。 とっても興味深く、言語に対する世界観が変わりました。 借り直しよりも買った方がいいか?。 日本で日本語で学問をするということについての本。 古来、学問とはヨーロッパではラテン語、イスラム圏ではアラビア語、アジアで...
図書館で借りて1カ月使って読み終わらなかった。今度リトライ。 とっても興味深く、言語に対する世界観が変わりました。 借り直しよりも買った方がいいか?。 日本で日本語で学問をするということについての本。 古来、学問とはヨーロッパではラテン語、イスラム圏ではアラビア語、アジアでは漢文で行われた。 ほとんどの人たちにとってこれらの言語は普段使いの話し言葉ではなく、「学問のための言葉」であった。これを普遍語と本書では呼ぶ。 学問を修めたければ、つまり人類の持つ英知に触れたければこれらの普遍語を使えなければいけない。 現在、世界の普遍語とは言うまでもなく英語である。 インターネットの普及でその度合いは加速度的に高まっている。 日本語やその他の国語で論文を書いても、読むのはその言葉を使う人たちだけだ。 世界の学問に(しろなんにしろ)参加したければ普遍語を使うしかないのだ。 というお話が半分。 そういう世界でもなお、それぞれの国語、現地語で書き続ける人々がいて、それが無くなることはない。 それって素晴らしいことだよね、文化的多様性的にも。 というお話が半分・・・かな? 話のオチをまだ読んでいないけど。
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春から、断続的に読んできて、やっと読了。 でも、こういう読み方ってよくない気がする。 ゆっくり読むから内容が入ってきているかというと、そうでもない。 まあ、それはさておき。 第六章、七章あたりの議論の集中力のすさまじさ。 それは強く感じ取れたのだけれど、いかんせん、こちらの感受...
春から、断続的に読んできて、やっと読了。 でも、こういう読み方ってよくない気がする。 ゆっくり読むから内容が入ってきているかというと、そうでもない。 まあ、それはさておき。 第六章、七章あたりの議論の集中力のすさまじさ。 それは強く感じ取れたのだけれど、いかんせん、こちらの感受性が鈍いせいか、筆者の危機感が共有できなかった。 たしかに、明治以降の学問の言葉、文学の文体が苦労しながら一つの体系として完成していったことは、よくわかっているつもりだ。 漱石などの近代文学に、真剣なアイデンティティの問題を読み取ることができるというのも、その通りだろう。 たぶん、私が水村さんの議論に乗り切れなかったのは、日本近代文学に対する位置づけが、頭ではわかっても、同意しきれなかったことにあるのだろう。 正直、漱石の作品がそう面白いとは思えないのだ。 日本人のみんながバイリンガルになる必要はないという主張はよくわかるが、日本の国語教育は日本近代文学が読み解けることを目標にすべき、と言われると、そうかあ? と思ってしまう。 それから、仮に近代日本文学を称揚するならそれで構わないが、わざわざベネディクト・アンダーソンを持ってくる必要はあるのだろうか? なんだか、かえって議論が面倒になっている気がする。 そして、かえって「近代」「日本」の国民国家になろうという運動を再現してしまっていないか? グローバル化は、この本が出たころよりもずっと進み、いよいよ「英語の世紀」になってきたことは実感する。 この本は、今年、増補されて文庫になったそうだ。 …きっと大筋において、この本の主張は変わらないのだろうし、むしろ予想通りの展開になったと意を強くしているのかもしれない。
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