ドキュメント死刑囚 の商品レビュー
雑誌「創」の編集長である著者が、死刑制度の是非を正面から論じるというよりは、宮崎勤、小林薫、宅間守ら死刑囚三氏との交流を軸に、死刑は「あり」なのか、有効なのかと疑問を投げかける。 社会的には死刑になるほどの罪を犯した彼らだけど、果たしてそれが償いや犯罪の抑止力になっているのだろう...
雑誌「創」の編集長である著者が、死刑制度の是非を正面から論じるというよりは、宮崎勤、小林薫、宅間守ら死刑囚三氏との交流を軸に、死刑は「あり」なのか、有効なのかと疑問を投げかける。 社会的には死刑になるほどの罪を犯した彼らだけど、果たしてそれが償いや犯罪の抑止力になっているのだろうか。いや、そんなことはない。三氏については、自ら死刑を望んだ者あり、死刑囚になっても格別恐れを表出することなかった者ありというものだった。死刑というのは苦役(望まない刑)だからこそ、意味をもつ。それが死を、死刑を望むというのでは、償いになどならない。もちろん当人の再発予防にはなるだろうが、他者に向けた抑止効果も期待薄だろう。多くが、死刑囚を自分と違う種類の人間だと思っているから。こう考えると、死刑とは違う種類の者に対する畏怖からくる攻撃ではないだろうか。 書中では彼らの生い立ちもたどっている。彼らは罪を犯すことで社会の枠から離れることを厭わなかった。なぜなら、すでに社会からはじかれてい(ると思ってい)たから。本書を読むと、それは彼ら自身の素行によるところもありそうだが、一方で社会の責任もあるような気がしてならない。 彼らは、社会で生きるにはあまりに弱く、やさしく、正直な人間だったのではないだろうか。いわば弱者であり、そういう彼らを包むことができなかったというのは、やはり社会の罪だと思う。そう、ずるいことをしながら、その自覚もないままにのうのうと生きている人もいる。そういう連中と同じ社会で生きているのって嫌だと思うことが自分にだってある。五十歩百歩のところで、死刑囚になった彼らと同じだと思う。 以前、長野県内の刑務所で所長を務める方から、「刑務所は更生施設ということになっているが、人々が隔離しておくことを望んでいるという意味で、事実上隔離施設なのだ」というような意味のことを聞き、後味悪くもうなずける気分になったことがある。子どもに言い聞かせるのと同じようなレベルで、「悪いことをしたから刑務所に」というロジックがまかり通っているが、たとえば精神障害者の施設、身体障害者の施設、高齢者の施設だって、社会から排除したい人たちを排除・隔離しているとみることもできるだろう。ノーマライゼーションの論理にも反する異質なものを排除する思いが根本にある。それが、死刑に対する今の日本社会の大方の総意なのだ。 社会のど真ん中にいる人たちとは、何と勝手なのだろう。勝手なのだが、マジョリティであるがために是とされている。しかも、それはかなり流動的で、時代や社会状況によって容易に左右されもする。 たとえば、本書の宮崎氏に関する部分を読むと、精神が尋常とは思えない(ちなみに、異常をきたした原因は、慕っていた祖父の死のようだ)。だが、社会は精神障害ゆえの罪とせず、彼を死刑にした。彼の事件が起きた頃、社会はまだこのテの事件に免疫がなかったのだと思う。今なら、あり得る事件の一つではないだろうか。つまり、免疫のないことをしでかした宮崎氏を忌避し、社会から抹殺しようと死刑にしたような気がするのだ。 一方、小林氏については、被害者家族からの極刑を望む声があったようだが、この被害者家族は、小林氏が極刑になったことですくわれたのだろうが。とてもそうとは思えない。「目には目を」的なものは昔から行われてきたことだが、それでは人は救われるのか。宗教の世界で広く言われていることだが、ゆるすほうがまだ救われる気がする。 憎い相手が、仇討ちのように自ら手を下すことなく、この世から消えてなくなったとき、相手の死を望んでいたとしても、その後、どうやって生きていけばいいのだろう。その後の無為のなかで生きていくことのほうがよほどつらいような気がしてならないのだ。 死刑とはかくも流動的・不安定だ。そういうものが人の命を故意にうばっている。法治国家だとか、犯罪者だから云々と理屈をつけても、すっきり通じるものではないだろう。だからこそ、死刑という切り札にもならない切り札を軽々しく使うべきではない。
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やたらと死刑囚に寄り添う筆者のスタンスには辟易した。死刑囚たちが共通して経験してきた、劣悪な家庭環境を指摘しているが、それを理由に彼等が犯した大罪が免罪になることは断じてあってはならない。パーソナリティに拠るのではなく、鳩山邦夫氏も指摘するように罪そのものに着目し、粛々と死刑判決...
やたらと死刑囚に寄り添う筆者のスタンスには辟易した。死刑囚たちが共通して経験してきた、劣悪な家庭環境を指摘しているが、それを理由に彼等が犯した大罪が免罪になることは断じてあってはならない。パーソナリティに拠るのではなく、鳩山邦夫氏も指摘するように罪そのものに着目し、粛々と死刑判決を下し、粛々と執行することが被害者及びその遺族、また死刑囚本人にとっても最良の処置であることを司法関係者は肝に銘ずるべきである。 平成25年7月11日読了。
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死刑は犯罪抑止力にならない。死にたいと思って犯罪を犯す者に死刑は却って好都合なものといえる。死刑囚のしっかりとした分析をすることが重要。自分を分かってくれる人がいないと感じ自暴自棄となり人を殺す。果たして、こんな理由が許されるのだろうか。併せて、小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけな...
死刑は犯罪抑止力にならない。死にたいと思って犯罪を犯す者に死刑は却って好都合なものといえる。死刑囚のしっかりとした分析をすることが重要。自分を分かってくれる人がいないと感じ自暴自棄となり人を殺す。果たして、こんな理由が許されるのだろうか。併せて、小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』(洋泉社2000)を読むのも良い。人殺しだけでなく、近代社会で悪とされるものがなぜなのか、本当に悪なのかを考えるきっかけとなる。
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宮崎勤、小林薫、宅間守といった3人の凶悪犯との手紙のやり取り・公判での応答を記録し、彼らの養育歴・犯行にいたる内面の状態を探っている(宅間氏の手紙は大変過激だった)。また終盤では和歌山県毒入りカレー事件、北九州監禁殺人事件の容疑者の例を挙げ、死刑判決という存在が、彼らの内面に影を...
宮崎勤、小林薫、宅間守といった3人の凶悪犯との手紙のやり取り・公判での応答を記録し、彼らの養育歴・犯行にいたる内面の状態を探っている(宅間氏の手紙は大変過激だった)。また終盤では和歌山県毒入りカレー事件、北九州監禁殺人事件の容疑者の例を挙げ、死刑判決という存在が、彼らの内面に影を落とす影響についても述べている。 他の死刑反対派の方々の本と同様に、「自ら死刑を望む者、更生の余地がある者に対して死刑を執行することは、本当に正しいのか」「死刑囚とはいえ一人の人間であるのに、人権・人格を蔑ろにする行為は正しいのか」という、何というか、お決まりなパターンで書かれているように感じられた面もある。 けれども、この本が他の本と異なるのは「死刑囚を巡るジャーナリズムのありかた」について言及している所である。 1.「裁判所とは違った観点から、事件に関わり、当事者の内面に入り込むことで、裁判では明らかにできないことを掘り下げる」 2.「事件発生当時は洪水のように新聞もテレビも報道するのだが、何ヶ月かすると大手マスコミはさっと次に起きた事件に飛びついていく(フリーライターの場合は、一つの事件だけを追いかけていては生活費を稼げない上に、発表する媒体があまり無い)」 3.「1.,2.の理由のために、誰かが追いかけるべき事件に誰も本格的に取り組んでいない」 2.は、私たちも「あの事件から〜ヶ月経ちました」などとマスコミが報道するのを耳にしてよく実感することだと思われたが、1.は看過されがちだなと、小林薫が、筆者とのやり取りの中で心境・本心を綴っている点が、本書を読み終えた後になるとよく分かる。 最も、彼は「マスコミは自分のことを正確に報道してくれない、小学校・中学校時代に自分がうけたいじめと何ら変りない」と怒りを顕しているのだが・・・。 総括すると、この本は死刑反対派のスタンスを取るジャーナリストによる、凶悪殺人容疑者についての報道に言及した本であると言える。
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有名な死刑囚3人の記録。 その3人の共通点は『父への憎しみ』だった。 興味深かった。 ニュースでは知れない事実がたくさんあった。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
今年2月、光市母子殺害事件の裁判で元少年の死刑が確定したことで、死刑制度について改めて考えてみたくなり本書を購入。 中心に置かれるのは、幼女連続誘拐殺害事件の宮崎勤・奈良幼女誘拐殺害事件の小林薫・池田小児童殺傷事件の宅間守。いずれも日本中を震撼させた凶悪事件の犯人であるだけに、その名を記憶している方も多いことだろう(このうち宮崎と宅間には既に刑が執行されている)。本書は、これらの死刑囚と長年にわたって接触してきた著者が、その生の声を掬い上げて一冊の本にまとめたもの。死刑というものに対して彼ら自身がどう向き合っていたのか、今まであまり顧みられなかったこの点を拾い上げて世に問うたことは、それ自体とても大きな意義がある。ただ、人間の心の闇を垣間見たようで、読後感は非常に重い。 最も印象的だったのは、「被告には『極刑以上の刑』を与えてほしい」という遺族の言葉。もちろん、そんなものはありはしない。それどころか、宮崎は死刑の意味をほとんど理解しないまま、宅間はみずから強く望んで絞首台に向かっていった。小林に至っては、死刑判決の際にガッツポーズを見せたという。そんな彼らの姿を見ると、一体死刑制度は何のためにあるのか・被害者遺族は本当に死刑執行によって慰みを得られるのか、と考えさせられる。「被告は何度殺しても殺したりない」、「被告に極刑以上の刑を」と叫ぶ遺族の声は、むしろ死刑によって遺族感情を回復させることの不可能性を示唆しているように思えてならない。 それでも日本社会では凶悪犯罪が起こるたびに、「遺族感情を考慮すれば死刑が当然」という声が澎湃として沸き起こる。また、光市事件の元少年の死刑確定も、ネット上では拍手喝さいの声で迎えられていた。こうした声を見聞きするたびに、死刑で心のカタルシスを得るのは、当事者である遺族よりも、むしろ赤穂浪士のような「仇討物語」を求める世間の方ではないかと感じてしまう。これらの声が、どうにも処理できない怨恨と憎悪に囚われてしまった遺族の心のケアの問題を、本当の意味で顧みているとはとても思えないからだ。 光市事件の遺族・本村洋さんは、元少年の死刑確定を受けて「死刑制度を存置するこの国の社会正義が示された」と語っていた。だが同時に「嬉しさや喜びはない」とも。13年もの間、一人の人間の「死」を恐るべき執念で追い求め続けてきた彼は、その悲願が達成された今、一体何を思うのか。
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宅間守、小林薫、宮崎勉・・・ これらの死刑囚との交流を通じたルポ 幼児相手の犯罪を犯す人たちの共通点は 父親への憎悪なのか いずれにせよ、家庭が正常な形で機能していないことは確か 本人の生まれながらの気質の問題もあるとは思うが 一線を越えるかどうかは やはり家庭環境が大きく...
宅間守、小林薫、宮崎勉・・・ これらの死刑囚との交流を通じたルポ 幼児相手の犯罪を犯す人たちの共通点は 父親への憎悪なのか いずれにせよ、家庭が正常な形で機能していないことは確か 本人の生まれながらの気質の問題もあるとは思うが 一線を越えるかどうかは やはり家庭環境が大きくかかわっているような気がする 子供を愛していても、子供に愛されている実感がなければ それは愛し方が足りないか、 愛し方を間違えているんだろうな~と感じた
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著者の死刑を極刑とする現行の裁判システムで、本当に凶悪犯罪に対応できているのか、という疑念から本書は書かれている。本書では、宮崎勤・小林薫・宅間守死刑囚について中心に扱っている。 3人に共通していることは、子供を殺害したという点、被害者遺族に犯行を伝えるメッセージが送られている点...
著者の死刑を極刑とする現行の裁判システムで、本当に凶悪犯罪に対応できているのか、という疑念から本書は書かれている。本書では、宮崎勤・小林薫・宅間守死刑囚について中心に扱っている。 3人に共通していることは、子供を殺害したという点、被害者遺族に犯行を伝えるメッセージが送られている点、精神鑑定で「反社会性人格障害」と診断されている点などが挙げられる。さらに、3人とも親、特に父親に対して激しい憎悪を抱いている。人間は社会的動物であり、もし社会との関わりが反映される「最も身近な他者との関わりの場」が家族だとすると、父親は彼らにとって「社会規範」の象徴だったのではないか。そう考えると3人が父親を憎悪したことは決して偶然ではないように思える。 「罪を償う」とは何か?本書ではこの問いかけが大きな核である。小林薫は事あるごとに被害者に死んでお詫びするしかないと口にするのだが、そんなことが本当に両親の負った傷を癒すことになるのか疑問だ。そして、社会を震撼させるような事件を起こした犯人が、なぜ事件を起こしたかといった動機が本人の口から語られることなく、また医学的にも解明されないまま死刑執行されることは本当に社会的に意味のあることなのか? また、もともと社会がいやになって死にたいと言っていた人間に、死刑を執行したところで、それが罪を償うことになるのかおおいに疑問である。ましてや宅間守のケースのように、社会に復讐するために死を覚悟して事件を起こし人間に死刑を宣告することは、処罰にさえなっていないような気がする。 死刑こそが「犯罪抑止力」につながる有効な思い処罰なのだという思い込みで、死刑について論じることはこれだけ動機不明の犯罪が頻発する現代では通用しないのではないか。
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雑誌への手記掲載等を通じて接触のあった死刑囚を取り上げているので主観的であるのは仕方ない。しかし、人の命を奪った者の命を、法律の名の下に奪うことですべてが解決出来るのであろうか。極刑を望んで犯罪を犯した者を死刑に処すことに意味はあるのだろうか。
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