日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか の商品レビュー
70年代だそうです。だまされなくなった時期は。なぜ70年代なのか。これを読めばわかる。すなわち、70年代を境に、キツネ以前キツネ以後と、日本史を分断している何かがあり、そこに日本人の変容がある。変容を引き起こした原因に、人間の根本がある気がする。あと、本論と関係ないが、騙されなく...
70年代だそうです。だまされなくなった時期は。なぜ70年代なのか。これを読めばわかる。すなわち、70年代を境に、キツネ以前キツネ以後と、日本史を分断している何かがあり、そこに日本人の変容がある。変容を引き起こした原因に、人間の根本がある気がする。あと、本論と関係ないが、騙されなくなったことをちょっと寂しそうに書いている節があり、それが、ちょっと可愛いくてツボです。
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小学生の低学年だった頃、大叔母さんがキツネに憑かれたということで、お見舞いに行ったことを思い出しながら読ませていただきました。キツネは大叔母さんの口を借り、祈祷師に憑いた経緯や仲間を呼んでいることなどを喋っており、ご近所さんも大勢掛けつけていました。 今では、何かの精神的な病いと...
小学生の低学年だった頃、大叔母さんがキツネに憑かれたということで、お見舞いに行ったことを思い出しながら読ませていただきました。キツネは大叔母さんの口を借り、祈祷師に憑いた経緯や仲間を呼んでいることなどを喋っており、ご近所さんも大勢掛けつけていました。 今では、何かの精神的な病いとされて片付けられているのでしょうね。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
『国語教育は文学をどう扱ってきたのか」という本で、いわゆる「キツネ読本」が定番教材として扱われている背景に、ごんぎつねの話が昔と今では違ったという話があった。その話は面白いけど、そこで、なぜ変わったのか、それは「生命性の歴史の衰退」、という話が出てきて、その部分がよく分からなかった。そして、その引用文献になっていたのがこの新書だったので、読んでみよう、という。さらにこの著者は、高校教材としての評論文の定番の著者ということだから、なおさら興味が湧き、読んでみた。 分量はそんなにないが、読みごたえがある。というか、『国語教育は~』で指摘されているように、著者独自の視点で事象を切り取り、「歴史とは何か」を分析し、そして程良く難解(少なくともスラスラ分かるという感じではなかった。かと言ってチンプンカンプンでもなく。)、という部分が、現代文で重宝されているんだろうなあ、ということがよく分かった。 1965年頃を境にして、日本人の自然の捉え方が大きく変わった、というのがメインの話で、1965年以前、「現代の私たちとは大きく異なる精神世界で生きていた人々にとっては、キツネはどのようなものとして私たちの横に存在していたのか。今日の私たちの精神では到達できないものがそこにあった」(p.107)、ということを示し、「人間は客観的世界の中で生きているのではない」(p.117)ということを説き、キツネに騙されたかどうかという真偽の判定よりは、その物語が語られなくなることに、「私」を取り巻く世界がいかに変容したか、いかに合理性を求める知性を肥大化させ、その知性を通して歴史を認識するようになったか、ということが語られる。見えなくなってしまった「私」の記憶、身体に蓄積された記憶、ユング的な集合的無意識のようなもの、これが最初に述べた「生命性の歴史」ということらしい。 うーん、分かったような、単に言葉をつなげただけのような。なんとなくは分かるんだけど。「本書は私自身の企画としては、『歴史哲学序説』という副題のもとに書かれている」(p.4)ということだから、そういう話に興味がある人は面白いと思う。あとは面白かった部分のメモ。natureの訳語が、ヨーロッパのような客体としての体系が日本には存在しないことから、自我、我執のない世界を、オノズカラシカリ(=自然)と呼ぶ世界、という意味で、最もジネンなもの、シゼン、ということらしい。仏教の発想らしいが、そう考えるとこっちのジネンを英訳するのが難しいだろうなあと思う。それとも、ヨガとかが流行るオリエンタルブームの文脈では簡単なのかな。「自然保護などという言葉を平気で使えるほどに、私たちの自然観は変わった」(p.59)という部分は言い得て妙だなと思った。あと日本の伝統的な信仰を理解することは、教義を研究することではない、という話(p.106)があって、例えば修験道は「この信仰の核心が教義ではなく修行にある」(p.84)、「自然のなかでの修行がこの信仰のすべて」(同)なんだそうだ。民衆のなかに根付いた仏教、というものがあるなら、それと同じく民衆の中に根付いたキリスト教、というのも西洋にはあるはずだし、西洋の宗教学でも教義の研究ではない宗教の研究ってあるんだろうか、って思った。あとは「近代的な自由とは、社会が認めた自由を自由だと思い込む自由しかない」(p.121)というシュティルナーという人の言葉は面白いと思ったり、「生命のほんの一部でしかない知性」(p.147)によって歴史を捉えることで、逆にその歴史が誤ったものになりうる、というところが何となく分かった気がする。と言っても、歴史のコペルニクス的転回というか、そういうことをしないと何を歴史として捉えていいのか分からないという、一体ここで勉強している歴史って何なのだろうかとか、そういう想いを持った。(22/03/18)
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「現代人」の視点から眺める景色は合理的思考や科学的思考によっては知覚されないナニカを排除する。 歴史も同様に意味を与えられない出来事を排除して直線的に「歴史」を作り出す。 意味を超えてそこに存在したナニカを知覚できなくなったことにより「キツネにだまされる」ことができなくなってしま...
「現代人」の視点から眺める景色は合理的思考や科学的思考によっては知覚されないナニカを排除する。 歴史も同様に意味を与えられない出来事を排除して直線的に「歴史」を作り出す。 意味を超えてそこに存在したナニカを知覚できなくなったことにより「キツネにだまされる」ことができなくなってしまったのではないだろうか。 非常に面白い内容でした。 次は 「里」という思考 を読んでみようと思います。
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日本人がキツネに騙された事件が、 なぜ、1965年以降に発生しなくなったのかを問う本。 作者の住んでいる村を中心に書かれていたが、 もっと全国的な事例も知りたかった。
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「キツネに化かされる」という視点から日本を読み解く、挑戦的なテーマ。 やや無理がある気もするが面白かったです。
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【背景】 ①なぜ読むか 日本人の意識から、妖怪なども消えていることを不思議に思っていた。その疑問に関連すると思い本書を手に取った。 ②何を得たいか 狐に騙されなくなった背景や、その結果を学びたい。 ③読後の目標 抽象化して、日本人の心と科学、自然との関係について考察する。 【著者...
【背景】 ①なぜ読むか 日本人の意識から、妖怪なども消えていることを不思議に思っていた。その疑問に関連すると思い本書を手に取った。 ②何を得たいか 狐に騙されなくなった背景や、その結果を学びたい。 ③読後の目標 抽象化して、日本人の心と科学、自然との関係について考察する。 【著者】内山節(哲学者) 【出版社】講談社現代新書 【重要語句】 1965年、オオサキ、キツネ、高度経済成長、科学的真理、想像力、霊、自然、仏教、知性の歴史、身体性の歴史、生命性の歴史 【要約】 説1 「高度経済成長期の人間の変化」 説2 「科学の時代における人間の変化」 説3 「情報・コミュニケーションの変化」 説4 「進学率」 説5 「死生観の変化」 説6 「自然観の変化(ジネン→シゼン)」 説7 「キツネの側の変化」 →日本人の価値観の変化(欧米化) 【メモ】 p12「(キツネにだまされたというような)山のような物語が存在し、その物語が1965年ごろを境にして発生しなくなるという事実は証明できても、そのもガタリが事実かどうかは証明不可能、あるいは論証という方法では到達できない事実として存在している」→科学的ではないとのことわり。そりゃそうだ。 【感想】 かつての日本人コミュニティでは、人間同士の関係が険悪にならないように、キツネなどの仕業としていたように思う。 ある意味で、自然と人間とを区別しない世界を日本人は生きていたのであろう。 キツネにだまされなくなった話から、歴史認識の話へと進み、日本人観の変化へと論理が展開されていく。その中で、近代化現代化への意見が表れてゆき、読者はより大きな疑問へと引き込まれていく。 少々、内容の理解に私は難しさを覚えたが、新たな視点を得ることができたと実感している。
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とても面白かった。 20世紀終盤に生まれた私は、キツネなんかについぞ騙されたことはない。しかし読んでみると、騙されたことがないということもまた寂しいというか面白くないというか、「深みのある」いのちの在り方ではないことを痛感させられた。 1965年を境にキツネに騙されなくなってい...
とても面白かった。 20世紀終盤に生まれた私は、キツネなんかについぞ騙されたことはない。しかし読んでみると、騙されたことがないということもまた寂しいというか面白くないというか、「深みのある」いのちの在り方ではないことを痛感させられた。 1965年を境にキツネに騙されなくなっていった日本人。問題は人間の世界の見方が変わってことであった。タイトルの命題から歴史哲学まで議論を深め、「知性」にとらわれた世界の在り方に対する考察を展開している。 また機会があればぜひとも読みたい。
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○目次 まえがき 第1章:キツネと人 第2章:1965年の革命 第3章:キツネにだまされる能力 第4章:歴史と「みえない歴史」 第5章:歴史哲学とキツネの物語 第6章:人はなげキツネにだまされなくなったのか あとがき ○感想 本書のタイトル「日本人はなぜキツネにだまされなくなっ...
○目次 まえがき 第1章:キツネと人 第2章:1965年の革命 第3章:キツネにだまされる能力 第4章:歴史と「みえない歴史」 第5章:歴史哲学とキツネの物語 第6章:人はなげキツネにだまされなくなったのか あとがき ○感想 本書のタイトル「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という命題から、1965年を境に現出した日本人の変化を問うている。 日本の社会には制度としての歴史と、自然や生命と循環的に息づいた「みえない歴史」があった。筆者は、この「みえない歴史」に対して、古来日本人は「知性の歴史」「身体性の歴史」「生命性の歴史」という3つの見方・能力を通じて捉えてきたと考える。キツネにだまされるというお話も、こうした見方の中で、神や霊を仮託したものと考えられる。 しかし。明治以降、近代化の波は西洋的学問を絶対視し、知性偏重の色は強くなっていく。殊に、戦後高度経済成長期には、知性絶対視の流れは加速化し、元来日本人の持っていた3つの能力も知性偏重というパワーバランスが崩れていくことになった。 上記のように、タイトルの命題から近代化した人々の心性の変化というダイナミックな仮説を導きだしており、近代化論、日本人論として読んでも面白い一冊である。
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「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか?」という問いを発端に、自然に対する日本人の精神的変化を考察する一冊。一年の半分を群馬県の山村で生活する著者の経験をまじえながら、歴史の本質に迫る議論が展開されている。 本書によれば、日本の伝統的社会では自然と人間の関係において「知性・身...
「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか?」という問いを発端に、自然に対する日本人の精神的変化を考察する一冊。一年の半分を群馬県の山村で生活する著者の経験をまじえながら、歴史の本質に迫る議論が展開されている。 本書によれば、日本の伝統的社会では自然と人間の関係において「知性・身体性・生命性」それぞれの歴史が存在していたという。人間は個人ではなく、全体性の一部であった。オノズカラ(ありのまま)の自然に属する一方で、人間は「我」を捨て去ることのできない存在であることを自覚し、そのことが自然への畏敬を作り上げていたと著者は指摘する。 そうした《自然-人間》の生命世界は、1965年前後を堺に崩壊しはじめる。経済成長と共に近代的科学主義が蔓延したことやコミュニケーションの変化、焼畑農業の衰退や教育制度の転換など、さまざまな要因が重なったことで、現代人は「みえない歴史(身体性・生命性の循環)」をつかみ取ることができなくなった。「キツネに騙された」という逸話はかつて日本人が生命性の歴史をとらえるために仮託していた物語の一つであり、今日の我々にはもはやみえなくなった歴史である……と著者は結んでいる。 キツネや山村にまつわるエピソードを紹介しつつ、哲学者としての立場から理論的に「歴史学」を分析している点も面白い。
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