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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか の商品レビュー

3.5

69件のお客様レビュー

  1. 5つ

    10

  2. 4つ

    24

  3. 3つ

    23

  4. 2つ

    5

  5. 1つ

    2

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2013/10/24

1965年を境に、キツネのいる森もなくなり、高校進学率も上がり、「森」が身体に刻まれなくなった。 実証的な調査が記録されているわけではないので、エッセイとして捉えるべきだろう。

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2013/08/06

渡邊十絲子さんオススメの一冊。 おもしろかった。 「歴史」をどう見るか、という新鮮な視点が興味深い。 特に、第4,5章が白眉。

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2013/08/04

 タイトルにつられて読み始めたが、筆者がまえがきで書いているように、この本は「歴史哲学序説」を唱えている本であり、易しい本だろうと甘く見ていると痛い目に遭う・・・かもしれない。  筆者曰く「1965年を堺に日本の社会から『狐に化かされる』ということが無くなった」そうだ。  その...

 タイトルにつられて読み始めたが、筆者がまえがきで書いているように、この本は「歴史哲学序説」を唱えている本であり、易しい本だろうと甘く見ていると痛い目に遭う・・・かもしれない。  筆者曰く「1965年を堺に日本の社会から『狐に化かされる』ということが無くなった」そうだ。  その理由としては、高度経済成長期における人間の変化(燃料革命などで炭焼が衰退し村人も出て行ったり、戦後の日本において経済が「神」として君臨するようになり、自然を大切にする精神が失われた)、科学における人間の変化(科学力の物量で敗戦したことで精神論を捨てるようになり、従来当たり前だった言い伝えを迷信と受け止めてしまうほど考え方が変わった)、コミュニケーションの変化(テレビやラジオ、電話といった直接「もの」を伝えられる方法の出現で、人々から「読み取る」という事が行われなくなり、自然とのやりとりが失われていった)、教育に対する考え方が従来の村の年中行事や通過儀礼を重んじるものから、進学を重視するものへと変わった事、自然に包まれた生活から自然で利益を上げようとする、自然への見方の変化が挙げられており、要約すると人間と自然の付き合い方が変わったために、考え方も変わったということになる。 自分用キーワード 安倍晴明(民話において、晴明の母親は「信太の森のキツネ、葛の葉」であったとされている) ムジナ(アナグマのこと) オオサキ(実在するか不明の動物。目に見えず、秤が好きだという) 天狗岩(群馬県上野村の近所にある) カラス天狗 八紘一宇 農業暦(蜂の巣の作り方や種まきの時期の決定などを含む) 寒試し法(寒い季節の自然・天候の変化から一年の気温・雨量を予測する) 自然(かつては「ジネン」と発音され、「自ずから然る」という意味をも持っていた) 焼畑農業(肥料を作るためだけではなく、その地に山菜が出来て狐を含む動物のえさ場となっていた。今は行われなくなったことで狐の住めない森になった) 山上がり(生活が立ちいかなくなった時に、森に入り生活をしていくこと) 馬頭観音(荷物運びに使われた馬が事故などで死んでしまった時に供養するために建てるものだが、「馬の飼い主を時空の裂け目から守るために自ら命を落とした馬に感謝する」という説もある) 本地垂迹説 

Posted byブクログ

2013/03/06
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

おもしろい題名である。読者の好奇心に訴えかけてくるものがある。そういえば最近は聞かなくなったな、とあらためて思った。一昔前までは、そういう話はそこここで聞かされたものだ。まだ、キツネの出そうな野原や峠道が当たり前のように残っていた。 小さい頃、墓地に続く竹藪の中を通り、小川に出る坂道があった。釣りや水遊びには、そこを抜けるのが近道だったから、よく通ったものだが、日暮れになるとびくびくもので走り抜けたものだ。死んだ祖父が、そのあたりでキツネに化かされたことがあった、と祖母によく聞かされていたからだ。朝になって気がつくまで同じところをぐるぐると回っていたというから、饅頭のつもりで馬糞を食わされたり、肥溜めを温泉とまちがえて浸かっていたりするよりは、ましな化かされ方ではある。祖父がいくつの時の話かは聞き忘れたが、どうやら当時の日本人は、まだキツネにだまされていたことはたしかなようだ。 いつの頃からか、キツネやタヌキに化かされたという話を聞かなくなった。著者によれば、日本人の間からキツネにだまされたという話が消えていったのは1965年頃からだそうだ。釣り好きの著者は、旅先に竿を持っていっては、沢や渓流でイワナやヤマメを釣り、夜は農家に泊めてもらって炉端で話を聞くのが楽しみだったという。そうして集めたデータをもとにして出してきたのが1965年という線である。 では、なぜその頃から日本人はキツネにだまされなくなったのか。1965年といえば「高度経済成長期」と重なる。どう考えても無理な戦争に突き進んでいった戦前の社会に対する反省に立って、「合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱」といったさまざまなことがこの時代に起こり、キツネにだまされたという物語を生みだしながら暮らしていた社会が徐々に崩れていったのだろう、というのが著者の結論である。 なんだ、そんなことか、と言ってはいけない。それくらいのことなら私にも言えるというのは「コロンブスの卵」というものである。著者の言いたいことは、日本人がキツネにだまされなくなった理由を探るというところにはないからだ。新書の体裁はとっているが、著者の企画によれば、この本は「歴史哲学序説」という副題のもとに書かれているというから、甘く見てはいけない。 明治時代、日本にやって来たお雇い外国人は同じ山で日本人がキツネにだまされた時も、だまされたりはしなかったという。著者はそこで、「見える歴史」と「見えない歴史」という考え方を提出する。ふつうの歴史学は、書かれた物をもとに客観的な史実と思われる資料に従って通史を作っていく。国民国家にはそうしてできた歴史というものがある。しかし、それはヨーロッパ的な知性に基づいた、いわば「知性」の歴史でしかない。それに対して、著者は知性に拠らない「身体性の歴史」や「生命性の歴史」といった「見えない歴史」というものがあるのではないかという。 農耕や狩猟の技術は、言葉ではなく体を通じて伝えられていく。書いた物には残らないがこれも歴史である。また、日本人はさまざまな自然の中に「神」を見ることができると言われる。山神や田の神を祀る儀式や村里に残る通過儀礼その他のさまざまな儀式を通じて、里に生まれ育ち、やがて黄泉の国に帰り、祖先神として祀られるという「生命性の歴史」もまた、かつての村落社会には根強く存在し続けていた。そうした「見えない歴史」を振り捨て、経済活動を前面に押し出し、社会はつねに前進することで良くなっていくという歴史観に路線変更していったのが、高度経済成長期であった。 私たち日本人は、かつてあれほど豊かに持っていた「見えない歴史」を見失うと共にキツネにだまされる力も失ってしまったのだというのが、著者の解答である。ヘーゲルやマルクスの歴史観に、ショーペンハウエルやベルクソンの歴史観を対峙しつつ、自分の住む群馬県の山村での体験談をまじえながら、素人にも分かりやすく書かれた「歴史哲学序説」である。評者は、これを読みながらプルーストの『失われた時を求めて』を思い出していた。石につまづいたときに甦る記憶こそ、ふだんは見失われているが、私たち一人ひとりの中に蔵されている厖大な「身体性の歴史」そのものではないか。新書らしく易しい記述ながら、考えさせられることの多い一冊である。

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2019/09/03

数ヶ月前、日経夕刊のプロムナード欄で取り上げられていた本です。買って読んでみました。新書というスタイルから想像したよりも、かなり専門的な内容となっており、いい意味で裏切られました。さらに網羅して、単行本で出してもいいのでは?と思ったほどです。 キツネにだまされなくなった(転換点と...

数ヶ月前、日経夕刊のプロムナード欄で取り上げられていた本です。買って読んでみました。新書というスタイルから想像したよりも、かなり専門的な内容となっており、いい意味で裏切られました。さらに網羅して、単行本で出してもいいのでは?と思ったほどです。 キツネにだまされなくなった(転換点となる)年を過ぎてから、日本は変わったのでしょう。おかげで経済発展を遂げることができた。 だとしても、キツネにだまされながら経済発展することは、本当に不可能だったのだろうか。ついそう考えてしまいます。

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2012/06/18
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

【キツネにだまされる能力】日本で狐にだまされた話が聞かれなくなったのは1965年あたりからだという。この時期から日本人は狐にだまされる能力を失ったのだ、と。狐にだまされることを、自然と関わる能力の象徴として捉え、高度経済成長と引き換えにそれを失ったのだという著者の思考が好もしい。狐にだまされる能力を取り戻したいとは思わないけれど、何かを得れば何かを失う。何を失ったか、時には確認するのも良いことだ。

Posted byブクログ

2012/04/07

ちょっと読みにくかったです。文章構成の問題かもしれません。何度も同じ表現や結論が出てきて,あんまり「読ませる」文章じゃない印象。「少しずつ」が「少しづつ」(2ヶ所)なのも気になりましたw(調べてみると,間違いというほどのことではないようですが教科書等の表記は「ずつ」なのでやっぱり...

ちょっと読みにくかったです。文章構成の問題かもしれません。何度も同じ表現や結論が出てきて,あんまり「読ませる」文章じゃない印象。「少しずつ」が「少しづつ」(2ヶ所)なのも気になりましたw(調べてみると,間違いというほどのことではないようですが教科書等の表記は「ずつ」なのでやっぱり気になるw 職業病w) それはさておき,この本は「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」というタイトルを冠しておりますが,その理論というより,私たちの価値観の変化や,歴史認識の在り方みたいなものを論じています。 でも,「なぜキツネにだまされなくなったのか」ということと,日本人の価値観の変化等の接続がいまいち弱いように思えました。もうちょっと話の繋がりがわかり易かったらなあ・・・。突然話が飛躍したように思えたかも・・・。特に歴史認識の在り方は話が脱線してる?とちょっと思ってしまったほど^_^; ただ,見えない歴史の話と,客観的事実と主観の話は面白かったです。歴史の見方が変わりますね。寧ろこっちがメインなんですかね。なぜキツネだまされなくなったのか,ということについては,特にデータが示されるわけではなく,ただ筆者の…それこそ主観のみによって語られていたので,例に挙げるんだったらこれじゃなくてもよかったかも?という程度の内容でした。

Posted byブクログ

2012/02/05
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

「歴史哲学序説」という副題を冠し、「なぜキツネにだまされなくなったか」という問いを通じて従来の歴史学ではとらえられない生命性の歴史があることを説き、日本の伝統的な精神文化の世界を追う。自然観、死生観、人間観などが整理されている。 <要点> 「キツネにだまされた」という物語は1965年以降発生しなくなる。それは高度成長の展開、合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱などの変化によって、知性によってとらえられた歴史だけが肥大化し、身体性や生命性と結びついてとらえられた歴史が衰弱したからである。それ自体はとらえようがない生命性の歴史が「神のかたち」に仮託され諒解されていた時代に、人々はキツネにだまされていたのである。 <感想> 読者は表題の疑問の解答を知りたくてやきもきするが、著者の目的は歴史に対する問題意識を喚起することにある。民俗学ではなく歴史哲学の話。 人間の知性や知性によってとらえられた世界が絶対的ではないというショーペンハウエルやベルクソンらの指摘を歴史学に引きつけた、客観的・合理的な歴史学では見えない歴史があるという主張は目から鱗だった。しかし私たちは従来の歴史に染まりきっているので、それでは見えない生命性の歴史の何たるかがいまいち理解できなかった。後半に紙面を割き、歴史哲学の意義や生命性の歴史とは何かをじっくり解き明かしてくれるとなお良かった。 個人的には、自分にとっての「神」の感覚が伝統的な村の宗教に近いことが発見だった。

Posted byブクログ

2012/02/03

よく消化できていない。もう一度読み返そう。 (「歴史」というものに対する認識が少しかわったかもしれない。)

Posted byブクログ

2012/01/12
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

昔の怪談を読むと多くの狐や狸に騙された話が出てくるが、現代の怪談にこの手の話は登場せず、また信憑性も感じられない。 何時から狐や狸の話は語られなくなったか?そして何故語られなくなったのか?そんな疑問に人間と自然の関係の変化、人間を包む世界の変化から考察しています。 近代化の影で得たものと引き換えに、日本人が失ったものも多いのだと感じます。 時代を経たからといって人間は進歩したと言えるのだろうか?と感じることはありますが、その疑問の答えの糸口があるような気がします。 知性は万能では無いし、現代の感覚では推し量れない多くの歴史が在ることが分かります。 ただ少しボリューム的に少ないのが物足りなかったです。

Posted byブクログ