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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか の商品レビュー

3.5

61件のお客様レビュー

  1. 5つ

    10

  2. 4つ

    18

  3. 3つ

    21

  4. 2つ

    5

  5. 1つ

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2012/02/03

よく消化できていない。もう一度読み返そう。 (「歴史」というものに対する認識が少しかわったかもしれない。)

Posted byブクログ

2012/01/12
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

昔の怪談を読むと多くの狐や狸に騙された話が出てくるが、現代の怪談にこの手の話は登場せず、また信憑性も感じられない。 何時から狐や狸の話は語られなくなったか?そして何故語られなくなったのか?そんな疑問に人間と自然の関係の変化、人間を包む世界の変化から考察しています。 近代化の影で得たものと引き換えに、日本人が失ったものも多いのだと感じます。 時代を経たからといって人間は進歩したと言えるのだろうか?と感じることはありますが、その疑問の答えの糸口があるような気がします。 知性は万能では無いし、現代の感覚では推し量れない多くの歴史が在ることが分かります。 ただ少しボリューム的に少ないのが物足りなかったです。

Posted byブクログ

2013/06/21

失われたキツネへのノスタルジックな民俗蒐集、ではありません。 日本において、「キツネに化かされる」という話が1965年辺りを境に途絶えた(もちろん地域差はあるでしょうが)ということがあったようです。 それについて、果たして一体日本人が何を喪ったことを示しているのか、筆者は考察と思...

失われたキツネへのノスタルジックな民俗蒐集、ではありません。 日本において、「キツネに化かされる」という話が1965年辺りを境に途絶えた(もちろん地域差はあるでしょうが)ということがあったようです。 それについて、果たして一体日本人が何を喪ったことを示しているのか、筆者は考察と思いを巡らしています。 どうも私たちは、かけがえのないものを喪ってしまったようです。 喪った私たちはどうすればいいのか、については言及されていません。 私たちは「喪った」ということをきちんと認め、もう取り返しがつかないのだ、と自覚することからまずスタートしなければならなくて、それなしに「どうするか」なんて語るのは詮無いことなのだ…ということでしょうか。 明言はされていません。

Posted byブクログ

2011/10/23

大学時代に考えた「平家物語」成立の推論(「平家物語」は敗者が語り継いだ歴史、異史)を論理づける勝者の歴史・正史の考察。→歴史哲学

Posted byブクログ

2011/10/01

筆者は、1965年頃から「キツネにだまされた話」が出てこなくなったことに注目。 その理由として、1 高度経済成長によって経済が優先される価値観になったこと、2 科学を至上とする時代になったこと、3 コミュニケーションが電話やテレビなどの普及によりマスメディア中心へと変化し、人から...

筆者は、1965年頃から「キツネにだまされた話」が出てこなくなったことに注目。 その理由として、1 高度経済成長によって経済が優先される価値観になったこと、2 科学を至上とする時代になったこと、3 コミュニケーションが電話やテレビなどの普及によりマスメディア中心へと変化し、人から人への口承伝承が減って脚色の入る余地がなくなったこと、4 教育が、年長者から子どもへという継承ではなく、学校ひいては受験教育が中心になっていったこと、5 死生観、自然観の変化、などをあげる。 いずれも1960年代に大きく変化したことで、それにともなって日本人が変わった、キツネは変わっていないのに、人間の「だまされる能力」のほうが低下した、と言う。 まあ、このへんはいずれも無難な理由というか、そうだろうなと思い当たるが、3はちょっと面白い。昔の出来事をおばあさんから子、孫へ、と伝えることや、井戸端会議のような口コミには、それぞれ誇張や演出がともなうもので、その減少は確かに、科学では割り切れない不思議な話を減らしたことだろう。 人間はだまされなくなった。 だまされることは非科学的で愚かなこと、という価値観が出来上がり、誰もキツネにだまされなくなってしまった。 でも、それはとてもやせ細った社会なんじゃないだろうか? 科学的で効率的で、経済や文化が発達した文明の利を享受して豊かになったようでありながら、現在の自分たちは、キツネにだまされる豊かさ大らかさ面白さを失ってしまっている。 キツネにだまされなくなって、原発神話にだまされている。

Posted byブクログ

2011/09/16

在野の哲学者というなら、うっかりもうひとり、この内山節を忘れていました。 私が一昨年2009年7月4日に書いたカール・マルクス『経済学・哲学草稿』(岩波文庫版)の感想は、翻訳者の田中吉六のことに終始した感がありましたが、そこでは周囲を見渡して・・・・ 「たとえば今の日本で在野...

在野の哲学者というなら、うっかりもうひとり、この内山節を忘れていました。 私が一昨年2009年7月4日に書いたカール・マルクス『経済学・哲学草稿』(岩波文庫版)の感想は、翻訳者の田中吉六のことに終始した感がありましたが、そこでは周囲を見渡して・・・・ 「たとえば今の日本で在野の哲学者というと、フッサールの訳本『経験と判断』(1975年)もありますが、それより何と言っても一連のヘーゲルの著作を翻訳して私たちの理解に手を貸して下さったあの長谷川宏や、北海道に根付いて住民運動と共に実践的思想を構築し深めて来られ、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』(1977・78年)の共訳者でもあり『風の吹きぬける道を歩いて・・現代社会運動私史』(2008年)を表された花崎皋平や、2003年の刊行は話題騒然でしたが、『磁力と重力の発見』全3巻を上梓した元東大全学共闘会議代表の山本義隆などがスグ思い浮かびますが、彼らはみな東大卒という高学歴者ばかりです。」 と書いて、それに比べて 「今のところ私が知る限りでは、学校へも行かず日雇い労働者として生活して、まったくの独学で哲学を学んで著作を出したのは、田中吉六とエリック・フォッファーだけです。」 なんてふうに書いたりしましたが見落としていました、本書の著者の内山節も、義務教育として都立新宿高校を出ただけであとはまったくの独学で、1976年の26歳の時の『労働過程論ノート』から始まって共編著も含めて40冊もの著作を出しています。 彼は、いってみればウォールデン湖畔の森の中に丸太小屋で自給自足の生活を一時したこともある、あの『森の生活』の著者、ヘンリー・デイヴィッド・ソローのような人で、机上で思考するのではなく常に働くことを通して思索することを重要視している、ある意味プラグマティックな哲学する人です。 実際に彼は、群馬県上野村で畑を耕しながら森を散策して生活しています。 私が彼と遭遇したのは高校生の頃で、今まで漠然としていた働くことの意味をどういうふうに捉えたらいいのか、ということを考えあぐねて手を伸ばした本の中で、中岡哲郎の『人間と労働の未来』や『技術と人間の哲学のために』と、彼の『労働の哲学』や『自然・労働・協同社会の理論』を読むことでかなりの部分の疑問が融解された経験を持ちます。 ・・・っと、またしても肝心の本の内容的なことをスッポリ抜かして脱線していました。 この本は、めちゃめちゃ面白い内容なので必ずまた書きます。

Posted byブクログ

2012/08/28

著者は1965年あたりで日本人はキツネにだまされなくなるとしているが、その変化の理由は、人間の側では科学至上主義・村落社会とくに通過儀礼の崩壊・進学率の向上などによるものである。キツネの側(と人間が考えた理由)では、自然開発の影響で人をだませる老狐がいなくなったことである。かつて...

著者は1965年あたりで日本人はキツネにだまされなくなるとしているが、その変化の理由は、人間の側では科学至上主義・村落社会とくに通過儀礼の崩壊・進学率の向上などによるものである。キツネの側(と人間が考えた理由)では、自然開発の影響で人をだませる老狐がいなくなったことである。かつての村人がもっていた「キツネにだまされる」能力とは、要するに「自然に共感する力」であったことを指摘し、さらに身体的「技」の継承や、精神的な「共感」の歴史が、現在の歴史叙述から抜け落ちていることを指摘している。焼き畑が1950年代半ばに終了したこととか、山村での自己破産「山に上る」こととか、明治政府の修験道弾圧とか、江戸時代後期にはじまる植林とか、そういった日本の風土の歴史についても詳しく書いてある。

Posted byブクログ

2011/09/03

1965年を境に日本人は「キツネに騙される能力」を全国的に失くす。昔、民俗調査をしたことがあり、その村へ行きたくなった。

Posted byブクログ

2013/09/21

戦後しばらくの間、日本の田舎には「キツネにだまされる」という伝承が残っていたが、1965年ごろを境に、その手の話をぱったりと聞かなくなったという。著者自身によるこのような経験にもとづき、「知性の歴史」からは見えない「身体性の歴史」と「生命性の歴史」について思いを馳せている本。著者...

戦後しばらくの間、日本の田舎には「キツネにだまされる」という伝承が残っていたが、1965年ごろを境に、その手の話をぱったりと聞かなくなったという。著者自身によるこのような経験にもとづき、「知性の歴史」からは見えない「身体性の歴史」と「生命性の歴史」について思いを馳せている本。著者は、この本の企画に「歴史哲学序説」という隠れた副題を付けているそうだが、普通なら民俗学や文化人類学として扱いそうな話題を、視点を変えた「歴史」として扱おうとしているところに、著者の強いこだわりを感じた。

Posted byブクログ

2012/06/24

浦野所有 「現代人はキツネにだまされない」という話を手がかりに、戦後日本の社会構造の変化をさぐる本です。人と自然との関わり方や、集落などのコミュニティの変容を分析しながら、「人がキツネに“だまされる必要のある時代”は終わった」と説きます。 ただ、正直、内容が薄い点は否めません...

浦野所有 「現代人はキツネにだまされない」という話を手がかりに、戦後日本の社会構造の変化をさぐる本です。人と自然との関わり方や、集落などのコミュニティの変容を分析しながら、「人がキツネに“だまされる必要のある時代”は終わった」と説きます。 ただ、正直、内容が薄い点は否めません。このテーマで新書1冊を書くほうが無理がありました。話を引き伸ばし、小ネタを挟みすぎているため、肝心の「なぜキツネにだまされなくなったのか」という疑問への回答が見えにくい。 それに文章力がそれほど高いとはいえず、単調な繰り返し表現が連続します。 具体的にいうと、。「・・・・・・というわけなのである。××××××といってもいい」というような、「文字数をかせぐためだけの不必要な繰り返し」が多すぎるのです。途中からウンザリ、飽き飽きしてしまいました。 というわけで、本当は★×1と評価したいところなのですが、一つ「これは!」と思える情報があったので、評価を上げました。 それが、群馬県多野郡に生息するオオサキという動物の話です。 ま、動物というより一種の妖怪のような存在ですが、キツネやタヌキと同じように人をだますのだそうです。主に商人の両替用の秤に悪さをして、取引きを操作するのだとか。しかも姿が見えない動物だそうです。 私の田舎は群馬県(それも多野郡の北隣の旧甘楽郡)ですが、オオサキは初耳で、非常におもしろかったです。

Posted byブクログ