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犠牲 の商品レビュー

4.1

67件のお客様レビュー

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2010/08/25

一気に読んだ。 脳死、息子の自殺、家族、そして脳死による臓器移植。 果たして、家族の同意によるものだけでの脳死臓器移植は、皆が納得する形でできるのか。生死とは何なのか。改めて考えなければならないと思った。

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2010/08/15

1993年8月10日。精神を病んでいた著者の次男洋二郎氏が25歳の時に自死を選んだ。病院での経過治療、医師との対話、洋二郎氏が書き記していた日記、脳死の判断、腎臓移植提供など、その日からの11日間を見つめて。 洋二郎氏の日記はとても重いし、単純な私にはわからないことがほとんどだ...

1993年8月10日。精神を病んでいた著者の次男洋二郎氏が25歳の時に自死を選んだ。病院での経過治療、医師との対話、洋二郎氏が書き記していた日記、脳死の判断、腎臓移植提供など、その日からの11日間を見つめて。 洋二郎氏の日記はとても重いし、単純な私にはわからないことがほとんどだった。でも脳死のプロセスや心臓死のこと、日本人の死生観など著者の考えがわかりやすく書かれていてとても良かった。

Posted byブクログ

2010/06/23

自分である。 劣等感ゆえに、誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在であり続けることを恐れてしまう。 そして、これを劣等感なしに、それを超えたうえで想い続けられるところまで達すれば、完成するのだと思う。

Posted byブクログ

2009/10/04

この本を実家で見つけたとき、どうしても止まらなくなって持って帰ってきた。 なぜ今この本を読もうと思ったのか、読んでしまうのか、読んでいるのか、読めるのか。 問いかけるように読んだ。息子を自死によって亡くした著者の柳田邦男氏。洋二郎さんが脳死に陥ってしまった11日間のなまなましい葛...

この本を実家で見つけたとき、どうしても止まらなくなって持って帰ってきた。 なぜ今この本を読もうと思ったのか、読んでしまうのか、読んでいるのか、読めるのか。 問いかけるように読んだ。息子を自死によって亡くした著者の柳田邦男氏。洋二郎さんが脳死に陥ってしまった11日間のなまなましい葛藤と、逝ってしまわれてからの数ヶ月。大切な人がもう戻ってこない、逝ってしまったというおおよそ把握できかねる絶望の状況。その只中を、こうして筆を起こし、書き記そうとするその想い。半端ないのがわかるから、今、眼を逸らせなかったんだと思う。 息子洋二郎さんを想う柳田さんの優しさ、向き合う覚悟と真剣さ。個人の死というものは、物語を作ることでしか語れない。現実的には存在が消えるだけ。 脳死の現状や臓器移植に関する日本の医療の現状をよく説明されながらも私の胸を打つのは洋二郎さんの苦しみと、絶望。 そして洋二郎さんを亡くした邦男さんの断絶感覚。悲しみ。哀しみ。かなしみ。。。。 誰かの犠牲の上になりたつ平凡な日常。何不自由の無い今日明日。 自分が犠牲になれるかどうかを問う。犠牲になった人を想う。やさしい。やさしかったねとても。 残されたものはどうしたらいいだろう。いつかその尊い犠牲に報いることができるのだろうか。できるのだろうか。

Posted byブクログ

2009/10/04

柳田邦男著作の中で一番最初に読んだのは「『死の医学』への日記」だった。高校のときの国語の時間だったと思う。内容はほとんど覚えていないけどそれまであんまり読書をしてこなかった私が著者の名前をちゃんと覚えるようになったきっかけの人だと思う。 高校生のあのころから約10年目にして、「『...

柳田邦男著作の中で一番最初に読んだのは「『死の医学』への日記」だった。高校のときの国語の時間だったと思う。内容はほとんど覚えていないけどそれまであんまり読書をしてこなかった私が著者の名前をちゃんと覚えるようになったきっかけの人だと思う。 高校生のあのころから約10年目にして、「『人間の時代』への眼差し」を読んだ。が、なんだか「死の医学への日記」ほどの衝撃はなかった。だけど、氏がご子息を脳死で亡くしていたことは知っていたからいつかこの「犠牲」を読んでみたいと思っていた。 やっと今日購入して読むことができた。 まさか一日で読んでしまうなんて・・。 そもそも私が脳死・臓器移植問題に関心を持ったのはたしか中学生のときだ。 ある日、学校で臓器提供カードが配られた。たしかその当時の世界の状況を伝えるバラエティ番組で「臓器移植」がテーマになっていることが相当多かったような気がする。私は軽率だからすぐ影響を受ける。「命の奇跡」や「感動」などの言葉を鵜呑みにしていた。違和感が無かったわけではないけど、テレビでは誰も言及しないので「ま、いっか」とただ影響されていた。 学校で配られたドナーカードには提供の意思がある臓器に丸をして、自分の署名と保護者の署名を書く欄があった。 さっそくその晩に署名して、臓器はとりあえず全部○して、父親のところに持って行った。父は固まっていた。「おれはできない。お母さんのところに持って行け」。まだ自分が何も考えないで頭の中になんか違和感がありつつも「?」となりながら、風呂上りの母のところに持って行った。母は「・・・なさけない」と言って「パパのところに持って行って」と言った。あのときは両親がなんとなく悲しそうな目になっているのはわかったけどそれでもよくわからなかった。でもあれからずっと気になっていた。財布の中には保護者の署名無しのドナーカードを入れっぱなし。 大学3年のときに小松美彦先生という強烈な先生に出会った。でもこの先生のおかげで財布にいれっぱなしにしてあったドナーカードを思い出し、ついでに私が両親にしたあまりよくない思い出をとことん考える機会になった。 まず、テレビ番組を見ての私の違和感が「レシピエントの存在」に対することだったということがわかった。あの、違和感、コレだったのか!とすごくすっきりしたと同時に、この財布に入っているドナーカード・・・レシピエントの大募集を呼びかけているものだったのか、と。なんというか、世の中の報道や情報はほんとに説明不足のところがあるなあと感じた。私の違和感、両親の違和感、直感的に「なんか嫌だ」と思ってることに対して自分も他人も納得させる理由がない限り自身を持って拒否できないのは国民性ってやつなのでしょうか…なんて。国民性とか西洋合理主義とか東洋思想とかってほんとにあるのか、さえ疑わしいです。 これを読んで思い出したのは、臓器移植が「進んでいる」欧米では、どのような反対議論が挙げられていたのかということだ。今はもう完全に移植推進だけにシフトしたのだろうか。

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2009/10/04

・確かに一人称、二人称、三人称それぞれで死ってのは違うものだと思う。一人称と三人称は理解しやすいけど、二人称の死ってのは当事者になるまでは周囲から顧みるのって難しいよな。 ・脳死は死に至るプロセス。脳死の後に心停止が待っているのは確実で、植物状態とは違うってのは一般にちゃんと理解...

・確かに一人称、二人称、三人称それぞれで死ってのは違うものだと思う。一人称と三人称は理解しやすいけど、二人称の死ってのは当事者になるまでは周囲から顧みるのって難しいよな。 ・脳死は死に至るプロセス。脳死の後に心停止が待っているのは確実で、植物状態とは違うってのは一般にちゃんと理解されてるかな。 ・脳死を死と認めるって考え方はホントに移植ありきの考え方だな。脳死から心臓死までの間に臓器を取れれば移植の成功率とかが上がる。それはわかる。でもそれを制度として脳死=死でOKとしようとするってのはどうかと思う。作者と同意見。 ・んでもって、脳死者本人や家族の移植に対する姿勢を酌みとって、希望によっては脳死を死として移植をOKとするってのは柔軟で良い方法に思える。なんでこんな簡単な事を脳死について騒ぐ時に誰も言わんのか。 ・さて。俺だったらどうなのかな。脳死と心臓死が完全に直結しているのなら、脳死で死としてもらってもいいかもしれないな。でもその死を二人称として見る家族の意見も尊重したい。移植で自分のいのちが繋がって行くのは素晴らしいことだけど、家族の気持ちを無視してまでそれは優先したいことなの?確かに崇高ではあるけれど、という気持ちにもなる。 ・自分の尊厳死だったり、いのちを繋いで行くことだったり、何を望むかキチンと話しておく必要を感じた。ちゃんと話さなかったら誰だって心臓死まで看取りたいと思うもん。 ・どうも脳死論ばっかりになっちゃうのは、精神障害とか自死とかについてあまり考えたくない自分がいるのかな。 ・低体温療法で脳死寸前から回復したケースについて書く作者は、自分の息子にこの療法を試していれば、とは書かない。そこがいたましい。

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2009/10/04

柳田邦男が息子を亡くしたときの葛藤を書いた真面目な本。 脳死のなんたるかについて考えたい人はぜひ読んでください。

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2009/10/04

 自殺した著者の息子の読書傾向が私そっくりだったのには驚いた。よく考えれば私もこみゅにけいしょんなるものは苦手だし、ネガティブシンキングは誰にも引けは取らないと思っている。何故私は自殺せず、著者の息子は自殺したのだろうか。きっと著者の息子の方が真面目だったからだろう。  読んでい...

 自殺した著者の息子の読書傾向が私そっくりだったのには驚いた。よく考えれば私もこみゅにけいしょんなるものは苦手だし、ネガティブシンキングは誰にも引けは取らないと思っている。何故私は自殺せず、著者の息子は自殺したのだろうか。きっと著者の息子の方が真面目だったからだろう。  読んでいるうちに何故私は精神の病に陥らなかったのか、いや、本当に陥っていなかったのだろうかと自問自答しているうちに、もしかしたら高校時代の私はいつ精神を病んでもおかしくない状況にあったのではないかと思いはじめた。  真面目なインテリを親に持つということは大変なんだろーなぁ。

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2009/10/04

著者が心を病み25歳にして自ら命を絶とうとし脳死状態に陥った次男と過ごした11日間を家庭の状態を赤裸々に語りながら、脳死について医学的な見地ではなく、あくまで家族という二人称的視点から捉え、述べている。 またそれだけにとどまらず、死は最大の敗北とする現代医療のあり方をも批判してい...

著者が心を病み25歳にして自ら命を絶とうとし脳死状態に陥った次男と過ごした11日間を家庭の状態を赤裸々に語りながら、脳死について医学的な見地ではなく、あくまで家族という二人称的視点から捉え、述べている。 またそれだけにとどまらず、死は最大の敗北とする現代医療のあり方をも批判している。 なによりも著者の次男が生前書き記した日記から、次男を真剣に捉えようとする姿勢と息子を想う気持ちには涙せずにいられなかった。 自己犠牲による生の否定が、人に受け継がれ生の肯定になるのではないかということを考えた。

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2009/10/04

著者が心を病み25歳にして自ら命を絶とうとし脳死状態に陥った次男と過ごした11日間を家庭の状態を赤裸々に語りながら、脳死について医学的な見地ではなく、あくまで家族という二人称的視点から捉え、述べている。 またそれだけにとどまらず、死は最大の敗北とする現代医療のあり方をも批判して...

著者が心を病み25歳にして自ら命を絶とうとし脳死状態に陥った次男と過ごした11日間を家庭の状態を赤裸々に語りながら、脳死について医学的な見地ではなく、あくまで家族という二人称的視点から捉え、述べている。 またそれだけにとどまらず、死は最大の敗北とする現代医療のあり方をも批判している。 なによりも著者の次男が生前書き記した日記から、次男を真剣に捉えようとする姿勢と息子を想う気持ちには涙せずにいられなかった。 自己犠牲による生の否定が、人に受け継がれ生の肯定になるのではないかということを考えた。

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