犠牲 の商品レビュー
柳田家の4人家族のうち著者を除く3人が精神的な病と闘っていたのには驚き。自殺した次男は脳死状態を経て死んだが、その短い足跡を綴った息子への鎮魂歌である。中学生同士のちょっとしたふざけあいから事故がおこり、そこから精神的に追い詰められていく。彼の悩みは、誰の役にも立てず、誰からも必...
柳田家の4人家族のうち著者を除く3人が精神的な病と闘っていたのには驚き。自殺した次男は脳死状態を経て死んだが、その短い足跡を綴った息子への鎮魂歌である。中学生同士のちょっとしたふざけあいから事故がおこり、そこから精神的に追い詰められていく。彼の悩みは、誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在、ということ。そのためか、闘病中に書き綴った小説を自費出版することで彼の生きた証を残し、臓器提供をすることで他人のためにも生きた。彼の死後、関係のあった人から遺族への暖かい励ましの言葉があるが、人は、なぜ彼が生きているうちにもっと深くやさしく対峙出来なかったのかを悔やむ。「親孝行 したいときには親は無し」という川柳が、わが身の身勝手さと、その後に来る自責の念を伝える。自分ののほほんとした生き方に喝!
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脳死。自分がそうなったら意識がないのだから死と同じ、延命治療は不要。そう思っていた。知ってるつもりでいたけれど、何にも分かっていなかったんだと思った。 脳の機能は失っていても身体が語りかけてきて、それを身内は感じる。そんな状況を経験したらとても脳死イコール死といったドライな考え方...
脳死。自分がそうなったら意識がないのだから死と同じ、延命治療は不要。そう思っていた。知ってるつもりでいたけれど、何にも分かっていなかったんだと思った。 脳の機能は失っていても身体が語りかけてきて、それを身内は感じる。そんな状況を経験したらとても脳死イコール死といったドライな考え方を持ち続けることはできないんじゃないか。自分が声をかけると脳死状態にある人の血圧が上がったら、人工呼吸器を外すなんてことは考えられなくなりそう。 実際に脳死状態に陥った人の家族として経験された方ならではの意見はとても考えさせられるものがある。
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この本を古本屋さんで見つけたとき、正直これほど感動するとは思っていませんでした。 打ちのめされました。壮絶な苦悩がこの家庭にはあり、普通ならなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと運命を憎むかもしれません。 でもこの家庭は違いました。壮絶というより むしろ崇高という言葉...
この本を古本屋さんで見つけたとき、正直これほど感動するとは思っていませんでした。 打ちのめされました。壮絶な苦悩がこの家庭にはあり、普通ならなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと運命を憎むかもしれません。 でもこの家庭は違いました。壮絶というより むしろ崇高という言葉がしっくりきます。 崇高な生き方ではないでしょうか。犠牲…というタイトルに込められた深い意味を理解するでしょう。
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脳死に向き合う父親の、情に寄り切らず、理にも寄り切らない、率直な思いと考えを述べたドキュメンタリーである。洋二郎氏は存命であったなら恐らく優れた作家になってであろう感性と文章力を感じさせられるが、彼自身の好きだった作品名を章名に用いて作品名もタルコフスキーの「サクリファイス(犠牲...
脳死に向き合う父親の、情に寄り切らず、理にも寄り切らない、率直な思いと考えを述べたドキュメンタリーである。洋二郎氏は存命であったなら恐らく優れた作家になってであろう感性と文章力を感じさせられるが、彼自身の好きだった作品名を章名に用いて作品名もタルコフスキーの「サクリファイス(犠牲)」から拝借している。 愛する人の「実感とは異なる死」と対峙したとき、医学的法的解釈では到達し得ない「何か」を11日間の感情や思考の変遷とともに的確に言い表している。死は点ではなくプロセスと捉え、死を状態ではなく受け止める側の在り方なのだと感じさせられる。特に臓器移植を決意したあとに、腎臓の提供は許諾したものの膵臓は見送る行は遺族の微妙な感情の立ち位置を理解させる。洋二郎氏が逝去したとき「マタイ受難曲」のアリアの「憐れみ給え、我が神よ」が流れたのは、クリスチャンでないものに対しても死の神秘と尊厳な印象を与えざるをえない。 脳死というものを考えるとき理論や定義ではなく死生観への配慮はもとより、賢一郎氏が語るように臓器提供=医療に参加するという敬意の念が求められるのであろう。息子の死という痛みを伴いながら脳死というものに対して改めて議論を提起しており色々と考えさせられた。
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まず、毎日なかなか意識しない「生と死」の存在を再確認させられた。次に、うやむやにしていたドナーの意思表示。おそらく高校生の頃、なにかの校内での集会で渡されたカード。カードで意思表示するだけでなく、家族にも伝えておこうと思う。
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ノンフィクション作家、柳田邦夫さんの息子、洋二郎が自死をはかる。これまでの息子との会話から、息子が何を望んでいたか、父親としてどうするべきなのかを考え、臓器移植を決意していく。その決意までの思考を「生と死」「脳死問題」「臓器移植」などをキーワードにして、一人称、二人称、三人称の視...
ノンフィクション作家、柳田邦夫さんの息子、洋二郎が自死をはかる。これまでの息子との会話から、息子が何を望んでいたか、父親としてどうするべきなのかを考え、臓器移植を決意していく。その決意までの思考を「生と死」「脳死問題」「臓器移植」などをキーワードにして、一人称、二人称、三人称の視点をおりまぜて書かれている。 私が「脳死」や「臓器提供」について考えたのは、きっと将来の進路を決めた中学生の終わり、高校生の始まりの頃だった気がする。両親に「脳死になったら臓器提供したい」という意思表示をしたところ、反対された覚えがある。いまだに、臓器提供したい気持ちは変わらないが、私はこれから母親の立場になる。果たして、自分の子が「脳死」「臓器提供」という場面になったら、私は賛成するのだろうか。反対するのだろうか。 このキーワードはもぉ世の中の様々な出来事に埋もれつつあるワード。時代が少し進んだ時に読んでも再考するきっかけを与える本だと思う。
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心を病んでしまった息子(洋二郎)が自殺を図って病院に搬送されてから脳死に至るまでを綴ったエッセイ。 臓器移植や脳死判定の手順等が詳細に書かれていてます。 洋二郎が書いた短編小説も収録されており、心を病んだ洋二郎の心境の考察を試みていました。 エッセイなので著者の主観も入っていま...
心を病んでしまった息子(洋二郎)が自殺を図って病院に搬送されてから脳死に至るまでを綴ったエッセイ。 臓器移植や脳死判定の手順等が詳細に書かれていてます。 洋二郎が書いた短編小説も収録されており、心を病んだ洋二郎の心境の考察を試みていました。 エッセイなので著者の主観も入っています。 自分は個人的に、この著者は生理的に受け付けられないタイプだと思いました。なんとなく「そんなんだったから、俺は言ってやったよ」とか、「こんなに苦しんでいる人がいるんだからお前もこうしろ(著者はこうは言っていません。あくまで私の感想です)」といタイプが苦手な方にはお勧めできません。
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ノンフィクション作家として、航空機事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントを多数発表している柳田邦男氏が、1993年に25歳にして精神疾患から自殺を図り、脳死状態で11日間を共にした次男・洋二郎氏を追悼するために著した作品。1994年に文藝春秋に掲載されたものに加筆、再構成し...
ノンフィクション作家として、航空機事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントを多数発表している柳田邦男氏が、1993年に25歳にして精神疾患から自殺を図り、脳死状態で11日間を共にした次男・洋二郎氏を追悼するために著した作品。1994年に文藝春秋に掲載されたものに加筆、再構成し、更に別途発表した脳死・臓器移植論を加えて、1995年に出版、1999年に文庫化された。1995年に菊池寛賞受賞。 内容は、洋二郎氏が自殺を図った日から、脳死を経て、心肺停止状態になるまでの11日間を、洋二郎氏が精神を病み始めた中学時代以降の追想、及び洋二郎氏の残した日記や文章を断章として加えて、克明に綴ったものである。 柳田氏は、本作品の執筆の動機を、「あえて簡潔にいうなら、彼の究極の恐怖心を取り除いてやるためだといおうか。・・・彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった」と語っており、また、洋二郎氏の生前の意思に沿って、心肺停止後、腎臓移植(自らドナー登録をしていた骨髄移植はできなかったが)も行っている。 しかし、洋二郎氏の持っていた“究極の恐怖心”とは、実は全ての人間のものであり、我々は、自分の死に対し、自らがどのように折り合いをつけるのか、死んだ人間に対し、残された人間がどのように対処するのか、自らのこととして常に考えておかなければならない。 自ら及び大切な人の死と生について、改めて考えさせる一冊である。 (2006年7月了)
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2016.2.22.読了魂が震えた本。ノンフィクション作家、柳田邦男さんの次男洋二郎さんは、25歳の時に突然自殺をはかる。とりあえず、その時は一命をとりとめたものの、いわゆる脳死状態におちいってしまう。その状態を見守りながら、臓器移植を決意するまでの柳田さん、そして実兄の心の過程...
2016.2.22.読了魂が震えた本。ノンフィクション作家、柳田邦男さんの次男洋二郎さんは、25歳の時に突然自殺をはかる。とりあえず、その時は一命をとりとめたものの、いわゆる脳死状態におちいってしまう。その状態を見守りながら、臓器移植を決意するまでの柳田さん、そして実兄の心の過程を描く。一刻も早く新鮮な?臓器が欲しい医療関係者。少しでも望みがあるならば命を助けて欲しい家族。矛盾する両者の溝を埋めることができるのか。ご自身の体験から、読者が納得できる結論を出されていたことが印象的だった。生きていても仕方ないと思う命を骨髄移植などで役立てたいという洋二郎さんの気持ちを思うと涙が出て仕方がなかった。中学の時の偶然の事故による目に後遺症によって本人も家族もしらない間に心の病を患い、学校に行けなくてってしまった洋二郎さんの苦しみを知り、柳田さんが慙愧に堪えない気持ちになるのが親として辛かった。一人称の死、二人称の死、三人称の死という概念にとても説得力があった。
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脳死患者からの臓器移植が法的に認められるようになりました。現在数百万枚のドナーカードが配布されているとも言われています。もちろん、みながきちんとサインしているわけではなさそうですが。臓器を交換しなければ長く生きられない人たちにとって、これは待ちに待った法律だったことでしょう。しか...
脳死患者からの臓器移植が法的に認められるようになりました。現在数百万枚のドナーカードが配布されているとも言われています。もちろん、みながきちんとサインしているわけではなさそうですが。臓器を交換しなければ長く生きられない人たちにとって、これは待ちに待った法律だったことでしょう。しかし、脳死は本当に人の死と認められるものでしょうか。日本で長く受け入れられなかったことにはそれなりの理由があるのではないでしょうか。本書の著者は医療などにもくわしいノンフィクションの作家です。彼の次男は中学生のころ目にけがをして、それ以来精神的に不安定な状態にありました。特に大学に入ったころからは対人恐怖がひどく初対面の人たちの中に入ると生きた心地がしなかったようです。この次男はたくさんの日記をつけていました。短編小説も書き残しています。大変な読書家でもあったようです。安部公房と大江健三郎を好んで読んだようです。内省的すぎたのでしょう。教会に通ったり、精神障害者の施設へボランティアに行ったりして、自分を理解してもらえる人にも出会っています。でも、将来の自分に自信が持てず、結局は自ら死を選ぶことになります。数日で脳死状態に陥ります。父親(つまり著者)や長男が相談して、そして本人の意志をできるだけ尊重できるように無理な延命措置はしない、何か世の中の役に立つことがしたいと考えていた本人の気持ちをくんで、心臓死後の腎臓移植をすることになりました。(当時はまだ脳死患者からの移植は認められていなかった。)本書で著者は、この自分の肉親の脳死という難しい状況に直面することによって、「二人称の死」という考え方にたどりついています。自分の死(一人称の死)はもう考えることもできません。他人の死(三人称の死)は客観的に考えられます。それならきっと脳死を人の死と認められるでしょう。でも身近な人の死(二人称の死)ではそう簡単に割り切れません。いまだ顔色はよく、体はあたたかい。血液は流れているのだから。それを死と認められるのか・・・本書を読んでじっくり考えて下さい。個人的な感想・・・私も安部公房が好きで、この次男と同じように学生時代は物理学専攻でした。性格的にも、ちょっと他人事としてかたづけることができませんでした。自分が脳死状態になったら、あるいは逆に臓器が必要になっても、私は臓器移植を希望しません。臓器を単に部品と考える考え方にはなじめないからです。ただ、自分の愛する人たちが臓器が必要になったとき、自分の考えはたぶんもろくも崩れ去るのでしょう。
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