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ブラフマンの埋葬 の商品レビュー

3.5

111件のお客様レビュー

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2009/10/07

何冊か読んだ小川洋子の作品の中で、この本は少し趣が異なる作品だ。小川洋子と言えば「記憶」ということに強いこだわりを見せる作家であると認識していたのだが、この「ブラフマンの埋葬」の回りで巡っている自分の思考の中にそのキーワードに該当するものは無いように思う。 もうしばらく前にこの...

何冊か読んだ小川洋子の作品の中で、この本は少し趣が異なる作品だ。小川洋子と言えば「記憶」ということに強いこだわりを見せる作家であると認識していたのだが、この「ブラフマンの埋葬」の回りで巡っている自分の思考の中にそのキーワードに該当するものは無いように思う。 もうしばらく前にこの本は読み終えているのだが、なかなか感想が書き出せないでいる。どうも読み終えた後に良くも悪くも普通ならコップに水を満たすように溜まってくる筈の感情や思考の端くれみたいなものが、一向に満ちてこない。何か見落としているのだろうか、あるいは何かとてつもない勘違いをしているのだろうか、と少し不安ですらある。 確かに、小川洋子は自分にとって読み易い作家ではない。作品が、そして、作者が、余りにピュアであるように感じるので、少し本に熱中してしまっている自分を発見すると気恥ずかしくなるのだ。ぶるぶると身震いをし、こっそり当たりを見回して誰にも見られていないのを確認したくなるような気にさせられることが多い作家なのだ。それでも、これまで読んだ本はどれも何か心の器に静かに溜まってくるものがあったし、特に「博士の愛した数式」はとてもよかった。その純粋さゆえ、登場人物が全て能面をつけているかのような印象になりがちな作品が多いように思う小川洋子だが、この本ではどの登場人物の表情も柔らかく、熱があり、寂しさが滲んでいた。ところが、この「ブラフマンの埋葬」は、どの人物にも表情が、ない。 隔絶された小さな村。かりそめに住まう人々。誰一人として、存在感を持つことのない登場人物たち。最もこれは、小川洋子の好んで描く設定でもあるので、それ自体が格別悪いわけではない。しかし、そこに沸き起こっている筈の感情の波が感じられない。その村にいる唯一の本当の住民。外の世界との接点である雑貨屋。その主人と娘。更にその外側の世界との接点である鉄道の駅。二重三重に守られたその村と同じように、本に登場する人物の感情はあくまでも伏せられている。もちろん、多少の浮き沈みは描かれるのだが、弾力性に富んだゴムの塊をつぶした時のように、それは直に元の形に戻ってしまい、全体を通してあたかも沈黙が保たれているかのような印象が残るのだ。住人たちは互いに慎重に相手との距離を測り、相手の感情を揺さぶらないように気を付けている。まるで、うっかり踏み込んでしまうと、切れ味の鋭いナイフですっと自分の体を傷つけてしまうのではないかと怖れているように。 そんな中で、唯一他人の感情に気を取られることもなく、自らの感情を思いのままに表出させているのが、ブラフマン、という不思議な生物である。それは犬のようでもあり、あるいはまた、地球上の生物ではない未知の生き物のようでもある。しかし不思議なことに主人公である青年はブラフマンの気持ちの波を敏感に感じ取れる。そしてその感情の波に軽く翻弄されていることすら喜んで受け入れている。ブラフマンもまた青年の行為に対して素直な反応を返してくる。青年とブラフマンは密かに心を通いあわせているようだが、実は、それは確かなことではない。単なる幻想に過ぎない可能性もある。 ああ、そういうことなのかも知れない。小川洋子が描いているのは、他人との関係ということなのかも知れない、と今気づいた。 相手と解り合えているかどうかなんて、しょせん自分自身の中での堂々巡りの考えの果てに行き着く2つ選択肢の1つに過ぎないし、それを確かめる手立ては存在しない。そのことを極端に描いてみせたのが「ブラフマンの埋葬」であるのかも知れない。本の中に登場する青年と人とは相手のことを考え過ぎるが故に返って解り合える距離まで接近することなく、相手に感情というものがあるのかどうかすらはっきりしない生き物であるブラフマンとは、何も気にすることなく束の間の「解り合えている」という幻想を楽しむことができる。そして、訪れるブラフマンの死。皮肉なことに、その死は、青年が密かな恋心を抱く雑貨屋の娘と最も接近した時に起きてしまう。 しかし、何か消化しきれない感情の澱が残る。もちろん、そういう澱が残ってもいいのだけれど、何かしら居心地の悪さから逃れられない。いつまでも体をぶるぶると振るわせないではいられない気分がまとわりつく。きっと自分は何かを見逃しているのだろうと、また、思う。

Posted byブクログ