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ためらいの倫理学 の商品レビュー

3.9

64件のお客様レビュー

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タイトルが小難しそう…

タイトルが小難しそうで敬遠されるかもしれませんが、中味を読めば、笑えます。(作者は「寝ながら学べる構造主義」などで有名。専門はレヴィナス)おじさん的思考がうかがえる本。買い、です。

文庫OFF

2021/12/13

よし、、カミュを読もう。となりました。 内田さんの文章を読むと、次に何を読もうか(何について自分は知らず、何について知っている人になりたいのか)という視点が得られるという効能があるように思います。 早速書店でカミュの「異邦人」「ペスト」を手に取りました。楽しみです。

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2021/04/16

多様な問題に白か黒か断定的な立場を取るのは一見知的だけど 本来知的な人とは、知らないことを知る「無知の知」を知り、無知を隠さない人だ という視点で様々な問題を論じた本 ただ中身は難しい笑 この考えを持っとくと本当に信頼できるのは誰かがわかる気がする

Posted byブクログ

2019/10/28

カミュについて語ったタイトルになってる論考を読みたくて買う。 反抗、を、ためらい、と読み替えるとこにやっと納得。 カミュとかそのことを読んでていつも違和感のある、反抗とかの厳しい言葉と内容のあいまいさ。 ためらい、だ。 感情を失った理念を批判するペストはまさにこれだろう。人...

カミュについて語ったタイトルになってる論考を読みたくて買う。 反抗、を、ためらい、と読み替えるとこにやっと納得。 カミュとかそのことを読んでていつも違和感のある、反抗とかの厳しい言葉と内容のあいまいさ。 ためらい、だ。 感情を失った理念を批判するペストはまさにこれだろう。人間らしいためらいを忘れた人間の恐ろしさ。 SNSには、ためらいを感じるための「顔」がない。 ムルソーの状態だ。 そうではなく、顔と顔を向き合わせて発言すること。 そのときにためらいがうまれるだろう。 それは弱さではない、抗いだ。 自分の中にある正義への抗いだ。 スピノザは、道徳的な絶対的な善悪を否定し、倫理的なよいわるいを関係性のなかで解いた。 まさにこれではないか。道徳的な善をなそうとしたときに、それをためらわせる倫理観。 場面ごとの関係がうむ倫理によって、「ためらうことをためらうな」とでも言えばいいのか。 自分のなかの勝手な道徳観による自動的な、論理的な結論を自動的に遂行することに抗え、ためらわずにためらえ! そういうことかと思う。

Posted byブクログ

2018/10/18

現代思想のセントバーナード犬 「批評性の硬直」状況から何とか抜け出ること ”生活者の実感”のステレオタイプにも”専門的知見”のステレオタイプにも回収されない、ふつうの人のふつうの生活実感に基礎づけられた平明な批評 そちらの言い分とこちらの言い分が出会う局面を設定 「どうです、...

現代思想のセントバーナード犬 「批評性の硬直」状況から何とか抜け出ること ”生活者の実感”のステレオタイプにも”専門的知見”のステレオタイプにも回収されない、ふつうの人のふつうの生活実感に基礎づけられた平明な批評 そちらの言い分とこちらの言い分が出会う局面を設定 「どうです、ここは一つ、中をとって・・・」 私が黙っても誰も困らないが私が困る 「なるほど、それもごもっともです。しかしそれでは私の立場というものがない、どうですここはひとつ・・・」 無限に中をとり続ければ言葉に窮することはない。 おのれが主体であることを一瞬も疑わない、その圧倒的で索莫とした自信から発する重苦しさ ”誰が“戦争を起こしたか・・・”誰が”なんてことはあり得ない 自国の歴史の暗部について、恥辱の気持ちを持つことは、その栄光に対して誇りを持つことと同じくらい大事なことである。 中学生の多数は、教師や親の知見からではなく、彼ら固有の狭隘な人間関係とその閉じられた空間を支配している稚拙なイデオロギーの圧倒的な大気圧化で世界観や人間観を形成している。 知的動機に駆られて歴史の教科書を開く中学生が一体何人いるだろうか。 日本は、右したり左したり、じたばたすることによって結果的に何もしないですませる、というふるまいをもって21世紀の国際社会を生き延びる戦略 大山鳴動鼠一匹的パフォーマンスの知恵 さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住みよくしてくれるのは、「自分は間違っているかもしれない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。 フェミニストは、家事は知的で楽しい作業であり、生産的、創造的な主体を要求するという考え方を危険なものとみなす。「二流市民へのドロップアウトのリスクなしに、家事労働は担当できない?」 有用ではありうるがそれは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のもの システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーである限り、それは社会の活性化にとって有用である。 おじさんはあまりイデオロギー的に先鋭化することを私は好まない・・等身大の穏やかな営みを通じて、家族と地域社会と職域の集団を支えていくのが「おじさんの道」 一義的に定義はできないが、効果的に利用することはできるようなもののことを「道具概念」とか「操作概念」と呼ぶ。→「気」 いやだなと思っていたのは、要するに「セックスコンシャス」の高さと知的な開放性みたいなものがリンクしているという図式に対してだったようだ。 私たちは、テクストのうちに必ず「読むつもりのなかったもの」を発見してしまう。そして無意識のうちにそれを読むまいと目をそらす。 この抵抗こそ、抑圧されたもののありかを指し示す最も的確な指標 ”読みとばせ、理解しようとするな”・・・ 真に反省的な読み手とは、自分が批判しているイデオロギーをテクストの中に発見する人ではなく、読みつつある自分の中でその当のイデオロギーが「抵抗」として活発に作動していることに気づく人のことである。 複雑な問題に接するときの基本のマナーは、「できるだけ複雑さを温存し、単純化を自制する」 単純な進歩史観だけでは説得されない。なぜそれがあるのか、人間というのはとても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ。 最近は、「意味がわからない言葉があっても気にしない」「ノリのよい文章を読んで気分がよくなること」を求めている。 私の交通能力を始めから過度に低く設定するのは、おのれの交通能力を過大評価するのと同じくらいに有害である。コミュニケーションの不可能な相手と身をよじるようにしてなおコミュニケーションを試みる私のシステムのきしみから、「愛」は起動するのではあるまいか。 罪責感と自己免責のないまぜになった「腰の決まらなさ」こそ、私が「とほほ感覚」と呼ぶもの。 おのれを「無垢にして無力なもの」として提示するのはよくない。 暴力が不可避だが暴力の正当化には反対

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2017/09/03

ためらいの倫理学―戦争・性・物語― 内田樹21冊目 初期の本ということもあり、やや難しい感じがした。特にレヴィナスについては、難しいと思うことが多かった。印象に残ったところは“私は知性というものを「自分が誤りうること」(そのレンジとリスク)についての査定能力に基づいて判断するこ...

ためらいの倫理学―戦争・性・物語― 内田樹21冊目 初期の本ということもあり、やや難しい感じがした。特にレヴィナスについては、難しいと思うことが多かった。印象に残ったところは“私は知性というものを「自分が誤りうること」(そのレンジとリスク)についての査定能力に基づいて判断することにしている。平たく言えば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価が出来るかを基準にして、私は知性を判定している―p145”という文章。本の後半で表れる「とほほ主義」というもののこれに近い。誰かを断罪したり、自説の正しさを懸命に主張するのではなく、自分が犯しうる失敗や他人にかけるうる迷惑についてクリアに予想し、それをしないように努めるということをしようじゃないかという風に解釈した。物語についてという節の「徹底的に知的な人は徹底的に具体的な生活者になる」という言葉も、自己認識を突き詰めたところ、それは哲学書などではなく日常にその成果が表れるということを言ってるんじゃないかと思う。自分の邪悪さを認識している人は、自分の邪悪さを認識していない人よりも邪悪なことをなしえないというパラドキシカルな言葉はまさに名言だ。つまるところ「汝自身を知れ」ということなのかな。最近の自分のお気に入りの「脚下照顧」という言葉も、なんだか近いものを感じる。特に戦争や性について声高に相手の責任や社会システムを批判するひとは、内田的に言えば知性的ではないのである。まずは自分の周りを出来るだけ幸せにしてから、その輪を広げていこうという内田の経験則的教訓が本書にもにじみ出ている。 他者論は正直よくわからなかったが、自分なりの解釈では、他者というものはよくわからないということが全体にある。最大公約数もなければ最小公倍数もない、同じパラダイムで語ることが出来ないものである。どうにも解釈できないものは、同時にどうにも解釈できる。トランプでいうジョーカーのような、まったくもって異質のものである。貨幣論でいえば、徹底的に価値のない紙切れが徹底的に価値を持つ紙幣となるように(ビットコインとかに至ってはもはや記号でありデータ、使用価値は全くない)、他者はどうにもこうにも分からない存在である。だから、他者を「愛する」必要がある。畏怖し、歓待し、聞き従い、慰める必要性がある。愛するという感情程複雑で、両義的な感情はない。それは言語におけるジョーカーである。他者というジョーカーに充てられるものは、やはり言語におけるジョーカー「愛」なのだろう。わからないものに対してわからないものを充てるということは、あんまりないようでよくある。明治時代の日本が外来語が、漢語に訳されて輸入されたように、よくわかんねえからよくわかんねえままとりあえず使ってみるかという具合に。他者はよくわからない。でもそのわからなさ具合がより人を引き付ける。こんな感じかな。 本書にもある通り、物語ろうとすることは、知ろうとすることである。なんだかレビュー書いてるうちに、わからなかった本のわからない箇所について読んでる時よりも知ることができた(気がする)。

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2016/04/05

初めての書籍化文書らしいのですが、基本的な態度は後年のものと変わらず。 相変わらずの「そう、そうなのよ!」感。 学術的な文章はそれなりに分かりにくいけど。

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2017/11/29

著者のデビュー作です。「なぜ私は戦争について語らないか」「なぜ私は性について語らないか」「なぜ私は審問の語法で語らないか」「それではいかに物語るのか―ためらいの倫理学」という4つのテーマのもとに、著者が雑誌などに発表した論考が収録されています。 「あとがき」で述べられている、「...

著者のデビュー作です。「なぜ私は戦争について語らないか」「なぜ私は性について語らないか」「なぜ私は審問の語法で語らないか」「それではいかに物語るのか―ためらいの倫理学」という4つのテーマのもとに、著者が雑誌などに発表した論考が収録されています。 「あとがき」で述べられている、「自分自身の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということばに、本書の中心的な思想は集約されているように思います。著者はこのようなスタンスに立って、愛国心、戦争責任、女性の解放、そして「他者」といった主題について審問の文法で語ることのパフォーマティヴな水準における問題を、鋭くえぐり出しています。 著者の基本的な思考の構えが、すでにこの本で明瞭に示されていますが、あえていえば近年の著者の文章に見られる、武術など「身体の知」への傾倒はまだはっきりとは語られていません。そのぶんクリアカットな批評になっているような印象を受けました。

Posted byブクログ

2015/02/28

ネット右翼や教条主義的左翼の氾濫する今日に、どこまでもフェアに、ニュートラルに日常性からずれることのない場所に自身の知性を置く街場主義は注目に値する。「とほほ」主義、つまり自身のいかがわしさを十分理解したものがとり得る現実への態度はよく判るが、が、が、しかし、そこでどうして高橋源...

ネット右翼や教条主義的左翼の氾濫する今日に、どこまでもフェアに、ニュートラルに日常性からずれることのない場所に自身の知性を置く街場主義は注目に値する。「とほほ」主義、つまり自身のいかがわしさを十分理解したものがとり得る現実への態度はよく判るが、が、が、しかし、そこでどうして高橋源一郎なのか。後期資本主義、戦後民主主義の達成としての自己満悦があの馬面をつくったのではなかったか。

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2015/01/25

著者はかなり風変わりだとは思うが大学の教授ではあるので、書いてることの半分ぐらいは良く分からないし、4分の一ぐらいはまったく分からない。のこり4分の一はまあ、納得できる話である。 結論として「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが...

著者はかなり風変わりだとは思うが大学の教授ではあるので、書いてることの半分ぐらいは良く分からないし、4分の一ぐらいはまったく分からない。のこり4分の一はまあ、納得できる話である。 結論として「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということを手を換え品を買え、執拗に繰り返し主張しているとのことなので、よく分からないところにも、まあ解ったところに書いてあることが書いてあるのでありましょう。 正しい日本のおじさんの生き方をいかに綱領化するか、それが現在の思想的急務であるそうである。正しい日本のおじさんの生き方とはいかなるものか。 とほほ主義というのがキータームか。『「とほほ」とは自分は「局外」にあるかのような発言はしないという強い覚悟であり、同時に「局内」というのが「檻の中」でしかないという寒々しい断念である』 自分が正しいという前提で、審問者として議論するのではなく、自分が間違っているということも含めて吟味していくことであると思うと、やはり冒頭に書いた(本では最後に書いてある)結論に帰結するのである。

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