死に至る病 の商品レビュー
斎藤信治先生が一番よく取り上げておられた本だと思う。病気になった友人にこの本をお見舞いにあげたのは、上梓されたばかりの頃だったからだろうが、「死に至る病」は決して死ぬことはないのだから縁起がいいのだ、と強弁したという話は何度聞いても笑えたものである。 しかし、この本の本質をよく...
斎藤信治先生が一番よく取り上げておられた本だと思う。病気になった友人にこの本をお見舞いにあげたのは、上梓されたばかりの頃だったからだろうが、「死に至る病」は決して死ぬことはないのだから縁起がいいのだ、と強弁したという話は何度聞いても笑えたものである。 しかし、この本の本質をよく表しているし深いのではないか。その後「死に至る病」を斎藤流に解釈した話は聞かない。みんな浅いなあ。
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人はいつも頭の中で自分のあるべき姿というものを作り出し、それになろうとする。しかし、「いまここにあるがままの自分」は決してその像とひとつになることはできない。 あるべき自分像は、内心の要求でもあれば、社会や周囲の人々の要請から作り出してしまうものでもある。これに重なろうとするこ...
人はいつも頭の中で自分のあるべき姿というものを作り出し、それになろうとする。しかし、「いまここにあるがままの自分」は決してその像とひとつになることはできない。 あるべき自分像は、内心の要求でもあれば、社会や周囲の人々の要請から作り出してしまうものでもある。これに重なろうとすることは、長期的に自分の人生をどこにも連れて行ってはくれない。その場しのぎで向きの変わる、目的を持たない風である。 決して達成できないこと、達成できたとしても自分をどこへも連れていってくれないこと。そんなことに向かって努力を積み重ねている生が絶望(=死に至る病)である。キルケゴールは、この絶望は自覚の有無によらずそこにあるもので、自覚した人は一面では不幸だが、そこから立ち上がるなら、自覚さえしない人よりも幸福である、と言う。信仰の始まりは、自分こそ何よりもどうしようもない者であると知ることであり、その好機によって、阿弥陀仏による救済ははじまっている、という嘆異抄の不思議な一節に重なる。 文化も時代も越え、古くから蓄積されてきた人の心、人生についての普遍的な知恵の存在を感じずにはいられない。根っこの部分ではとてもよく似ている。 思考は、あるべき自己像を作り出す。考えられる限り自由に、都合の悪いことからは目を伏せて。 まず、本当の自分を見つめること。そして世界を見つめること。この2つは一つのことである。世界から自分が知れ、自分から世界が作られる。その中間に立てられた自己像は、この今ここにいる自分と世界(キリスト者である著者は神と呼ぶ)、最小と最大の「自分」の中に溶かしてしまう。 その中で、自分というのは自己像のようになんでもありの自由なものではなく、ある不可能と可能を、必然と可能性を等しく与えられ、ある形を持った働きとしてこの世にあるはずである。この「必然」こそが重要で、これが自分に与えられた「場所」なのだという。この、世界と自分との関係によって定められ与えられた場所を無視して、抽象的に自分像というものを描くことが絶望なのだ。本当の自分というものに近づいたなら、それは自ら欲したり意思するのと同じくらい、何か大きな世界によって定められ、導かれていると感じるものであるらしい。そしてそれは、ひとつの限定、規定であるにもかかわらず、忌々しい拘束であるよりもむしろ、安心して身を委ねられる大きな流れとして感じられるようで、これがどうやらかつて「神」「信仰」の意味していた深いものである。 鈴木大拙いわく、東洋的にいう「自由」とは「自ら」に「由る」こと、自らが備え持った形に従った働きが十全に出ることで、制約からの解放や、なんでもありのことではないそうだ。この東洋的自由にとても近い呼吸がここにある。
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なんだって、翻訳されたもの(とくに哲学とかそういう関係の)はこんなにも難解な書きかたがなされるのか…。意訳し過ぎも大変だとは思うけれども、柔らかく噛み砕いて、っていうのはおおよそ無関係なものなのだろうか…。
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第1編は難しくてさっぱりわからない。それに比べて第2編はわかりやすい。罪の反対は不信仰、罪の極みは躓き、など。
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難解で、陰鬱で、読後も解ったんだか解らなかったんだか、自分でも今ひとつ整理できないのだが、それでも何年かに一度手にしたくなる本。(特にキリスト者以外の)絶望の回避、絶望からの脱出方法について、自分で考えるのが面白いのかも知れない。
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文学部として、そっれぽい本を一冊読破してやろうと買った本。 字小さくて読みにくいし、キルケゴールが言っていることを理解するのはすごく難しい。 哲学好きな人。 ぜひご覧あれ。
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「死に至る病とは絶望のことである」――有名な言葉ですが、この場合の絶望とは、一般に想像するそれとは異なる、もっと人間の存在に関わることである、そう論ずるのが本書です。入手から4年にして、キェルケゴールの代表作をやっと読破できました。 前編では冒頭の言葉が副題として掲げられ、絶望の...
「死に至る病とは絶望のことである」――有名な言葉ですが、この場合の絶望とは、一般に想像するそれとは異なる、もっと人間の存在に関わることである、そう論ずるのが本書です。入手から4年にして、キェルケゴールの代表作をやっと読破できました。 前編では冒頭の言葉が副題として掲げられ、絶望の種々の形態が論じられます。が、延々と描写される絶望者の生々しいまでの内面を読んでいると、だんだんと「読まされている」ようなたまらない感覚になってきます。なにしろ著者は、絶望は人間という実存をけっして捉えて離さず、いったんそこに入り込んだ者は容易には絶望から抜け出すことはできない、しかも当人が自身の絶望を意識していればいるほど、その度合いは重く脱することもより困難になる、ということが、延々100ページにわたって綴られているのです。しかもそこまで書いているのに、肝心の絶望の対象や本質には、ごくごく抽象的なことだけでしか触れられていないのです。何より恐ろしいのは、絶望者の生き方が現代社会に生きる人々に驚くほどに合致してしまうことでしょうか。「なりたい自分」「自分探し」果ては「自己実現」。10年前くらいから頻繁に聞くようになったそういったものすべてに、絶望に通じる危うさが潜んでいるのではないのか。そう思えるのです。キェルケゴールは一体どうして、これほどまでに絶望した人間の内面を洞察することができたのでしょうか。 そして後編には「絶望は罪である」という副題がついています。罪といってもcrimeではなくsinのほうですが、絶望することは神に対する罪である、と今度は説いていきます。しかし、罪であると宣告しそれを糾弾する文章には、同時に著者の優しいまなざしが含まれています。「絶望者よ、神の慰めを受けなさい。神はあなた方の絶望を慰めさせてくれと、身をやつしてまで嘆願なさっておいでなのだから」と。そこには、一人の人間の「実存」は、神の前にあって初めて明らかになるという思想がしっかりと流れています。 キェルケゴールのいう「絶望」とはすなわち神の信仰の喪失である、ということでしょうか。「信仰の喪失」という語句は本書では一度も使われませんが、読んでいてそんな言葉が浮かびました。PTSDのより重篤な疾病概念としてべセル・ヴァンダーコルク氏らの提唱した「DESNOS」には、この神の信仰の喪失が診断基準の具体例として挙げられているそうですが、これがどれほどの意味を持つのか。改めて理解してショックを受けました。 (2005年入手・2009年2月読了)
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この作品は絶望について始終言及しているといっても過言ではない。 そういうこともあって、初めて手に取る人はこの本に非常に陰鬱なイメージをもたれるかもしれないし、実際読んでみて陰鬱な気分になったりするかもしれない(経験者談)。 そうだとしても、私はどうしてもこの作品を絶望的な作品だと...
この作品は絶望について始終言及しているといっても過言ではない。 そういうこともあって、初めて手に取る人はこの本に非常に陰鬱なイメージをもたれるかもしれないし、実際読んでみて陰鬱な気分になったりするかもしれない(経験者談)。 そうだとしても、私はどうしてもこの作品を絶望的な作品だと認めることができない。 絶望を通り越した希望がそこにあるからである。
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今最も大切な本は?と聞かれれば、これを挙げるかもしれない。 この本は、熱烈なキリスト者であるキェルケゴールが、真のキリスト者とはどういうものかを語っている。それを無宗教者の僕は、キリスト教ではない人間に普遍的な価値の問題として突きつけられた。 「死に至る病」とは絶望のことだ。絶望...
今最も大切な本は?と聞かれれば、これを挙げるかもしれない。 この本は、熱烈なキリスト者であるキェルケゴールが、真のキリスト者とはどういうものかを語っている。それを無宗教者の僕は、キリスト教ではない人間に普遍的な価値の問題として突きつけられた。 「死に至る病」とは絶望のことだ。絶望とは、「真の自分自身」から逸れてしまっていることを言う。だから、夢に敗れて希望を失った状態だけでなく、安逸に浸って高い人間性を見失ってしまった状態もまた絶望である、と説く。ここでキェルケゴールが言う「絶望」とは、普通われわれが使う意味を含みながらも、かなり違う概念として使われている。 キェルケゴールは、「完全に自分自身であることができる人間はいない」と言う。誰もが本当の自分になれず、不純物を自分自身の中に抱えている。つまり程度の差はあれ、誰もが絶望とは無縁ではない。その絶望を詳述することで、いかに絶望を逃れ、本当の自分(実存)をとらえることができるかを、かつてない高みから説く。のちにニーチェ、ハイデガー、サルトルらに続く実存主義の祖と見なされている。 20世紀の知の巨人であり経営学の祖P・F・ドラッカーは、キェルケゴールを、我々が住むバラバラの世界をもう一度統一した世界にするためには、キェルケゴールまで遡らなければいけないと言う。僕がこの本を手に取ったのも、ドラッカーの小論文「もう1人のキェルケゴール」を読んだのがきっかけだった。
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作品の内容はともかく、人間の生み出したものであるにもかかわらず人間を躓かせ、罪を与え救済を与える神は無神論者のニコにとっては本当に衝撃的だった。 異教徒を徹底的に排他するキリスト教の恐ろしさはほかでもなくこの作品で学びました。
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